第22話 くらげの唄


 水族館で見た、くらげの群れを思い出していた。


 淡く発光する水槽のなか、ふわふわと浮かんではたゆたう、くらげの群れ。


 とくになにかを感じたわけじゃない。ただ飽きずにずっと眺めていた。客のみんなが興味なさそうに通り過ぎていくなか、暮永さんとふたりで、ずっと。


 たぶん、あと数週間も経てば忘れるだろう。


 いつもそうだからわかる。


 丘の上から眺めた街の景色も。

 暮永さんにお勧めされた映画も。

 那瀬さんと過ごした観覧車も。

 みんなで乗ったアトラクションも。

 家でやったゲームも。


 きっとそのうち忘れる。


 どうでもいいから。なにもかも。


 自分のことも。


 僕にとっては、どうでもいい。






 でも今——不思議と僕の足は動いている。


 教室を出て、廊下を歩き、目当ての教室へ躊躇なく足を踏み入れる。


「暮永さん」


 名前を呼ぶと、読書中だった暮永さんが視線を上げた。


「……伊庭くん?」


「ねぇ、今週末って空いてる?」


 僕が訊ねると、それまで賑やかな談笑に包まれていた教室が、とたんにシンと静まりかえった。


「え……でも、週末は伊庭くんに、予定があるって……」


「なくなったんだ。だから僕に付き合ってほしくて。ダメかな?」


 ざわ、と動揺の波が室内に生じる。


 暮永さんも気づいたのか、周りの様子をうかがって焦った顔になると、即座に人を馬鹿にしたような笑みを取りつくろった。


「あらあら、もしかしてデートの誘いかしら? だとしたら随分と性急だけれど」


「うん。そうだよ」


「……え?」


 暮永さんが笑顔のまま固まる。


「だから柚月ちゃんに言わなくてもいいよ。ふたりだけで行きたいんだ」


 ざわざわ……‼ と周囲のざわめきが激しくなる。


 暮永さんは放心したような顔で僕を見上げていたけど、もう一度僕が「いい?」と訊ねると、機械みたいなぎこちなさで首を動かして、なんとか頷いてくれた。


「じゃあ、また」






 そして週末の日曜。


 改札前のベンチに座って手持ち無沙汰にスマホを弄ること数分。


 不意に液晶画面に影が落ちて、僕は顔を上げた。


「おはよ。早いね」


「……ええ」


 暮永さんだった。


 五分袖のカジュアルなワンピースに、なんだっけ、ハイウエストだったかな、淡い水色のロングスカートを腰まで穿いた姿は、いつかの服装と違って妙に夏っぽくて、なんかかわいい。


 でも当の本人はなんかものすごいしかめ面で、そしてなぜか頬を桃色に染めて、ベンチに座る僕をにらみつけていた。


「……どういうつもりよ」


「ん、なにが?」


「と、とぼけないで。……きゅ、急にふたりで出掛けたいとか言って! いっ、一体なにを企んでいるの……!」


「いや企むって」


「そ、それにっ……で、デートとか言って‼ あんな、教室のみんなが聞いてる場所で‼ す、すごく恥ずかしかったのよ‼」


「デート? 僕、そんなこと言ったっけ?」


「……へ?」


「え?」


 時間が止まった。


 僕らは見つめ合った。


「わ、わたしが訊いたら、うんって答えたわよね……?」


「そうだっけ」


 あんまり覚えていない。


 微妙な沈黙が僕らの間を漂う。なんだろう。この空気。


「ま、いいや」


 さっと僕は立ち上がる。警戒する小動物みたいに暮永さんが後ずざった。


「もうすぐ電車が来ちゃうから、とりあえず行こっか」


「行こうって……どこに……」


「そのうちわかるよ。ほら」


 スカートの生地を摘まんでは離すを繰りかえしていた暮永さんの手を取って、僕は歩き出そうとする。でもすぐに振り払われた。


「ま、まだそこまで気を許したわけではないわ!」


「え、なにが?」


 よくわからない。


 でもとにかく手を繋ぐのはNGっぽい。肝に銘じておこう。





 ガタガタ、と車両が揺れる。


 僕たちが乗った車両は人が少なくて、なんだか静かだった。中途半端な時間帯だし、郊外に向かっているのを考えると、そこまで不思議じゃないのかもしれないけど。


「暮永さん」


「な、なによ」


「なんか、遠くない?」


 がらんとしたロングシートに並んで座った、ところまでは良かったけど、どうしてか暮永さんはもぞもぞとお尻を動かして徐々に僕から距離を取ろうとしていた。


「べ、べつに、普通よ……」


「そうかな」


 大人ふたり分くらい空いてる気がするけど。


 しかも離れるだけでなく妙に視線も合わせない。僕がじっと見ていると時おり、ちらっと横目にこっちを見てくるけど、目が合いそうになったらすぐに勢いよく顔を逸らされる。肩をきゅっと狭くして、まるで借りてきた猫状態だった。


