6 眩く尊き思い出
「アナ、アナ、アナタトコノコ……トテモナカ、ガ、イイ、ヨウ……デス、デス、デスデスデス、ネ」
「……」
「ボク、ボク、モ……タ、タ、タ、タダ、ダダダ、チヨ、コ、サント、ソウ、ナリ、ナリ、ナリ、ナリナリナリタタタタタタタイタイタイタイ、ダケ、ナンデ、ス」
宙に浮かぶ沙雪が、痙攣しながらしきりに何かを喋っている。何を言っているのか栄田にはいまいちよく聞き取れないが、どうやら栄田と沙雪の関係に嫉妬しているようなことを言っているようだ。
「うるせぇ。俺とそいつはそういう関係じゃねぇ」
「デモ、デモ、トテモ、ナカヨク、テ……」
「だから違うって言ってるだろ!」
沙雪に取り憑く者の言葉に苛立たしく反論はするが、その裏でこの状況を打破する術を必死に栄田は考えていた。この状況でどう振る舞えば、沙雪を助け出し、このクソ野郎を退ける事ができるのか……栄田は必死に思案する。
そうしている間にも、沙雪の身体は正体不明の化け物の手にかかり、右腕と左足が捻り上げられ、バキバキと音を立てている。すでに一回転以上関節から曲げられている沙雪の右腕と左足は、いつそこからちぎり落ちてもおかしくない。その様子は、いかに沙雪が不死身の化け物であるという事実を知っていても、栄田の焦燥感を刺激して仕方ない。
「いい加減出てこいよ! 逃げるんじゃねぇ!」
「ハハ……」
「何笑ってやがんだ! 女の体に隠れてんじゃねぇぞ!!」
「ソレ、ナニ、ナニ、ナニモデキナイナイナイナイナイヒトヒトヒトヒトヒトガガガガ、イウセリフリフリフリフリフ」
「……チッ」
効き目は薄いだろうとは思ったが、化け物を煽ってみても状況は改善しない。確かに今、栄田は何も出来ない。化け物の指摘は的を射ていたわけだ。栄田は舌打ちし、拳銃の照準を改めて絞った。
照星越しに、沙雪の顔を見た。
「――」
「……?」
何か違和感がある。栄田は沙雪の顔を注意深く観察する。
「――」
「……」
声を発していないにも関わらず、沙雪の口が動いている。
「――」
「ド、ド、ド、ドドドドドドウシタン、デスデスデスデスデスカ」
「……」
「ナ、ナニ、ニ、ナニ、ナニ、カ、ヘ、ヘン、ヘンヘンヘ、ヘ、ン、デスデスヨ」
「――」
やはりおかしい。沙雪の身体を借りている化け物の言葉と、沙雪の口が同期していない。明らかに声を発していないときに口が動いている。栄田はそれが沙雪からの言付けなのではないかと思いたち、化け物にさとられぬよう、しかし注意深く沙雪の唇の動きに注視した。
「――」
戦国時代の忍びたちは唇の動きだけで意思疎通が出来たと栄田は聞いたことはあるが、栄田自身にはそのような特殊な技能は無い。全神経を沙雪の唇の動きに合わせ、沙雪が栄田に何を伝えようとしているのか、必死に読み取った。
そうしてしばらく後、栄田には見えた。いや正確には読めたと言った方が正しい。沙雪の唇の動きが、声ではなく文字として見え、文字として栄田の脳裏に届き、そして即座に理解した。
――今だ 撃て
「分かった」
その言葉を理解したその瞬間、栄田は、躊躇いなく引き金を引いた。
病室にゴンという極めて低い金属音が鳴り響く。先程まで聞くことが出来なかった、梵字の弾丸の力が発動した証だ。
「エ?」
呆気にとられた化け物の声と同時に、沙雪の身体の胸から下が根こそぎなくなった。沙雪は呆気にとられた表情を浮かべで血を吐いた。
「ごふっ……」
そしてそのまま床にどちゃりと落ちてしまう上半身だけの沙雪。よく見ると下半身はおろか上半身も右肩から腹にかけてが完全にえぐり取られている。まるでこれまで効かなかった分の弾丸の効果のすべてが発動したかのようだ。
「ナ、ナ、ナン、デ……」
たどたどしく呟く沙雪に、栄田は照準をあわせたまま注意深く近付く。沙雪の一挙手一投足すべてを見逃さないよう、全神経を集中した。
沙雪のそばまで来て、しゃがみこんで沙雪の顔をじっくりと見下ろしていた、そのときである。
――ヒィィイイイ
