5 それは何に対する贖罪なのか

 事務所に侵入した。明かりが無いため室内は薄暗い。しかし栄田が昼間に神父と話をしたときと家具の配置は変わっていないのは分かる。


 ドアの様子を伺いながら、室内を見回す。特に変わった形跡は無い。


 机の前に移動した。机上を見つめる。シーリングスタンプや羽ペンと言った見慣れない文房具が多少ある程度で、特に違和感は感じない。


 机の引き出しを開いた。作りが粗雑なため開けるのに少々手間取る。一番下の大きな引き出しを開き、中の物を机上に出した。


「ん?」


 新しいファイルや革製の表紙の聖書らしきものに混じって、明らかに古い本があった。和紙のようにも感じる古めかしく薄汚れたページにボロボロの表紙で、細い紐のようなもので綴じられている。栄田が今まで見てきた本の中でも特に古い時代のもののようだ。


 表紙を眺める。教会にある本にしては珍しく表題は漢字。ページをペラペラとめくるが、中身もすべて漢字で書かれている。ところどころの挿絵は筆と墨で描かれているようだ。


「鬼甦法(きこうほう)か」


 自身の右肩にひやっとした感触を覚えた。栄田が気がついた時、沙雪が栄田の背後に浮かび、本を覗き込んでいた。


「鬼甦法?」

「大陸に古くから伝わる死人返りの邪法。自然の理(ことわり)を捻じ曲げ、死者を化け物に作り変える悍ましき業よ」

「菅野神父は誰かを蘇らせようとしていた……」

「この鬼甦法を使ったのかは分からぬが、呼び戻したい誰かがおったことは確かであろう。すでに呼び戻したのやもしれぬ」

「静とかいうガキか……」


 身の毛もよだつ言葉が沙雪の口から平然と流れ出てくる。栄田の手が止まった。そのページには、女性と思われる死体の額に“魑”という文字が書かれている挿絵が入っている。


「しかしこれは……」


 沙雪が口を開く。その声色にいつもと違う何かを感じた栄田は、沙雪の顔を振り返った。


 沙雪の顔は普段どおりだ。表情に乏しい。


 だが、普段から沙雪と接している栄田には、沙雪の違和感が掴めた。


 沙雪はほんの少しだけ口角を上げ、目はかすかに熱を帯びていた。まるで新しい玩具を目の前にした子供のように、目を輝かせているようにみえる。


「ここまでの闇を抱えた者だとは思わなんだ……」

「……」

「胸が躍るぞ……」


 沙雪のその様子は妙に不穏なものに栄田の目に映った。底知れぬものを感じ固唾を飲んで見守っていたときだ。


「栄田。あの菅野とかいう男、礼拝堂で何をやっているのだ」


 と、珍しく沙雪の方から話題を振ってきた。二人の間に、しばしの間が空いた。


「……あ、ああ」

「呆けておるのか」

「いや……」

「そもそも礼拝堂とは何をする場所だ」

「神への……キリスト教の神だが、そいつへの祈りをする場所のはずだ」

「行ってみぬか。これほどの闇を抱えた者が、神への祈りと称して一体何をやっておるのか、私も興味がある」

「そんな暇はねぇだろ。あの神父が只者じゃねぇことは分かったんだ。あとは何か手がかりみたいなものを探さねぇと」


 沙雪の提案を栄田は最初断ろうとした。実際に興味本位で菅野神父の行動を確認する時間的余裕もなければ、そうしなければならない理由もない。神父の行動の確認の必要性は皆無だ。


