第7話 休日の過ごし方は
数日後。
日曜日になって、ついに包帯を解いた。すっかり腕は元通りだ。
骨折ではなくただの捻挫だったのは不幸中の幸いだっただろう。鏡の前でそこだけ日焼けしていない真っ白な右腕をなんの気なしに撫でててみたのが今朝のこと。
サッカー部に所属していた一年の頃、休日と言えば大抵朝早く起きて学校へ向かっていたものだけど、退部を果たした今、僕は自由な時間に起きて、ゆっくり朝を迎えることができた。事実昨日なんかは久しぶりに目覚ましを使わず起床して、在宅業の父親と一緒に遅めの朝ご飯を食べることができた。これは運動部ではない者の、ちょっとした特権かもしれない。
でもなぜか今朝の僕は急かされるように起きて、そして今、街のなかで一番勾配の急な坂道を走らされている最中だった。
「ま、真面目に走りなさい、伊庭くんっ」
自転車に乗って先導中の暮永さんが、どこから持ってきたのか、黄色いメガホンを掴んで僕に檄を飛ばす。額には「耐熱」と達筆で書かれた赤い鉢巻。絶対に意味を理解していないのは誰の目にも明らか。
「も、元運動部の意地を見せるのよ。昔取った杵柄(きねづか)よっ」
「そんなに前の話じゃないから……」
的外れな激励とともに眩しい朝陽が目を焼く。
「姉御ぉぉ! わたしはどこまでもついていくっすよぉぉ! うぉぉぉ‼」
「ば、馬鹿っ。声抑えなさい柚月! 誰かに見られたらどうするの!」
意外な体力を見せて僕と並走しながら柚月ちゃんが敬愛する姉への愛を叫ぶ。暮永さんが慌てて注意していた。発案者のくせに暮永さんが一番恥ずかしそうに頬を赤らめているのが、僕には不思議で仕方ない。嫌なら辞めればいいのに。
——今週末の日曜、わたしに一日付き合いなさい。
入部初日に下された命令が脳裏で木霊する。
なんでも一日を費やして確かめたいことがあるらしい。
僕はてっきりカウンセリングにでも連れていかれるのかと思っていたけど。
蓋を開けたら部員揃っての早朝坂道ダッシュが始まったわけで……意味不明だった。
一体なにを確かめたいのか。これがどう僕の更生に関係してくるのか。
今日一日で僕はどうなってしまうのか、言い知れない不安を覚えながら、僕は自転車に跨る暮永さんをさっさと抜かした。
「ぐっ、なんてキツい坂なのっ……!」
「大丈夫っすか! 姉御⁉」
「止まってはダメよ柚月っ。わたしを置いてでも先に行きなさい‼」
「あ、姉御ぉぉぉ!」
本当に、不安だ。
ようやく坂を上り切ったところで「止まって」と命じられたので、僕は素直に足を止めた。息は上がっているけど、これくらいなら毎週のように走っていたから、へばることはなかった。
振りかえると、まだ暮永さんは坂の六割程度を過ぎたあたりで、ひいひいと呼吸を乱しながら壮絶な表情で自転車を漕いでいる。ペダルがすごく重そうだ。後ろで柚月ちゃんがサドルを支えていなかったらそのまま坂を転げ落ちてしまいそうである。歩いたらいいのに。
僕は呼吸を整えて、額の汗を拭う。やけに涼しい風が頬を撫でる。
いつのまにか、随分と高いところまで来ていたらしい。
坂の上は空との距離も近く、街の全景が広く見渡せた。
「はぁ、はぁ……! じっ、自転車は失敗だったみたいね……!」
「暮永さん、お疲れ」
「やー、いい運動だったっすねー」
息も絶え絶えな暮永さんに対して、柚月ちゃんはぴんぴんしている。
気になって訊ねたら「中学は陸上部だったっす」と回答がかえってきた。
「姉御を追いかけて枯ノ島に入学したんすけど、スポーツ推薦の話もちらほら来てたっすねー。当時の習慣が抜けなくて、今もランニングは毎日続けてる感じっす」
「へー……」
人は見た目で判断できないな。
「はぁ、はぁ…………ふぅ……」
ようやく息を落ち着かせたのか、暮永さんは鬱陶しそうに鉢巻を取り去ると、腕で汗を拭った。長い黒髪がばさりと揺れる。
「さあ、伊庭くん。どうだった?」
「どうだった、って?」
「いい景色でしょう? ここ」
「ん? ……まぁ、そうだね」
とりあえず頷くと、暮永さんはぱちぱちと瞬きを繰りかえして、
「……そ、それだけ? も、もっとなにか言うことはないのかしら?」
「え? そう言われても、べつに……」
「ここ、わたしのお気に入りの場所なのだけれど……」
拗ねたように暮永さんが唇を尖らせる。
なんでも父親が時々連れてきてくれる場所のようで、暮永さんにとっては昔から思い入れのある大好きな場所なのだそうだ。
「し、しっかり見なさい。本当にいい景色なんだから」
促され、僕はもう一度坂の上から街を眺める。
晴れ渡る青空の下、街はジオラマのように山間に収まっていて、ビル群は陽光を反射して輝き、住宅街は隙間を埋めるように敷き詰められている。林立する建物の隙を縫うように電車が走っていった。さらに向こうではきらきらと眩しい海を遠く望むことができる。
