第21話 小さな波紋


「今の子、彼女?」


「違うよ。ただの後輩の子」


「ま、そうよね~」


 真っ白なミニバンの助手席で、僕はぼーっと窓の景色を眺めていた。


 とっくに日は暮れて、真っ暗な世界が窓の向こうに横たわっている。


「彼女ができるような子には、育ててないもんね~」


 ハンドルを握る母さんが妙に気の抜ける声で言う。


「にしても驚きね~、まさかあんなところで太啓くんとばったり会うなんて~」


 ほんとにね。


 店を出てすぐ、駐車場から「太啓く~ん」と名前を呼ばれたかと思えば、母さんが手を振っていたのだから僕もぎょっとしてしまった。


 どんなふうに空気を読んだのか、柚月ちゃんは「それでは!」と足早に走り去っていって、おかげで一人取り残された僕はそのまま母さんの車に乗せられて、家まで送ってもらっている最中だった。


「僕は母さんがファーストフード店に用があることのほうが驚きだけど」


「好きになったのよ~。父さんと離婚してからね~」


「一人暮らしは、楽しい?」


「楽しいわよ~。最初は大変だったけど、最近はとっても自由だもの~」


 呑気な口調で母さんはハンドルを切る。


「太啓くんはどお~? 学校は楽しいかしら~?」


「さあ、わからない」


 僕が淡泊な返事をかえすと、母さんは「んふふ~」と上機嫌に笑った。


「いいわね~、とっても期待通りの返事よ~」


「そこは普通、息子を心配したりするところじゃないの?」


「まさか~。だってそういうふうに育てたのママだもん~」


「子供は丸く、だっけ?」


「そ~そ~。よく覚えてるじゃな~い」


 信号に差し掛かり、車体に緩やかなブレーキがかかる。


「慎一(しんいち)さんが欲しがるから仕方なくつくったけど、元々わたしの人生に子供なんて入ってくる予定はなかったわ~。子育てなんて面倒だしぃ~」


「結婚は面倒じゃなかったの?」


「わたしに面倒をかけないって慎一さんが約束してくれたからね~。面倒なことは全部、あの人がやってくれたから、思ったより快適だったわ~」


「でも、結局離婚したんだ?」


「そ~なのよ~、笑えるでしょ~?」


「や、べつに……」


 母さんは自分を第一に考える人だった。だから子供も極限まで手のかからない、波風の立たない、角の立たない「丸い」人間を目指して僕を育てたのだとか。


「でもやっぱり時々は太啓くんの様子を見ないと~、母親としての義務を果たしてるとは言えないでしょ~? 今日はたまたま会えてよかったわ~」


「義務って言葉に弱いよね、母さん」


「ね~」


 信号が青に変わると、ぐんとアクセルが踏まれて車が発進した。


「で、そろそろ聞かせてほしいんだけど~、あの後輩の子とは~、一体どういう関係なのかな~?」


「ん? さっきも言ったけど、ただの後輩だよ。部活の」


「部活~? あ~、そういえばサッカー辞めちゃったんだってね~。それで文芸部に入ったんだって~? またなんで~?」


「暮永さんが、僕を気にかけてくれたからだよ」


「ん~? だあれ~?」


 僕は暮永さんが同じ学年の女子であることと、文芸部の部長であること、そして彼女が僕の更生のために色々と手を尽くしてくれていることを説明する。


「へ~、そんなことがあったんだ~」


 母さんはどこか感心した様子で幾度か頷いて、


「わたしは今の太啓くん好きなんだけど、さすがに死んじゃったら嫌だしね~、わたしからもその子によろしくと言っておくわ~」


「うん」


 交差点を曲がると細い道に出た。ギリギリ車二台が通れるくらいの道を、ぽつぽつと街灯が照らしている。母さんがよく使う近道だ。


「でも~、なあんでそこまでするのかしらね~?」


「え?」


 母さんの横顔を見る。


「だってその子、太啓くんのクラスメイトでもないんでしょ~? ほとんど面識がない相手のために、そこまでするのはおかしいわよ~」


「まあ、暮永さんはすごく優しい人だから」


「ところがね~。優しさっていうのは理屈にはなっても理由にはならないのよ~。残念なことにね~」


「ん? どういうこと?」


「優しいだけの人なんていないってこと~」


 夜闇の向こうに僕の住まう家の屋根が見えた。母さんはやがて優しくブレーキを踏むと、路肩に車体を寄せてサイドブレーキをパーキングにする。


「到着~。降りるときは足元に気をつけなさいね~」


「うん」


 助手席から降りる。


「母さん」


 その途中で、僕は母さんを振りかえった。


「優しさが理由にならないなら、一体なにが理由になるの?」


「面倒な質問ね~」


 大儀そうにハンドルにもたれかかって、母さんは寝ぼけ眼にすら見えるとろんとした目でフロントガラスを見つめる。


「ま、大体は自分のためよね~。その人に感謝されたいとか~、自尊心を満たしたいとか~、そうすることで自分を保ってるってケースもあったりするわ~」


 どうでもよさそうな声でつらつらと例を並べていく。


「あ~、あと意外とよくあるのがねぇ~」


 力の抜けた笑みを浮かべて、母さんは言った。




「――無視できない誰かさんに、その人が似てた」




 遠くからエンジン音が近づいてきて、やがて軽自動車が視界を横切った。ヘッドライトが夜闇に一閃の光を刻む。僕は瞬きを忘れる。


「とかね~」


「……」


「ん~? どうかした~太啓くん?」


「あ、ああ……なんでもないよ。教えてくれてありがとう」


 視界の端っこで、赤いテールランプが遠ざかっていくのが認められた。車はまもなく道路の向こうに消えていき、また夜の静寂が周囲を包み込む。


「いえいえ~」


 じゃあまたね~、と間延びした声で別れを告げて、母さんはアクセルペダルを踏んだ。ミニバンがゆっくりと道の先へ去っていくのを、僕はぼーっと見送る。


「……あれ?」


 胸に手を当てた。


 なんだろ。なんか変だ。


「ん……」


 ふと夜空を見上げる。夜空は重たい雲によって遮られて星一つも見えない。不意に黄色い半月が雲間から覗き、月の光が束の間、夜道を淡く照らす。でもすぐに雲に覆われてしまって、また姿が見えなくなった。


「……」


 なんだか、よくわからないけど。


 凪いだ湖面が一瞬、揺れたような。


 そんな感覚を、僕はたしかにそのとき覚えたのだった。



 

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