第8話 水族館とくらげ
午後は柚月ちゃんたっての希望で近くの水族館へ行くことになった。
僕はもちろん初めてで、それを伝えるとなぜか暮永さんも乗り気になった。
館内は子供連れの家族が多くて騒々しく、意外と涼しい。
仄暗い世界で幾つものアクアリウムが浮かび上がるように照らされていて、見覚えがあったりなかったりする魚たちがすいすい泳いでいる。
「アカハライモリちゃん来たぁ‼ やべえ可愛い! 可愛すぎる泳ぎ方‼ これは激写せねば……‼ って、あーん行かないで‼ こっち向いてぇ‼」
柚月ちゃんは淡水コーナーが好きらしい。思った以上に水族館オタクなのか、妙な色をした大きいイモリが泳ぐたびきゃあきゃあ叫んでいる。他の客が引いていた。
暮永さんは一足先に淡水コーナーを抜けていて、たぶんここの目玉スポットなんだろう、大きな水槽のなかを泳ぐ魚たちに目を奪われていた。
「神秘的ね……この水槽のなかに、わたしの知ってる海が詰まっているわ」
アルビノのエイが横切ると暮永さんは慌ててその後を追う。一匹だけ真っ白なそのエイは鼠色をした魚たちのなかで一際目立つ。ゆらゆらと羽根のように身体をはためかせて上へ泳いでいく。
「まるで天使のカーテンね」
「暮永さんって意外とポエマー?」
「なっ……! ち、違うわよ‼」
暮永さんは顔を真っ赤にすると、そそくさとコーナーから離れる。
また水を差しちゃったみたいだ。
さっきみたいな空気になるのは御免なので、それとなく僕は話しかける。
「暮永さん、水族館にはよく来るの?」
「え、ええ……と言っても眺めるだけで、柚月みたいな知識はないけれど」
「暮永さんの好きなのってどれ?」
「……あれ」
指差されたのは円柱状の青い水槽。
ゆらゆらと揺れるくらげの群れが浮かんでいた。
「くらげ?」
「ええ。ぼーっと眺めていると、いつのまにか気持ちがすっきりするの。あと食べると美味しいわ」
僕はアクアリウムの前に立って言われた通り眺めてみる。
漂う何匹もの透明の生物は下から見るとちょっとグロテスクに見えるけど、ちいさくてふわふわしていて、風に揺れるみたいに頼りなく水中を漂っている。なんだかレジ袋が浮いているみたいだ。
「あんまり、美味しくなさそうだけど」
「そう見えるでしょうね。でも味はいいわよ。こりこりした食感が楽しくて、そうそう、豚骨ラーメンと相性がいいわ」
それってキクラゲなんじゃ……。
暮永さんは得意げに胸を張っている。
……これ以上水を差すのはやめておこう。
「水族館は、どう? 伊庭くん」
「ん……べつに。思ったより人気なんだなー、って思っただけ」
「淡泊ね。予想通りだけど……」
暮永さんが嘆息する。僕の発言が聞こえたのか、こころなしか周りの客にも少し呆れられている気がする。
子供たちの元気な声と柚月ちゃんの黄色い悲鳴を遠くに聞きながら、僕たちはじっとくらげを眺める。確かに、見る分には飽きないかもしれない。
ふと、視界の端で暮永さんが動く。なんだろうと隣を見ると、懐から取り出したメモ帳サイズのノートを片手になにか書き込んでいた。なんとなくじっと覗きこんでいると、弾かれたように暮永さんが顔を上げて、僕から守るようにそれを背中へ隠す。
「み、見ないでくれるかしら? ただの日記だから」
「うん」
素直に視線を外し、僕は再び漂うくらげを眺め始めた。
結局なんのための時間だったのか、教えてもらえずにその日は終わった。
週初めの月曜は大抵、朝からみんな眠そうな顔をしている。
登校坂を上って校門をくぐった辺りまではいつも通りだった。
ただ校内に足を踏み入れたぐらいから、いつもと違う空気が漂っていることに気が付く。なんとなく生徒たちみんなの話し声が弾んでいて、そのどれもが言葉尻に好奇を滲ませている。気がする。
階段を上り切るとそれが顕著になった。
二年の教室が集う新校舎二階の廊下では立ち話をしている者たちが目立って、みな表情豊かになにか話している。
先生が結婚でもしたのかな。
思考の端っこで適当に予想をつける。ここは教師との距離が近い校風で、そこらへんは結構和気藹々としている。薄い線でもないだろう。
「……おい、あいつじゃね?」
僕の属する教室は廊下の端っこで、必然的に長い廊下をそれなりに歩く羽目になってしまう……んだけど。
「え? あんな奴二年にいたか? 見たことないんだけど」
「ほら、例の悪霊に憑りつかれてるとか言われてた男子よ。めっちゃ事故に遭う」
「あー、サッカー部の」
「なるほどなー、そういうことかー」
立ち話中の男女たちが僕の顔をちらちら見ている。
あれ……噂になってるの、もしかして僕?