沙雪の顔から、もうひとりの人間の顔のような輪郭が見えた。その輪郭は透明でハッキリとせず、気を抜けば即座に見失ってしまいそうなほど存在感が薄い。その薄い輪郭の顔が沙雪の顔から持ち上がり、そして宙に上がっていく。
「逃さぬ」
宙に浮かんだその顔は、栄田の背ぐらいの高さのところで突然ピタリと止まった。栄田は沙雪を見る。沙雪はすでに目を開き、宙に浮かぶ透明な顔をジッと見据えていた。下半身と上半身の一部がえぐられているという重症にも関わらず、その苦痛はまったく表情からは読み取れない。
「お前は絶対に許さぬ。下賤の身でありながら我が身体を奪いし報いを受けよ」
――タ、タスケテ……
次の瞬間、透明な顔は湯気のように形を崩しながら、沙雪の口へと吸い込まれていった。
――チヨ、コ、サン……チヨコ、サ……
栄田は、透明な顔の輪郭が崩れ、成す術なく沙雪の口へと吸い込まれていくその様を、ジッと見ていた。
この化け物は、二人の人間を殺し、一人の医者を重症に追い込んで、高鶴千代子さんに癒しがたい傷を負わせた。その点で、栄田はこの化け物を許すつもりは無い。遅かれ早かれ殺していた。
だが、消え行く瞬間のあの顔は……沙雪に吸い込まれ崩れていく時のあの泣き顔は、栄田の心に如何とも言い難いやるせなさを残していた。
「よくぞ我が言葉を見抜いた。褒めてつかわす」
足元から沙雪のねぎらいの言葉が聞こえた。そういえば先程沙雪の身体の半分以上を自分が削り落としたことを思い出し、栄田は足元に倒れる沙雪に視線を移動させた。
「時間はかかったけどな。お前の言葉が分かってよかったぜ」
「栄田ならためらうやも知れぬと思うたが、よくぞためらいなく撃ったな」
「たとえ撃っても、お前なら問題無いって確信があったからな」
栄田の視線が沙雪を捕まえ、そしてその顔を見た。いつもの真っ赤な沙雪の目からは、涙が静かに流れている。
「……泣いてんぞ。どうした」
「ああ、これか」
沙雪は残った左手で自身の涙を拭う。親指で自身の目尻を拭うその仕草は、今の栄田には妙に艶を感じる仕草に思えた。
「ヤツに呑まれ、そしてヤツを喰ろうたからやもしれぬ。ヤツの心底の一端が我が心と一つになったようだ」
「……」
「この涙は死ぬ間際のヤツの涙よ。私のものでは無い。案ずるな」
「心配なんかしてねーよ」
栄田は膝を付き、沙雪の頬へと手を伸ばした。今だ止まらぬ沙雪の涙を親指で優しく拭ってやる。
「何のマネだ」
「片手じゃこっちは拭き辛いだろ」
「やめよ」
「うるせぇ。こういう時は黙って従っとけ」
珍しく憤りの色を沙雪は浮かべているが、栄田はそれでも沙雪の涙を拭うことを止めなかった。
そして沙雪もまた、それ以上栄田を止めようとせず、自身の頬を優しく撫でる栄田の掌を静かに受け入れていた。
それから数日後。栄田と沙雪は千代子が入院している病院へと足を運んでいた。
「千代子さん、少しは回復しただろうか」
「望み薄だな」
そんな言葉を宙に浮かぶ沙雪と交わしながら、栄田は病院までの道のりを歩く。手にはかすみ草の花束がある。沙雪に指示され、署のそばの花屋で仕立ててもらったものだ。
「ったく……なんで花束なんか持ってかなきゃならねーんだよ」
悪態をつくが、当の沙雪は平気な顔で宙に浮いている。数日前に身体の大半を根こそぎもぎ取られた後遺症のようなものはない。
「チッ……」
つい舌打ちが出た。しかし沙雪が気にする様子は無い。小さなため息をつき、栄田は再び歩き始めた。空を見上げると、今にも雨が降り出しそうな厚い雲が広がっていた。
高鶴千代子に付きまとっていた化け物は、名を『耳舐め』といった。誰かが付けた名前ではない。その化け物には親しい者はおらず、親もいない。自身すら気付かないところで生まれ、物心ついたその瞬間には、自身が化け物であることに気付いていた。天涯孤独だったその化け物は、自分自身に『耳舐め』という名前をつけた。
耳舐めは元々ここに住んでいたわけではない。芳しくない食糧事情ゆえに、どこか遠いところから来たようだった。食料は言うまでもなく人間。特に脳を好んで食べた。人間の耳に自身の舌を差し入れ、そして中の脳を啜りとるのだ。その様から、化け物は自身を『耳舐め』と名付けたのだった。