「あれがわたしたちの学校で、あれが駅ね、そしてあれが――」
暮永さんが建物を指差し、どこがどこなのか、丁寧に教えてくれる。
もしかしたらこれも父親から教えてもらったことなのかもしれない。たぶん暮永さんはすごく愛されて育ったんだろう。それがとても伝わってきた。
「どう?」
「どうって、なにが……?」
「わたしたちの住む街が今、こうして視界のなかに収まっている。そう思うと、わたしたちの世界って、思ったより狭いと思わない?」
思ったより狭い。
そうだな。
「うん……そうだね」
僕はまぶたを細め、灰色の視界を眺める。
「意外と窮屈で、面白みのない街なんだね」
「…………」
「乾いてんなー、先輩」
二人が似たような引き攣った笑みをつくっている。
よくわからないけど、水を差してしまったみたいだ。
「つ、次行くわよっ」
*
午前十時。バスを使って最寄りの駅へ。電車に乗って、隣町のショッピングモールへ着く頃には街は人で賑やかになっていて、休日の街の様相を呈している。
「伊庭くん、あなたは映画はよく見るの?」
「テレビでぼーっとだったら何度か。でも映画館に来るのは初めてかも」
次の予定は映画鑑賞らしい。
なんでも昨今話題のアニメ映画がここで上映されているらしく、席が埋まってはとあらかじめ暮永さんが三人分の席を予約しておいてくれていたのだ。
上映までは時間があるので、済ますべきものを済ましておく。
「……あれ?」
僕がトイレから戻ると、シアター前の暗いエントランスに密集する人々のなかで、暮永さんたちの周囲だけがエアポケットのように空いているのが見えた。
柚月ちゃんは相変わらず文学少女っぽい髪型なのに、ゆったりとした柄物のシャツとホットパンツがスポーティーな感じでなんだかあべこべだ。長い両脚を惜しげもなく晒している。対して暮永さんは足なんて晒しますかと言わんばかりの黒いロングスカートでフリルがさらさら揺れている。淡い色のワンピースを着ていてシルエットだけを見たら中学生にも間違えられそう。
そんな二人が今、どうしてか眉間に皺を寄せて周囲にガンを飛ばしていた。ほんとにどうして。
「……なにしてるの、二人とも」
「あら、おかえりなさい、伊庭くん」
「ただいま。で、なにしてるの?」
「見てわからない? 愛想を振りまいているのよ」
「呪詛じゃなくて?」
「ん? なに言ってるの?」
暮永さんがこてりと首を傾げる。悪気がなさすぎて、なんだかこっちが騙されてるんじゃないかと疑いたくなってしまうな。
「それで、なんで柚月ちゃんまで睨み利かしてるの?」
「ふっ……人に怯えられるのは気持ちがいいっす」
悪ふざけだった。
「あんまり便乗しないでよ」
「約束はできませんねえ」
色々と図太い後輩だった。暮永さんと相性がいいのもわかる。
「さあ、そろそろよ」
受付を通過し、指定された劇場へ向かう。
予約されていたのは中央の通路に面した席で、映画を観るには丁度よく開放感のある席だった。席順は特に相談していなかったけど、二人はさっさと席に座った。もしかしてよく来ているのかな。
「……ぁ」
席に着いた途端、大きな欠伸が出た。
どうしよう。
これ、ヤバいかも。
そして——映画が始まった。
「ご、ごめんね、暮永さん」
「……」
「ほんと、ごめんなさい」
「…………」
お昼の賑わいを見せるフードコードの一角で、僕は平謝りを繰りかえす。
さっきから暮永さんはそっぽを向いて唇を尖らせている。
結論から言うと、僕は寝てしまった。
それも映画の予告が始まった時点からぐっすりと。深い眠りから目を覚ますと、井戸から出てきたお菊さんみたいな形相の女子が僕を睨んでいて、ホラー映画でも見てたかなと思ったら、なんとそれが暮永さんだった。
「機嫌直してよ。暮永さん」
以降ずっと目を合わせてくれず、僕は途方に暮れていた。
「まあまあ、先輩も反省してるみたいだし、姉御もそんなに怒らないで、そろそろ許してあげましょうよ」
「……べつに、怒ってないわ」
暮永さんはため息をつくと、お化粧直しだと言って席を立つ。
「ねぇ、柚月ちゃん」
ハンバーガーを頬張りながら「ん、なんすか?」と後輩少女がこちらを向く。
「朝から走ったり映画観たり、今日やってること、僕にはただ遊んでるだけに見えるんだけどさ」
「ご明察。その通りっす」
「僕は暮永さんの休日に付き合ってるってことでいいの?」
「ええ、まあ。つーか最初からそう言ってたっすよね?」
「ん……」
たしかに。
「姉御には姉御の考え方があるんすよ。先輩もどーせ暇なんだったら、頭空っぽにしておとなしくついてきてくださいよ。そういうの得意でしょ先輩」
「うん。わかった」
聞く人が聞けば結構失礼な言い方なんだろうけど、不思議と不快にさせないのが柚月ちゃんの凄いところだった。
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