「いつもと違って、今日はなんかしおらしいね、暮永さん」


「な、慣れてないのよ、こういうのは!」


「ん、何度もみんなで外出してた気がするけど?」


「みんなで、と、ふたりきりで、じゃ全然違うのよ!」


 そうなのかな。よくわからない。


「というか……あなたのほうこそ、なんだか、いつもと違うじゃないの」


「そう?」


「ええ。いつになく積極的というか……距離が近い、というか」


「距離はむしろ、いつもより遠いような」


「き、気のせいよ。きっと」


「そうかな……」


 頬をほんのり赤らめて、ふん、とそっぽを向く暮永さん。なんで恥ずかしがっているのか。僕には疑問だったけど、


「まあでも、心境の変化があったのは、そうかも」


「え……?」


 僕が言うと、暮永さんは驚いたような顏になって、


「そ、それは一体どういう変化⁉」


 慌てて詰め寄ってきた。


「なっ、なにか好きなことができたとか、楽しい趣味ができたとかそういう……⁉ だとしたらなにがよかったのかしら! ゲーム⁉ それとも遊園地に行ったこと⁉ いえ、それとも……‼」


「それが、僕にもわからないんだよね」


「…………は?」


 会話的にも物理的にも距離を詰めていた暮永さんが、僕の言葉を聞いてぱちぱちと狐につままれたみたいに目を瞬かせる。


「な、なにそれ。どういう意味よ……」


「んー、具体的には、ちょっと」


「ちょっとって……あ、あなたね……」


「ごめん。なんか、上手く言えなくて」


「が、頑張りなさい! 応援するからっ」


「応援って……」


 僕がぼやっとしていると、暮永さんは少しムッとした顔になって、いっそう身を乗り出してくる。ぐんと顔を近づけてきた。


「そ、それが大きな糸口になるかもしれないでしょう! いいから、なんとか言語化しなさい! できるまで待ってあげるから!」


 さっきまでなにかを気にして落ち着かない様子だったのに、もうそんなのは忘れたみたいに真剣な眼差しで訴えかけてくる。それが僕には不思議だった。


「……」


 鼻先が触れ合うくらいの距離に暮永さんの顔がある。すごくちいさな顔だ。線が細くて、白い頬はお餅みたいで、こぶりな鼻がなんだかリスっぽい。


 でも長い前髪から覗く大きな目は、いつも誰かのことを映していて、そのたびなぜか必死そうに揺れるんだ。どうしてだろう。僕には不思議でならない。


 だからだろうか、気づくと手を伸ばしていた。


「……んむっ」


 両手で頬を包み込むようにして挟む。ついでに、親指で暮永さんの目元に薄っすらと浮かんだクマをなぞってみた。「……んんっ」と悩ましげな声。構わずむにゅむにゅと揉んで、揉んで、だんだんとくせになってきて、小さな鼻筋を撫でるように指先で辿ったところで、どんと突き飛ばされた。


「な……なに⁉ なんなの⁉」


「や、ごめん。つい」


「つ、ついって‼ あなたね……‼」


「ほんとごめん」


 暮永さんは茹で上がったタコみたいに顔を赤くする。


「し、信じられないわ。お、乙女の柔肌を軽々しく触って、し、しかもあんなに好き放題にしておいて……‼」


「なにその口調」


「こ、こっちは真剣に心配しているのに……! あ、あなたは常識というものが、著しく欠けているわ!」


「知ってるよ」


 さんざんあなたに言われましたから。


 ガタンッ、と車両が揺れる。


 暮永さんは鞄を胸に抱くと僕のほうを警戒しながら、そそくさと向かいのシートに移動する。僕はなんだか、笑いそうになった。


「やっぱり、暮永さんは普通の女の子だよ」


「な、なによ、藪から棒に……」


「や、べつに」


 暮永さんは穴ぐらから外を警戒する小動物みたく鞄に顔を埋めながら、こちらをじーっとにらんでくる。僕は膝に頬杖をついて顔を逸らした。


「優しいだけじゃないって意味」



 

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