警部補の男と赤子喰らいの女

おかぴ

骨を吐く

 和室の床の間。栄田宗介は羽織ったコートの内からリボルバー式の拳銃を出した。


 シリンダーを覗くと、弾丸は6発全弾装填されている。雷管の部分に梵字の彫刻が施されたその弾丸は、宗介が知り合いの僧侶に特別に作らせたものだ。怨霊や妖怪の類のものにも効果的にダメージを与えることが出来る代物である。


 その銃口を、栄田は目の前の男へと向ける。その男こそ、今回の主婦失踪事件の犯人にして、痩せ細り骨と皮だけの怪物となった壮年の男性、野村誠である。


 拳銃を握りしめる栄田の両手からは、恐怖や躊躇は感じられなかった。


「吉池幸(さち)はどこへやった」


 栄田は静かに呟く。その声は静かだったが、部屋の中にドクンドクンと響く臓物の脈動のような音にも紛れず、はっきりと聞き取れる声だ。


 栄田に拳銃を向けられた野村は、壁にもたれて座り込み、その血まみれの体を疲れ切ったようにグッタリとさせている。


「幸のことか……?」

「そうだ」

「『あなたを待ちます』と言ったくせに、俺が戦争に行っている間に他の男と結婚して俺を捨てた、幸のことか?」

「そうだ。そしてお前が誘拐し、どこかに隠した吉池幸だ」


 嗚咽交じりの野村の声と、宗介の声が交互に部屋に響き渡る。床の間の壁や障子、いたるところに血が飛び散っている。ろうそくの明かりに照らされ、その血の赤がぼうっと部屋に浮かび上がっているように栄田には見えていた。


 血まみれの野村が顔を上げ立ち上がった。その両目から流れているのは涙ではない。充血した両目から流れているのは赤黒い血だ。返り血でもない。ピクピクと痙攣する両目から、ダラダラと赤黒く変色した血が流れ続けていた。


「あの女は! 俺を裏切った!! 俺の女なのに……俺を待つと言っていたのに!!!」

「混乱したご時世だ。女一人で生きていくには苦労が多すぎた」

「俺だって必死に帰ってきたんだ!! 幸が待っている……幸が俺を待っている……ただそれだけを支えに、ただ幸だけを思って!!!」

「あんたの人生には同情するが、だからといって吉池幸を誘拐して許されるわけじゃない」

「食うものもない……仲間はどんどんマラリアで倒れていく……そんな中でも!! 俺は、ただただ幸の元に帰るために!!! 生きて帰ってきたんだぞ!!! 友人の肉を焼いて食って!!」

「あんたたち軍人には頭が下がる。あんたたちは戦争で本当によくしてくれた。だが、吉池幸を誘拐していい理由にはならない」

「吉池幸じゃない!!! 清州だ!! あいつは!!! 清州幸だ!!!」

「いいや吉池幸だ。彼女は結婚したんだ。あんたとは別の男と結婚して、幸せになったんだよ」

「違う!!! あいつは俺の女だ!!! 吉池なんかじゃない!!! 野村幸になる女なんだ!!!」


 栄田は、口から血のあぶくを吐き続ける野村との口論を続けた。




 野村は、先の戦争で大陸へと渡った陸軍の軍人だった。大陸へと派兵された野村を待っていたのは『死の行軍』と呼ばれる過酷な行軍。熱帯雨林という慣れない環境を、総重量100キロ以上の装備を背負い、食糧不足に耐え未知の伝染病を恐れながら、ただひたすら徒歩で突き進む……そういった中で野村は、愛する女、幸の元に帰ることだけを胸に抱いて、生還した。


 生還し、自分を待ってくれているはずだった幸を訪ねた野村が見た光景……それは、自分ではない身なりの良い男性の隣で、小さな子供を連れて歩く、笑顔の幸だった。


 かつては自分にしか見せていなかった……夢にまで見た幸の眩しい笑顔は、自分ではない別の男に向けられていた。ただそれだけのために、死んだ友人の肉を食らって生き延びて帰ってきたのに。幸のその輝いた笑顔は、自分ではなく別の男に向けられていた。


 野村ではない別の男に向けられたその向日葵のような笑顔は、その瞬間、野村を壊した。


 壊れた野村は、小さく古い借家で一人で暮らし始めた。たった一人の孤独な時間は、すでに壊れていた野村の精神をさらに打ち据え、崩していく。


 夜になると、野村の身体に人間の顔が浮かび上がった。その顔は、かつて野村が生きるためにその肉を食らった友人の顔にそっくりだった。


 その顔が野村に囁いた。


――俺の死体を食らってまで生き延びて、その結果がこれか?