 だが。


「この私が検分せよと申しておるのだ」

「……」

「参るぞ栄田。あの者の闇を検分しに礼拝堂とやらへ」


 そう言い、沙雪は栄田に無言の圧をかけてくる。沙雪の髪の毛先が持ち上がり、力の高まりのようなものが栄田にも肌を通して伝わる。


 そんな沙雪を前に、栄田は『拒否する』という選択肢を失った。背中に何か冷たいものを感じ、沙雪の言葉に戸惑いながらも従うことしか出来なかった。




 廊下を礼拝堂に向かって進む二人。目当ての礼拝堂が近づくにつれ、二人の耳に届く音があった。一人の男の悲鳴と荒い息遣い、そして何かを鞭で打ち据える音だ。


「何をやってんだ……?」


 息を殺して礼拝堂に近づく。扉が少しだけ開いており、そこから礼拝堂の明かりが漏れ出ている。栄田は静かに、音を立てずに隙間から中の様子を伺った。


 室内……礼拝堂のキリスト像の前に、菅野神父はいた。下着のみを身に着けた姿で、肌はミミズ腫れだらけだ。身体を小さく縮こませ、肩を大きく上下させている。


「ハァッ……ハッ……ハッ……」


 菅野神父の息が荒い。しばらくして息が整ってきた神父は、その手に持っている縄の束のような鞭を勢いよく自分の背中に打ち付けた。


「ァアッ……!?」


 室内にバシンと痛々しい音が鳴り響き、菅野神父は悲鳴を上げた。身体に赤い新しい傷がいくつも刻み込まれ、中には皮膚が破れ血がにじみ出ている箇所もあった。


「!? なにやってんだ!」


 たまらず栄田はドアを開き、礼拝堂に入った。足早に菅野神父の元に駆け寄り、痛みでうずくまるその身体を抱えあげる。


「大丈夫か!?」

「んがぁあッ!?」


 それと同時に、菅野神父は刺さるような悲鳴を上げた。栄田の手が、神父の傷を直に触れていたようだ。栄田が手を離すと、神父の血が手の平にうっすらとついている。


 栄田は改めて菅野神父の身体を見た。神父の身体は本当に傷だらけだ。血が滲んでいる傷も一つや二つではない。これは昨日今日やり始めた者の背中ではない。何日も何日も、毎晩のように鞭で打ち据えていた者の背中だ。


「刑事、さんですか……」

「そうだ。昼間会った栄田だ。……あんた、何をやってるんだ」

「ハァハァ……邪魔を……しないで、下さい……」

「邪魔するなって、ヒドい怪我だぞ! 治療しないと……」

「これは……贖罪なのです……」


 菅野神父の耳に、栄田の心配はまったく届かないようだ。ふらふらと立ち上がり、束になった鞭を再び手に取る。その背中は小さく、そして痛みからかカタカタと震えている。


「おい人間」


 沙雪の声が礼拝堂に響いた。栄田が振り向くと、すでに沙雪は姿を隠しておらず、沙雪は宙をふわふわと漂うその姿を晒している。


 菅野神父も沙雪を見た。人間ではない不思議な存在を目の当たりにしたはずの菅野神父は、意外なことに動揺している素振りは見せない。


「あなたは……人ではないのですか……?」

「私の素性などどうでもよい。お前は今、たしかに贖罪と申したな」

「はい。この苦行は私の贖罪なのです」


 沙雪の言葉は冷たい。初めて栄田と相対したときのような、極めて冷酷な冷たさのようなものがある。


「この鞭打ちの行も右足も、私自身の罪を贖うためのものです」


 そう言って、菅野神父は自分の右足に触れた。ふとももに革のベルトが巻かれている。ベルトには一定間隔で金具が取り付けられてあり、その金具が神父の足に深く食い込んでいるようだ。その様を見た栄田は、少し顔をしかめた。


「それだけの苦行を伴う贖罪……よほど罪深き男と見た」

「……そうですね。私は罪深い」

「お前は一体どのような罪を犯したのだ」


 菅野神父は栄田をチラと伺った。苦痛で息は乱れているが、その眼差しに『助けてくれ』という懇願の意思はなさそうだ。突然現れた正体不明の少女に問い詰められ、意味がわからないといった素振りに感じる。


