第9話 枯れた花には


「先輩。ちーす」


 期待通り文芸部室の鍵は空いていて、柚月ちゃんが朗らかな笑顔で迎えてくれた。


 僕は同席の了承を得るとテーブルに着いて弁当を広げ始める。


「柚月ちゃん、ひとり?」


「姉御もいるっすよー、あちらに」


 薄いマニキュアが塗られた指先が示すのは、準備室だった。


「……もしかして昼休みも寝てるの?」


「まあ時々。姉御は基本寝不足っすからね」


「そうなんだ。……ん?」


 テーブルの上に見覚えのある手帳が置いてある。


「これ、昨日の……」


 たしか暮永さんが日記帳だと言っていたものだ。


「先輩は見ちゃダメっすよー。乙女の秘密っすから」


「いや、見ないよ。興味ないし」


「うわー、その反応は男としてどうかと……」


「なんて言えばいいのさ」


 やっとの思いで昼食を食べ始める。昨晩の残りの生姜焼きに焦げたシャウエッセンと、基本的に父さんが作ってくれる弁当は結構がっつり系で、男子高校生の空きっ腹を満たすには十分なボリュームがある。時おり柚月ちゃんがにこにこしながら子犬みたいに尻尾を振って近づいてくるのでお裾分けしてあげた。


「な、なにしてるのかしら、あなたたち」


 気づけば準備室の扉が開いていて、引き攣った顔の暮永さんが立っていた。


「なにって……」


「あーんっすよ。あーん」


 後輩女子からの熱烈なリクエストがあったので、箸で摘まんだ卵焼きを直接柚月ちゃんの口に運んであげている最中だった。


「姉御もどうっすか? ぜひ」


「遠慮するわ‼」


 不機嫌そうに鼻を鳴らして暮永さんは着席した。


「はぁ……それにしても珍しいわね。伊庭くんがお昼にここへ来るなんて。もしかして友達いないのかしら?」


「それ、ブーメランだよ。暮永さん」


 弁当を片付けるかたわら事情を説明する。





「——で、そういうわけでさ」


 改めて噂の話をする。


「その噂が結構広がっててさ、教室に居づらいんだよ。休み時間のたびになんか視線を感じるし。ちょっとした有名人にでもなった気分なんだ」


「そう……」


 するとなぜか拗ねたような顏をされた。あれ。なにか余計なこと言ったっけ。


 僕が首を傾げていると、まるで微笑ましそうなものを見るような、にやにやした顔の柚月ちゃんと目が合う。なんですかその顔。助けを求める意味で視線を投げてみたけど、もったいぶっているのか、柚月ちゃんはふるふると首を振って教えてくれるつもりはないようだ。


 やがて、か細い呟きが聞こえた。


「…………やめたく、なったの?」


「え?」


 暮永さんの頬が、赤くなっていた。


「なにを、やめるって?」


「ぶ、文芸部よ」


「え? なんでさ?」


「いえ、だって……」


 もごもごと唇を動かしながら視線をさまよわせる。なんだろう、まるで叱られたあとの子供みたいな反応だ。ちょっと違うかもしれないけど。とにかくいつも元気なのに、急にこうもしおらしくなられたら、僕もちょっと面食らってしまう。


 ただ、なんとなく、僕が言うべきことはわかった。


「やめないよ」


「そ……そう?」


「うん。ここ、結構居心地いいし、今の状況で使えなくなるのは困るんだ」


 もう教室に居場所はなさそうだし。


「それに暮永さんは、僕を助けてくれるんでしょ?」


「そ……そうよ! 当然じゃない!」


 いつもの調子で胸を張る。相変わらず平たい胸で、得意げに張っても、少しも制服を押し上げてないけど、本人に言ったら激怒されそうなのでやめておく。


 とりあえず機嫌が治ったみたいでよかった。


「さて、ついでに話しておきましょう。実験の結果をね」


「え、実験?」


 一体なんのことだろう。そんなことをした覚えはないけど。


 聞けば、昨日の外出は僕のことを分析するための実験の時間だったのだとか。まるで初耳である。なにか理由があるらしいことは聞いていたけど、まさか全て僕のための時間だったなんて。


「といってもできたのは軽い分析だけだけど」


 懐からスマホを取り出して暮永さんが言う。


「昨日一日で色んなアプローチを伊庭くん相手に試したわ。それに対するあなたの反応、感想、表情、全てをまとめたデータがここに」


「なんでそんなもの……」


「あなたのことを理解するためよ。おかげで色んなことがわかったわ。ええ」


 得意げな暮永さんがなんとなく怖かった。


「まず伊庭くんは基本的に受け身なタイプね。来る者は拒まず、自分のできる範囲なら意味無意味にかかわらず相手の言葉に従っておく。でもそれは臆病だからというわけではなく、単に処世術ね。相手がやってほしいことをやってあげておけば、とりあえず波風は立たない。と思っている節がある」


「……よく見てるね」


「だから無表情で反応に乏しくても無愛想に思われることがなく、むしろ好感を持たれやすい。恋愛対象に見られることは少ないけど女友達は多いタイプね。ただ会話のときは文字数が少なめで、やっぱり面白みがない人に見られがち」


「それなー」


 柚月ちゃんがうんうんと頷く。なんだか失礼な人たちだ。


「そして問題はやっぱり、リアクションね」


「リアクション?」


「ええ。昨日は色々やったけど、できるだけ伊庭くんが経験したことのないことを選んだつもりよ。なのにあなたときたら、無味乾燥な感想ばかりで反応が悪すぎる」


「虚無虚無しいっすね~」


「きょむきょむ……」


 昨日はあの後も確かに色んなことをしたけど、そういえばなにをしたのかはあまり覚えていない。


「もしかしてだけれど、あなた今までなにかにハマったり、入れ込んだりしたことがないのではないかしら?」


「え、うん、まあ……」


「あれもこれもやったことない見たことないって、幼稚園児じゃないんすから」


「本当に遠慮ないよね。柚月ちゃんって」


「とにかく、あなたの無反応さは異常だわ」


 スマホを置いて暮永さんが座り直す。


「あなたは、刺激に対して極端に鈍いのよ」


「刺激?」


「ええ。誰しもみな、なにかしらに刺激を受けて自分を変えていくものよ。色んなものを見て経験をしてそれから影響を受けて、心を潤していくの。でもあなたはそれを感じない。だからそんな、なにもかも興味がないって顔ができるのよ」


「そんな顔してるの、僕?」


「能面っすね~」


 初耳だった。


「だったら、もう僕って救いようがないんじゃないの?」


 我ながら他人事のように言ったものだ。


「……そんなこと、ないわ」


「そうなの? でも」


「言ったでしょう。あなたは鈍いだけ。……絶対になにか、あなたの心を揺らすものが、どこかにあるはずよ。きっと……」


 思い詰めたような表情をする暮永さんに、僕は訊ねざる得なかった。


「僕のことなのに、なんでそんなに断言できるの?」


 すると、暮永さんはまた拗ねたように俯いて、


「なにも感じない人間なんていないって、信じてるからよ……」


 ぷい、とそっぽを向かれた。


「なんで顔、赤くなってるの?」


「そうっすよー。姉御。もっと胸張って言いましょー。せっかくかっこいいこと言ってんのにもったいないっすよー」


「け、賢人は表面上のことにはこだわらないのよ!」


 暮永さんはふんと鼻を鳴らして腕を組む。


「能ある鷹は尻隠さずよ!」


「めちゃくちゃ頭悪そうだね……」


 直後、チャイムが鳴った。


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