それらのことを、栄田は沙雪から聞いた。沙雪は、今回の事件で耳舐めに取り憑かれ、そして自身も耳舐めを喰らった。そのためか。沙雪の記憶の中に少しだけ耳舐めの記憶が混じり混んだようだ。
「んで、その『耳舐め』ってのは結局どこから来たんだよ」
「お前が聞いても理解出来ぬところよ。私にもいまいち理解出来ぬ」
「どこだよ……」
「ただ、夜が昼のように明るい場所だったようだ。故に人を喰らいたくとも喰らえず、生きるためにこの地に来たようだな」
「生きるために必死だったってことか」
「お前たちと同様、我らも生きておる故な」
沙雪におのが記憶を残した耳舐めの話をしながら、二人は千代子のいる病院へと向かう。しばらく歩いた後、目的地の病院が見えてきた。
「……」
「?」
沙雪が前に進むのを止めた。気付いた栄田も足を止め、沙雪を振り返る。
「沙雪?」
「……」
栄田は沙雪に呼びかけるが、沙雪は反応しない。ただほんの少し目を曇らせ、目の前にある病院を見つめていた。
「どうした?」
再び沙雪に呼びかけた。栄田はこんな沙雪を今まで見たことがない。眉間に少しシワを寄せ、今も涙が流れそうな眼差しをすることなど、ただの一度も見たことがない。そうして暫くの間、沙雪は病院を見つめていた。
数分の間の後、沙雪の表情が普段の虚無へと戻った。
「……案ずるな栄田」
「……」
「行くぞ」
病院の門をくぐり正面玄関から入って、栄田は高鶴千代子の病室へと向かった。階段を上り、まっすぐな廊下を歩いて、やっと千代子の病室の前にたどり着く栄田だったが……
「な……」
病室のドアを見て、栄田は自身の血の流れが一瞬止まったことを感じた。
病室のドアには、千代子の名前と共に、『面会謝絶』の文字が書かれていた。
「ああ、刑事さん」
背後から呼びかけられ、栄田は振り返る。幾人かの看護師に混ざって、あのときの医者があの時と変わらない優しい顔で立っていた。
「ああ先生、お世話になってます」
「いえいえ」
「それよりも、この面会謝絶って……」
「ああ、ちょっと事情がありまして……」
栄田の当然の返答に、医者は難しい顔を浮かべた。その様子からは医者の困惑と苦悩が容易に想像出来た。
医者の話によると、病院が耳舐めの襲撃を受けたあの日を境に千代子は人を寄せ付けなくなったそうだ。誰にも会いたがらず、一日中布団を頭から被り、中でずっと震えているという。
見舞いの人間なら面会謝絶とすれば会わずに済む。だが、医者と看護師たちは治療のためにも千代子と顔をあわせなければならない。
そうして治療のために医者や看護師が病室に入ると、千代子はひどく取り乱し、怯え、怖がり、暴れるそうだ。
「そうですか……」
「ええ。まぁ彼女のためにも治療は続行します。精神科で面談の予定も立ててありますし」
「千代子さん、よくなるでしょうか……」
「それをするのが、我々の仕事ですから」
困惑した表情を浮かべながらも、医者はそう答えた。その後栄田に軽く会釈し、病室のドアを開く。
「高鶴さん、具合はどうですか?」
「ヒッ……!?」
途端に病室から、千代子の悲鳴が聞こえてくる。数人の看護師たちがためらいなく病室に入り、最後の一人が入ったところでドアが閉じられた。
「や、やめて! お願い!! 殺さないで!!!」
「大丈夫です脈をとるだけですから」
「お願い!! あっち行って!!! 部屋に入ってこないで!!! イヤァァアア!!!」
「大丈夫です!! 大丈夫ですから!!!」
「触らないでぇぇええ!!! お願いィィイイ!!! イヤぁぁあああああああ!!!」
ドアの向こうから、病室の喧騒が聞こえる。半狂乱に陥った千代子が必死に医者たちを遠ざけようとし、医者たちも必死に千代子の治療をしているようだ。
しばしの間、栄田はそれを黙って聞いていた。
「助けて!!! 誰か助けてお願い!!! お願いします殺さないで!!!」
「千代子さん暴れないで!! 脈が取れませんから!!!」
「お願いィィイイ!? 刑事さん!!! イヤァアアア!!! 誰も来ないで!!!」