「刑事さん、これは……?」

「この女は沙雪といって、俺の連れだ。俺たちは一連の浮浪者連続殺人事件の犯人はあんただと思ってる。今日はその証拠探しに侵入したんだよ」

「なるほど……」

「それから、さっき事務所を物色したときに、こんな本を見つけた」


 栄田は懐から鬼甦法を出し、それを菅野神父の足元に投げた。先ほど事務所を出る際に、栄田は懐に忍ばせておいたのだ。神父はそれをチラと伺ったが、その仕草に動揺はまったく感じられない。


「こいつは死人を生き返らせる方法らしいな」

「……」

「それが今回の殺人事件に関係しているかどうかはわからねぇが、俺が知ってる中ではあんたが一番犯人クサい」

「……死人を蘇らせるなんて、まるでおとぎ話じゃないですか」


 そう言って、菅野神父は力なく笑う。だが栄田はたじろがず、神父の顔をまっすぐ見据えながら沙雪を指差した。沙雪もジッと神父を見据えながら、ふわふわと宙を漂っている。


「あいつは人間じゃねぇ。妖怪の類いだ」

「……」

「俺たちはそういうことに慣れてる。死人が生き返ったなんて聞いても今更驚きゃしねぇ」

「なるほど……」

「それでも今回の事件の犯人は捕まえなきゃならねぇ。何が起ころうとも世の中は回る。たとえ何があろうとも、犯罪者は捕まえるのが警察だ」


 そこまで言い終わると、栄田は手を下げ、ポケットに入れた。ポケットの中の飴の包み紙がカサカサと当たる。自分が禁煙していたことをその感触で思い出し、心の中で舌打ちした。


 そんな栄田と沙雪を、菅野神父はしばらく交互に見比べていたが、やがて観念したようにふぅっとため息を付いた。そして右足を引きずりながらキリスト像の前まで歩いて行く。


 どこに行くのかと栄田は問いただそうとしてやめる。菅野神父が手を伸ばした先にあるのは、真っ黒な修道服。昼間に神父が着ていたもののようだ。時折痛みで顔を歪ませながら、シュルシュルと音を立てて神父は修道服を着た。やがて首に金の十字架をぶら下げ、栄田が昼間に会話した時と同じ格好となった。


 右足を引きずりながら、菅野神父が二人の元へと戻ってきた。


「お二人とも。刑事さんに……ええと……」

「こいつは沙雪だ」

「沙雪さん。私について来てください」




 そうして、栄田と沙雪は教会の奥へと案内された。礼拝堂のキリスト像の下に隠し扉があり、それを通り抜けると地下へと続く階段が伸びていた。


 階段を降り、真っすぐ伸びた地下道を進む。壁と床、そして天井はレンガが敷き詰められており、空気は少し湿っている。等間隔に設置された小さなランプだけが明かりだ。薄暗い通路を三人は静かに進んでいく。


「こんな地下道、よく作ったな」

「元々この教会は私が建てました」

「あんた、神父になる前に大工でもやってたのか?」

「まさか……私は神に仕えることしか生き方を知りません。すべて素人仕事ですよ」

「事務所のテーブルも素人仕事だった。あれもあんたが作ったのか」

「……いえ。あれを作ったのは別人です」

「別人?」

「ええ。この教会にいるシスターです」


 静かに会話をしながら進む栄田と菅野神父。


 そんな三人の耳に、時折届く音があった。人の絶叫のようだ。


 それは痛々しく、張り上げているだけで喉を痛め、血を吐きながら叫んでいるようにも聞こえる。


――ァ゛ァ゛ァ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!