 野村は友の顔が浮かんだ自分の身体を、何度も何度もかきむしった。皮膚が破れ血がにじみ、露出した肉を引きちぎっても、その顔は野村の精神を削り取る囁きをやめなかった。次の日の朝には再び友の顔が身体に浮かび、野村に呪いの言葉を囁き続けた。


 目を閉じれば、幸の笑顔が目に浮かんだ。その笑顔はどこまでも明るく美しい。その美しさは、野村の心の孤独と悔しさを一層重くし、野村の精神をノミのようにガリガリと容赦なく削り続けた。


 そんな夜が続いたある日、野村は自分の瞼を包丁で削いだ。それでも、目を閉じれば幸の顔が目に浮かび続けた。


 声を上げて泣けば、その自分の嗚咽に幸の声が紛れて聞こえた。その声を聞きたくない野村は、自分の舌を噛みちぎり、耳を自分の指でえぐった。それでも、幸の声は野村の耳に届き続けた。




「俺はもう人間じゃないんだろう」

「……」

「削いだ瞼も次の日には元に戻ってる。剥いだ皮も毟り取った肉も、次の日には元通りだ。両目をえぐったら、翌朝には腹に目が出来ていた」


 そう言いながら、野村は栄田の目の前で自分の右腕をもぎ取った。左手で右手首を掴み、無造作に引っ張っただけで、右腕は肩からスポンと取れた。


 途端に血が吹き出したが、その直後、もぎ取ったその肩口から新たな右腕が生えていた。痩せぎすの身体とは釣り合いの取れない筋肉質の腕だ。そして、眼と耳がびっしりと生えている、異形の腕だ。


「これは、幸が他の男のところに行ったせいだ。俺を待って俺と結婚していれば、俺が化け物になるなんてことはなかった」

「その通りかもしれないが、誰も吉池幸を責められない。吉池幸が生き伸びるためにはお前とは別の男に嫁ぐしかなかったんだ。あんたが生きて帰るために友人の肉を食ったように、吉池幸も、生きるためにはあんたを裏切らなければならなかったんだ」

「うるさい! あいつは清州幸だ!!」


 野村の頭が、ボコッと音を立てて変形した。右のこめかみが不自然に膨らみ、そして裂ける。開いた傷口には歯が生え、中で舌が動いていた。その口は、『俺の女』『幸』『愛してる』と、いびつな声で叫び続けている。


 その惨状を見ても、栄田はうろたえない。微動だにせず、ただ静かに銃の照準を野村の眉間に合わせ続けている。


 栄田は、そんな野村に質問せずにはいられなかった。


「もう人間には戻れないのか」


 しかし、その問いには答えがすでに出ていることは、栄田にもすでに分かっている。


 ガクガクと痙攣する野村の両目から、どす黒い血が流れ出した。口からも唾液が混ざり泡立った血が溢れ出した。その様は、栄田の問いを否定していた。


「戻りタい……!」

「……」

「戻って……もう一度、幸の笑顔が見たイ……!! そシて、幸を抱イテ……感触が残るまで、抱きしメテ!!」

「そうか」

「幸……さチ……ッ!! アイシて……!!!」

「辛いだろ。今殺してやる。人の形が残っている今のうちに」


 栄田は引き金を引いた。パンと音が鳴り、怨霊調伏の加護が乗った弾丸が野村の眉間に命中する。それは命中するなりゴンと重い音を立て、野村の眉間のみならず、頭部を根こそぎ削りきった。


 頭部を失った野村の身体は、ふらふらとバランスを崩した。首から赤黒い血が噴水のように吹き出し、からくり人形のようにカクカクと両手を動かし始める。倒れずに立ち続けている様子から、野村はすでに人間ではない。


「足りないか」


 続けて5回、栄田は引き金を引いた。今度の狙いは野村の頭ではなく身体。銃声が鳴る度、化け物と化した野村の身体に大穴が空き、足と腕が弾け飛んだ。これは銃の衝撃だけでなく、その弾丸の怨霊調伏の力のためだ。


 足を失った化け物の身体はグシャリと崩れ落ちた。足元に溜まっていた血が飛び散り、栄田のコートに飛沫がかかった。


 栄田は拳銃に新しい弾丸を込めつつ、化け物に注意を払う。この弾丸の威力は絶大だが、それでも化け物を殺しきれないケースはよくある。殺し損ねたことを知らずに油断をしていれば、死ぬのは自分。ゆえに最後まで気を抜くことは出来ない。


 栄田の心配は的中した。まだ人間の形を残した化け物の左腕がぴくりと動いた。栄田はすかさず銃口を向け、引き金に指を当てた。


 その瞬間、化け物の身体は吸引器に吸い込まれる粉状の物質のようにゾゾゾと舞い上がり、そして栄田の背後の何かに吸い込まれていった。


「馳走になった」


 聞き慣れた女の声が聞こえた。


「まだ生きてたんだぞ」

「まだ生きておるうちにと思うてな。おかげで不味くはなかった」


 栄田は拳銃をしまう。振り返ると、そこにいるのは真っ白な着物を着た少女。歳は15、6程度に見える顔つきだが、それにしては体格が華奢だ。灰色がかった白髪と透き通るように白い肌は、少女の存在感を限りなく皆無に感じさせる。ただ、その真っ赤な眼差しだけが、少女の存在をその場に留まらせているかのように輝いていた。