医者たちの奮闘と千代子の悲鳴が、栄田の心の奥に痛々しい棘となって突き刺さっていく。それらの棘は奥底に眠る後悔を刺激し、自分はもっと何かが出来たのではないだろうか、という自分の罪状探しをしてしまう。
もし、彼女が警察署に相談に来た時点で真相に気付いていれば……いや、少なくとも初めて耳舐めに襲撃されたとき、その特性に気がついていれば……あるいは、病院に千代子を連れてきた時点で面会謝絶にしていれば……その時の自分への無理な要求が止まらなくなってくる。
「栄田」
不必要に自分を責める声に紛れ、沙雪の声が耳に届いた。我に返り振り返るが、背後に沙雪の姿は無い。だが確実に存在を感じる。周囲に比べ明らかに肩に感じる温度が低い。
「沙雪……」
「帰るぞ」
肩をポンと叩かれたような感触があった。これ以上自分がここにいても、何も出来ることはない……栄田は病室のドアに頭を下げ、そばの長椅子に持っている花束を置いた。
踵を返し、栄田は長い廊下を戻って行く。その間、病室の中の喧騒は、どれだけ遠く離れても栄田の耳に届き続けた。病院を出て外の通りを歩いていても、千代子の叫びが栄田の耳に残響し続けていた。
帰り道のときのことである。病院が見えなくなり大通りに差し掛かったところで、栄田はポツポツと雨が降ってきたことに気がついた。
「雨か」
「濡れては体に障る。どこかで雨宿りしたらどうだ」
珍しく栄田の心配をする沙雪の言葉に従い、栄田は雨宿りできる場所を探す。キョロキョロと周囲を見回し、近くの建物の軒下へと移動した。
「ふぅ……」
移動しているうちに雨が強くなってきた。栄田の全身もかなり濡れている。軒下に入るなり身体を払い、栄田は少しでも衣服に雨が染み込むことを防ごうとした。
「ちくしょ……ついてねぇ……」
上着を脱ぎ、栄田は恨めしそうに空を見上げる。空を覆う雲は分厚く、止む気配は無い。むしろ時間が経てば経つほどに雨足が強くなっている気さえする。
「傘を持って来ればよかったぜ……」
小さな後悔である。今日は大小様々な後悔が栄田に襲いかかる。心の中の舌打ちが止まらない。雨に濡れた身体も次第に冷えてきた。
いい事など何もない……栄田が今日一日の己を呪おうとした、その時である。
「案ずるな」
いつの間にか自身の隣で佇んでいた沙雪が、その白くか細い手で空を指差した。栄田もその指差す先に、つられて視線を移す。
沙雪が指差すその先には分厚い雲の壁があった。
「なんだよ」
意味がわからず、機嫌が悪い栄田はつい邪険にそう問いただす。しかし沙雪はいつもの調子だ。その、少しうるませた瞳以外は。
「あの雲がいずれ割れ、そして日が差し雨は止むであろう」
「あ?」
「見ておれ」
『そんなわけがあるか』と栄田は言いそうになり、慌てて口をつぐんだ。指す先を見つめる沙雪の眼差しに、虚無ではなく郷愁のような気持ちを感じたからである。口をつぐんだ栄田は、やがて沙雪と同じく、その指が指す厚い雲を見つめ続けた。
どれだけ二人で雲を見つめ続けた頃だろうか。
「……あ」
「……」
その光景に、栄田はため息を漏らした。厚い雲にヒビが入り、そこから陽の光がレースのカーテンのようにスッと降り注いできたのである。雲のヒビははやがて大きくなり、そこから空を覆う雲は次々に割れていった。
「すげぇ……」
雲の隙間から、色のないオーロラのような光が栄田と沙雪の二人を包むように降り注ぐ。冷えた栄田の身体が、陽の光を受けてほのかに熱を取り戻し始めた。
雨は止んだ。沙雪が予言したとおりに。
「すごいなお前……天気を読むことが出来たのか」
「見ておれば分かることだ。大したことではない」
栄田の称賛にも、沙雪はいつものように冷静に返答する。その声にはいつもと変わった様子はない。
ただ、その後の沙雪は、普段とは少し違っていた。
「栄田、少しよいか」
『何が』と栄田が問い返す前に、沙雪は栄田の手を取り、そして自身の腕を絡ませていた。
沙雪の予想外の行動にうろたえ、栄田は沙雪の顔を見る。
雲の割れ間を見つめる沙雪の目からは、涙が溢れていた。
――どうした?