 その絶叫の正体を掴むべく、栄田は菅野神父を問いただすが……


「なんだ今の叫び声は」

「行けばわかります」


 そう言って、神父はまったく取り合おうとしない。


 先に進むに連れ、叫びの音量と頻度が高くなってくる。そしてその叫びが聞こえるたび、栄田の耳には……


――痛いよ 痛いよ 助けて神父様


 そんな、少女の悲痛な泣き声のように聞こえて仕方なかった。


 さらに、異変は叫びだけではない。沙雪もまた、地下道に入ったあたりから様子がおかしい。


 沙雪は栄田の背後にフワフワと浮かんで黙っている。栄田と菅野神父の会話にも口を挟まないが、二人の会話を集中して聞いているわけでもないようだ。


「おい沙雪」


 一言も喋らない沙雪を不審に思い、栄田が何度か沙雪に声をかけたが、沙雪はまったく返事をしない。だがその真っ赤な眼差しは瞳孔が開き、髪は静かに毛先が持ち上がっている。


「……」


 頬が少しだけ紅潮している沙雪の様は、栄田からは胸の高鳴りを抑えきれていないようにも見えた。


 教会の外観に比べて驚くほど長い地下道を歩き、その長さに栄田が辟易し始めた頃だった。三人の前に木製の湿ったドアが姿を現した。


「……こちらです」


 菅野神父がうやうやしく口を開く。三人の眼前のドアはボロボロだ。地下のせいか表面がしっとりと湿っている。よく見れば、ひっかき傷や血の跡もいくつか見えた。のぞき窓はない。ただ、大きなドアノブと鍵穴があるだけだ。


 栄田を悩ませたあの叫びは、ドアの向こうから発せられているようだ。轟音にも等しい血まみれの絶叫が、ドアの向こうからひっきりなしに響いている。


 無意識のうちに栄田は拳銃を構え、銃口をドアに向けていた。


「怖がらずとも大丈夫ですよ」

「うるせぇさっさと開けろ!」

「わかりました」


 ふぅとため息をついた後、菅野神父は懐から大きな古めかしい鍵を取り出した。そしてそれを鍵穴へと入れ、ガチャリと鍵を外す。ドアがギギギときしみ、少しずつ開いていく。


 そしてドアが開いていくにつれ、向こう側から届く絶叫がより大きく、より鮮明に、より悲痛に聞こえるようになっていく。


 ドアが開ききった。中の様子を見て、栄田は目を見開いた。沙雪は胸の高鳴りを堪えきれないように広角を上げて室内を凝視する。菅野神父は表情を動かさない。


 部屋の中は薄暗いが、それでも室内のいくつかのライトで中の様子は二人にも把握できた。部屋の中心には留置場ほどの広さの牢がある。


「ぁぁぁあああああア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!」

「お二人とも。ご紹介します」


 その牢の中で、ズタボロで血まみれの修道服をまとった一人の少女がいた。肌はどす黒く変色し、いたる所にかきむしったかのような痛々しいひっかき傷がついている。口からは黒く濁りきった血をダラダラと垂れ流し、叫ぶたびに口からゴボゴボと血のあぶくが湧き出ている。


「ァ゛ァ゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!! ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」


 栄田は少女の目を見た。灰色に濁りきったその瞳は、もはや蕩け切ったかのように黒目と白目の区別がつかない。声を張り上げる口は歯が数本抜けていて、残っている歯も欠けていたり汚れていたりと不潔極まりない。口の周りには乾燥した血がびっしりとこびりついている。爪が伸び切った汚い手で、少女はバリバリと頬をかきむしった。腐っているかのように頬の肉がボロボロと剥がれ落ちた。


 栄田と沙雪をその場に残し、菅野神父は牢に近づいた。神父が近づくにつれ、少女の叫びが激しく、大きくなる。腐りきった両手で牢を掴み、力いっぱいにガクガクと揺らし始める。牢全体が今にも崩壊しそうにガタガタと震えるが、神父はそれでも冷静だ。


 叫び狂う少女の腐った頬を愛おしそうに軽く撫でると、菅野神父は二人を振り返った。


「静といいます」

「ぁ゛ぁ゛あ゛!!! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」

「この子は、この教会のシスターです。……そして、私の娘です」

「ァ゛ァ゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!! ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」


 少女と菅野神父を見る栄田の目は、嫌悪感で歪んでいた。

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