他クラスの前を通る際も、少なくない視線を感じる。
歩みを進めるたび、囁き声の密談が増していった。なんなんだろう。こんなに不特定多数の人々から注目を浴びたことがなくて、僕は妙に新鮮な気持ちだった。
そして必然か、僕の教室からが一番、多くの喋り声が漏れている。
「おはよう」
扉を開けて平常通りひと声。
談笑が一斉に止む。
指揮者が指揮を降ろしたかのような、見事な静寂だった。
「お、おい! 太啓!」
浅谷が血相を変えて走ってくる。僕が勝手にサッカー部を辞めてしまったせいで最近はすっかり口も聞いてくれなかったんだけど、今日はいの一番に僕の手を引いて教室の隅へ連れていく。
「おまえ、めっちゃ噂になってんぞ」
「みたいだね。でもなんで?」
「おまえが文芸部に入ったからだろッ」
小声で叫ぶという器用な真似をして浅谷が続ける。
「お前が暮永看鳥に脅迫されて入部したって、噂になってんだよ」
「脅迫? なんで?」
「たぶんおまえが何度も事故に遭ってたってのが、悪いほうに捉えられてんだよ。あれは暮永看鳥の呪いだったって」
「いや、べつに暮永さん、呪いとかできないよ?」
「え? そ、そうなの?」
真顔で驚かれた。
「うん。普通の女の子だよ」
「太啓は……そう思ってんだろうけど、そう思ってない奴のほうが今は多いぜ。今太啓に話しかけると呪われるってもっぱらの噂だ」
「僕が心配なのか自分が心配なのか、よくわからないね」
でも得心がいった。みんな僕を遠巻きにするわけだ。
「暮永さん、ほんと有名人なんだなあ」
「おまえ、ほんと呑気だな……」
浅谷は呆れた顔になると、ちらりと教室を振り返る。
「とりあえずおまえ、昼休みはどっか行ってろ」
「え、なんで?」
「おまえが教室にいたら面倒なことになるかもしれねーだろ!」
「……う、うん。わかったよ」
なんだかんだ、浅谷は友達思いな奴なのだ。
チャイムが鳴り、すぐに午前授業が終わる。
昼休みになった。
僕は言われた通り弁当を持って教室を出ていく。
さて、どこで食べようかな。
うちの高校に食堂なんてものはないし、屋上は当然のごとく封鎖されていて、誰もいない広い中庭で昼食を広げようものなら逆に目立ってしまう。
一人で食べるならどこかの空き教室か階段の上、最終手段としてはどこか人気のないトイレの一室って択もあるけど、もし見つかったら外聞上よくないだろう。
悩んだ結果、僕は校舎をあてどなく歩くことになる。
「ねぇ、君」
気がつくと——眼前に女子が立っていた。両隣では男子が二人脇を固めている。
「なに?」
「……君が、伊庭太啓くん?」
「うん。そうだよ」
僕が頷くと、女子は赤縁メガネの奥で目を細めた。「そう、君が……」とつぶやく。ボウタイの色が二年生を示す。他の二人も同じだろうか。
「わたしは花園かすみ。あなたと同じ二年生よ」
「そう、なんだ」
「ええ」
他の二人にも自己紹介される。僕は適当に相槌を打った。
「単刀直入に言うわね。伊庭くん。君は早く、文芸部から離れたほうがいい」
「え?」
脈絡も無く忠告されて、首を傾げるしかない。
「なんで、離れたほうがいいの?」
「わたしたちは中学時代も暮永と同級生で、あいつのことをよく知ってる。あいつの、してきたことも」
――してきたこと。
「だから悪いことは言わない。あいつになにかされる前に、逃げて」
茶髪のポニーテールを揺らし、凛然とした声で告げる女子は、まるで僕のことを心配するような表情を浮かべる。
「おまえのために言ってるんだ。わかるよな?」
背の高いほうの男が腕を組んで僕を見下ろし、
「そうしないと、おまえ、マジで呪われるぞ」
と凄んで言った。
この状況はなんだろうか。花園さんには気遣われているような気配があるけど、ほかの二人からはまるで脅しをかけるような圧力を感じる。有無を言わせない雰囲気だ。文芸部に入るとこうなるのだろうか。
「一年にも、文芸部に入ってる人がいるんだけど、そっちは」
「ああ、柚月さんね……あの子にも何度か注意したけど、訊く耳持ってないっていうか……だから、あなたにはちゃんとわかってほしいの」
浅谷の言う通り、面倒なことになった。どうしようか。
僕はちょっと間を置いて、少し考えてから、頷いた。
「うん。わかった。退部するよ」
「……わかってくれて嬉しいわ。くれぐれもあの女に近づいちゃダメだからね。自分のことを一番に考えなさい」
花園さんは二人を連れて立ち去っていく。
「……中学の同級生、か」
色々と大変なんだな。暮永さん。
「……そういえば」
ふとある場所が思い浮かぶ。
手に持った弁当箱に視線を落とす。
「んー……空いてるかな?」
空いてる気がする。なんとなく。
とりあえず行ってみよう。僕はつま先を渡り廊下へ向けた。
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