栄田はそう口を開こうとして、止める。口をつぐみ、そのまま沙雪と一緒に空を眺めた。
「この涙は耳舐めのものだ」
「そうかい」
「あの者にとって、高鶴千代子と出会ったときのこの光景が、暗闇と血と人間の味に塗れた人生の中に唯一差し込んだ、眩く尊き思い出だったのであろう」
「……」
「あの者、本気で高鶴千代子に恋焦がれておったようだな」
沙雪の手に、ほんの少し力がこもった。注意していないと手を握られている栄田すら変化に気付かないほどの微弱な違いだ。沙雪の中に残る耳舐めの記憶が、あるいはそうさせたのかもしれない。
実際、仮に耳舐めの千代子への恋慕が本物だったとしても、その思いが耳舐めに届くことはけっしてなかっただろう。耳舐めは彼女の気を引くために二度にわたって接触してきたが、いずれも自身の食料である人間の脳を手渡すという行為に走っていた。
耳舐め自身は、『仲良くなるためには自身が一番欲するものを相手に渡すのがいいから』と言っていた。それ自体は確かに的確かもしれない。
だがそれは人間同士での話だ。耳舐めの場合は話が違う。千代子を思う気持ちは本物だったのかもしれないが、耳舐めはその方法を疑わずに信じすぎた。相手のことを考えず、直接的に実行してしまった。人間が自身の仲間の脳をもらったところで、どうして相手を受け入れることが出来るだろうか。出来るわけがない。
仮に耳舐めが人間のことを熟知した上で有効な手段を取ったとて、耳舐めと千代子の間に愛が芽生えたかといえば、それも疑わしいと栄田は思った。人間とその脳を主食にする怪物……住む世界が違いすぎる。人間と化け物……捕食者と被食者……二人の世界はあまりに交わらない。ほんの少しも交わらず、かすることも、近付くこともない。それが二人が生きるそれぞれの世界だ。
故に耳舐めの恋慕は、どのようなことをしても千代子に受け入れられることはなかっただろう。しばらく思案したのち、栄田はそう結論付けた。
だが、栄田はそれを口に出すことはしなかった。ただ、沙雪の手を握る自身の手に、ほんの少しだけ力を込めるだけだった。
「千代子さんじゃなくて俺でいいのか? お前の中の耳舐めの記憶は、男の俺で満足なのか?」
「構わぬ」
沙雪が栄田に寄り添い、腕に頬を寄せた。沙雪に触れた部分がひんやりと冷たい。差し込んだ陽の光に照らされ熱を持っていた栄田の身体には、沙雪の冷たさは心地いい。腕に感じる沙雪の頬の感触が柔らかく、見た目相応の少女のそれに近いものに栄田には感じられた。
「たとえ相手が誰であれ、その温もりに救われるときもある」
「そうかい」
「それに、お前の肌を欲したのは私だ。耳舐めは関係ない」
沙雪の言葉の意味を測りかねた栄田だったが、あえてそれには触れず、改めて沙雪とともに空を見上げた。あれだけ厚かった雲が晴れ、青々とした空に浮かび眩しく輝く陽の光が、栄田と沙雪の二人を温かく包み込んでいた。
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