第19話 病院と「呪い」


 そのあと、職員室から駆けつけてきた桜庭先生によって場が収められ、僕は怪我人として、あれよあれよという間に車で病院へ運ばれた。


 お医者さんに色々と診てもらって、結局病院から出てこれたのは夕方頃。


 父親の迎えがあるからと付き添いの先生には帰ってもらったけど、珍しく外出していたらしい父さんも忙しいみたいで、迎えに来るにはまだまだかかるとのこと。


 というわけでさっさと一人で帰ってしまおうと、僕は病院のエントランスから自動ドアをくぐって外に出た。すると、駐車場の向こうから見覚えのある制服を着た女の子が、こちらに走ってくるのが見えた。


「ぜぇ……ぜぇ……‼」


 ふらふらと僕の前まで来てから立ち止まり、両膝に手を置いて大きく息を弾ませるのは、なんと暮永さんだった。


「なんで暮永さんがここに?」


「あ、あなたが……‼ わっ、わたしのせいで……‼ 大怪我っ、をっ……‼」


 息も絶え絶えな暮永さんだった。こんなすごい顔をしてる子が病院の前にいたら、看護婦さんとかに勘違いされるんじゃないだろうか。


「……とりあえず落ち着いてよ」


 いつか坂道を走ったときも思ったけど、暮永さんは本当に体力がないらしい。学校から病院はそう遠くもないけど、ずっと走ってきたのなら相当疲れただろう。


「わ、わたしっ……‼ あ、あなたが心配、でっ……‼」


「たぶん今心配されるのは暮永さんのほうだと思う」


 とりあえず休ませあげるべきかな。


 僕らは病院のなかに戻った。






「ふぅ…………で、ほんとに大丈夫なの?」


 談話室っぽい部屋で身体を休めてしばらく、やっと息を整えた暮永さんが、僕が自動販売機で買ってあげたジュースをぐびぐびと飲んでから訊いてくる。


「うん。全然大丈夫だよ」


「……その、頬は?」


 不安げな眼差しが、ガーゼで処置された僕の頬を見つめる。


「腫れはすぐに引くみたいだから、ほんとに問題ないんだ。頭も打ってないし、けっこう余裕だよ」


「打ってないって……で、でも窓ガラスが割れてたじゃない?」


「あれは肘でやったんだ。ほら、ここ」


「えぇ……?」


 包帯の巻かれた肘を見せる。幸い針で縫うような大怪我にはならなかったけど、ガラスの破片を取り除いてもらうのには少し時間がかかった。


「そういえば……深水(ふかみ)くんに殴られる前、あなた、なにか耳打ちしてたようだけれど……」


「深水くん?」


「あ、あなたを殴った男子よ。深水颯真(ふかみそうま)くん」


「ああ」


 そんな名前だったのか。今更知ったところで覚えていられる自信はないけど、とりあえず胸に留めておこう。


 それはともかく。


「あれはね」



 ——これ以上騒ぐなら、僕、花園さんになにするかわからないよ。



「って、言ったんだ」


 説明するや、再びジュースを飲もうとしていた暮永さんは派手にむせた。


「ンン、ゴホゴホッ……! なっ、なんで、わざわざそんなこと!」


「なんか、勢いでさ」


「勢いって…………というか、あなた……まさかわざと大袈裟にやられたの? 事態の収拾をつけるために?」


「んー、どうなんだろ。正直、あんまり覚えてなくて」


 突き飛ばしてくれるとありがたいなと思ったのは、たしかだけど。


「あなた…………」


 愕然とした顔で言葉を失う暮永さんだったけど、しばらくすると「……ハァ~」とそれはそれは深いため息をついて、やがて頭を抱えてしまった。


「やっぱり、あなたの問題は早急に解決するべきね……」


「暮永さん?」


「なんでもないわ」


 そうは見えないけど。


 ぶるる、とポケットが震えるのを感じて僕はスマホを取り出す。画面には『早めに終わらせた。待ってなさい』と父さんからの通知が表示されている。僕は返信を打とうとしてずきりと肘に痛みが走るのを感じ、おもわず手を止めた。