 表情は無い。真っ赤な色に反して、その眼差しは一切の感情を感じさせない。まったく温度のない眼差しで、少女は栄田をジッと見つめていた。もごもごと口だけを動かして。


 栄田はため息をつきながら、拳銃を懐にしまった。眼差しには先程までの緊張感はない。


「ったく……いつもいつも食いやがって……」

「お前も常に飯を食っているではないか」

「俺は化け物を生きたまま食った覚えはねぇぞ」

「踊り食いだと思えばよかろう。魚を生きたまま切り刻んで食うのは美味と聞いたぞ?」

「うるせぇ」


 互いに軽口を叩き合う。軽口の内容とこの場が血まみれの居間であることをのぞけば、その様子は一般的な男女の会話と何ら変わりがないように見える。


 この少女の名は沙雪。人外の女である。栄田に取り憑いており、常に栄田とともにあった。栄田が人間以外の者と対峙した際は、こうやって最後に相手を食らうこともあった。


 もごもごと口を動かす沙雪が、ぴくりと動いた。


「ん。栄田」

「なんだよ。俺は忙しいんだよ。吉池幸を探さなきゃならねーんだ」

「その吉池幸とかいう女。歳はいかほどだ」

「23て話だな。お前よか若いのは確かだ」

「背の高さは?」

「お前よりちょい高いぐらいだな」

「乳飲み子が一人おったはずだな」

「それがどうした」


 いまいち要領を得ない沙雪の言葉に、栄田は真意を掴みきれない。


 栄田が首を傾げていると、沙雪が何かを足元にぷっと吹いた。その様子は、口の中に残った果物の種を吹き出すようにも見えた。


 途端に二人の足元に人間の骨がゴロリと転がった。それは人間の腰骨……骨盤と呼ばれる部位である。


 その意味が、栄田にも理解出来た。


「人間の骨だ。これは腰の骨であろう」


 沙雪の極低温の声が、静かに居間に響いた。


「この骨、大きさから言って女のものだ。子供を一人生んで間もないようだな。故に吉池幸とやらの女の骨で間違いなかろう。……ちょっと待て。アバラも残っておる。やはり女だな。二十歳過ぎの女の骨だ」

「骨だけで分かるのかよ。なんでだよ」

「前にも食ったことがある」

「もはや自分が何をしてたのかわからなかったのか野村のやつ……吉池幸を抱きしめたかったんじゃねーのかよ……」


 やるせない表情の栄田に比べ、沙雪は終始無表情だ。再び何かをぷっと吐いた。二人の足元に、今度は溶けかけの肋骨が転がった。


「やめろ」


 拳を握りしめ、栄田は沙雪に静かにそう言った。しかし沙雪は一向にやめようとしない。三度、足元にプッと骨を吐いた。溶けかけの頭蓋骨と腕の骨のようだった。


「お前たちも魚の小骨が口に残ったときはこうやって出しておるではないか」

「うるせぇやめろ」

「私も骨は口に残る。下品な所作だが許せ」


 突如、栄田が力いっぱいに沙雪の和服の襟を掴んだ。そして沙雪を背後の壁に力いっぱい叩きつけ、そして怒気のこもった眼でにらみつける。


「そういう問題じゃねーんだ! いいからやめろ! もう吉池幸を口から吐き出すな……!!」


 栄田の声は静かだが、強い怒気を含んでいた。互いの顔が近づき、鼻先が触れた。


 自身の鼻先で渾身の怒りをぶつけられた沙雪は、しかしまったく冷静だった。


「案ずるな。乳飲み子の骨はない」

「……ッ!」

「死んだのが女一人でよかったな」


 栄田はしばらくの間、歯をギリギリと食いしばりながら沙雪を睨みつけていた。しかし、沙雪は一向に冷静なままだ。


 暖簾に腕押しのこの様子は、ほどなくして栄田から怒気を抜いた。やがて栄田は呆れたように自身の頭をかき、そして沙雪の襟から手を離した。


「ったく……ガキが食えなくて不満か? 妖怪赤子喰らいさんよぉ」

「不満など無いし、その名は必ずしも正確ではない。私は乳飲み子を喰ろうたことは、あの日の一度しか無い」

「やかましいクソッタレが。結局今回も行方不明者見つからずかよ……」

「報告書とやらか? 起きたことをそのまま、ありのまま書けばよかろう」

「書けるかよこんなヨタ話」

「真実は信じられず、嘘の方が真実味があるか。……人の世は、いつの間にか生き辛いものになったものだな」

「お前が人だった頃とは時代が違うんだよ時代が」


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