「その腕……またしばらく使えなそうね」


「前ほどじゃないから、問題ないと思うけど」


「大ありよ」


 あきれた表情で包帯の巻かれた僕の腕を見つめていた暮永さんだけど、いつのまにか、そのジトッとした視線は僕の顔へ向けられていた。


「なに?」


「ん、その……伊庭くん、さっき学校でわたしに言ったわよね。似合ってないとか、なんとか……あれ、どういう意味なの」


「ああ」


 たしかに言ったな。そんなこと。


「まあ、そのままの意味だよ」


「そ、そのままって……」


「なんか嘘っぽかったからさ」


 暮永さんの瞳が大きく膨らんだ。


 その反応だけであれが演技であることがわかった。僕は鈍いし、なんにも気づかないような奴だけど、暮永さんのことは最近少しわかるようになってきた。


「なんであんな演技してるのか、僕にはさっぱりわからないけど。ああいうのはやっぱり、暮永さんには合わないよ」


 ふと、そのときなぜか脳裏によみがえったのは、観覧車での那瀬さんの憂いを帯びた横顔だった。




 ——でも暮永さんって基本優しいよね? 今更言ってもあれだけど、たぶんほとんど憎まれ口なんじゃない?」


 ――わかってますよ。


 ——わかってるから、嫌なんです。




「……もしかしてさ」


 不意に浮かんだ憶測は、無意識に口から滑り出た。


「暮永さんがわざと嫌われようとしてるのって、那瀬さんのためだったりする?」


「う……」


 喉が詰まったような音が暮永さんの唇から漏れた。


「あえてああいうこと言って、みんなの注意を自分に惹きつけてさ、那瀬さんに危害が向かないようにしてたんじゃない?」


「んん……」


「那瀬さんを退部させたのも、自分から遠ざけて守るためとか」


「んぐぅ……」


 暮永さんはバツが悪そうに顔を逸らす。


「やっぱり」


「ち、違うわよ……」


「ならせめて目を合わせてよ」


 そうか。なるほど。


 柚月ちゃんが言ってたこと、ちょっとわかった気がする。


 暮永さんの優しさは普通じゃない。


 ほんと。その通りだった。


「暮永さんは、もうちょっと周りを見たほうがいいと思う」


「うう……」


 暮永さんは観念したみたいな顔で「い、伊庭くんにそれを言われる日が来るなんてね……」と言って、がっくり肩を落とした。


「ふっ……飼い犬に目を噛まれるとは、まさにこのことね」


「それ致命傷だからね」


 目じゃなくて手だよ、暮永さん。






 しばらくしてから父さんの迎えが到着したと連絡があって、僕らは揃って談話室をあとにする。


 病院の長い廊下を並んで歩く。ぽつぽつと、揃わない足音が廊下に響く。


「車、本当に入っていかなくて大丈夫? もう遅いし、送ってあげられるけど」


「べつに、問題ないわよ」


「暮永さんの家って、ここから近いの?」


「近くないけど、遠くもないわ」


「だったら……」


「今日は、なんとなく歩きたい気分なの」


 小柄な暮永さんに歩調を合わせながら、僕はその横顔をうかがう。夕暮れの斜陽を受けてオレンジ色に顔を染める暮永さんは、さっきから長い睫毛を伏せがちにワックスの行き届いた艶やかな病院の床へ視線を落としている。


 僕はなんだか、訊かずにはいられなくて。


「あのときさ、言ってたこと」


「え?」


「自分は人殺しだって。あれは、本当?」


 暮永さんはどこか呆けたような顏で僕を見上げていた。その視線が、やがて僕から離れて……どこか遠くを見つめるように、


「本当よ」


 背の高い看護婦とすれ違う。僕らは歩みを止めない。


「あるところにとても可哀想な少年がいたわ。……そうね。とりあえず、加藤くん、とでも呼んでおきましょうか。彼は昔から体の弱い人で、時おり病気で入院しては学校を休んでいたの」


「病気……」


「といっても本人は不思議と陽気な人でね。病気がちとは思えないくらい笑顔が素敵で、かっこよくて、クラスの人気者だった。でも、ある日」


 持病が祟って、加藤くんは唐突に長期入院することになったの。


 暮永さんはそう続けた。


「加藤くんがひさしぶりに戻ってきたのは、中学三年の夏。少し遅れて登校してきた彼は、教壇に立つといきなり語ったわ。医者に君の寿命はあと少ししかないって言われたこと。だから元気なうちにみんなといっぱい想い出をつくりたい、って」


「へぇ……」


「すごい人だわ。残酷な運命に負けず、前向きに現在を生きようとしている。クラスのみんなは彼を尊敬したわ。できる限り協力してあげようと思った。……でも、それから一ヶ月くらい経ったあとに、ね」


 暮永さんは後ろ手に指先を所在なさげに擦り合わせる。


「ある女の子が、ある日体育館の裏で彼に告白されたの。ずっと好きでした。付き合ってください。って」


 外来ロビーには待合のために多くの人が席に座っていた。忙しなくスタッフが行き交い、時おり薬品独特の匂いが鼻をつく。


「けれど女の子は、少し待っててほしいと言うことしかできなかった。相手は一分一秒が貴重な病人だというのに、薄情な子ね」


「それで、その子はどうしたの?」


「結局振ってしまったわ。それもわざわざ二週間も返事を待たせてからね。ほんと最低でしょう? 彼はただ最後の想い出をつくりたかっただけでしょうに、その気持ちを女の子は簡単に踏みにじった」


 そこで数秒の沈黙。


 僕はなにも言わなかった。


「それがとてもショックだったのか、翌日から彼の容態は急に悪化して、そのまま帰らぬ人となったわ。数日後に彼のお葬式が執り行われたけれど、女の子は出席すらせず、それを忘れようとした」


 外へ続く自動ドアを背景に、暮永さんが振り返り、笑みを浮かべる。それは今まで見たなかで一番、作り物めいた笑みだった。


「だから、人殺しなのよ」














「……なんだ」


 僕はその場に立って、暮永さんが去っていった方向を見据える。


 自動ドアの向こう、ガラス越しに眺める広い駐車場では、行き交う自動車が夕暮れの光に照らされて車体を艶めかしく輝かせていた。乾いた風が吹き、さらさらと木々の枝葉が揺れ、白い空き缶がカラカラと退屈な音を立てて転がっていく。


「思ったより、くだらないな」


 ぐんと伸びをして、僕は欠伸を噛み殺した。

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