第25話 線香花火


 暮永さんは澄んだ表情で前を向いていた


 その視線が注がれる先には——だれの姿もない。


 ただ安らかな時間と、ほろ苦い現実が横たわっているだけ。


 あたりまえと言えばあたりまえだ。


 ここには今、僕と暮永さんしかいないんだから。


「……」


 僕は胸元に手を当てる。心臓はとくとくと穏やかな鼓動を繰りかえしている。


 うん。なくなってる。


 胸のなかにわだかまっていた妙な感情が、綺麗さっぱりどこかへいっていた。僕はひそかに安堵の息を吐く。よかった。このためにわざわざこんな場所まで来たんだから、消えてくれないと困るところだった。


 これでやっと、落ち着ける。



「………………なによ、それ」



 突然、声が聞こえた。


 不意を突かれた僕と暮永さんは、そろって振り向く。


 二人組の男女が、そこに立っていた。


「げ……」


 暮永さんが変な声を漏らす。


 妙に見覚えのある二人組だ。すらっと背が高いほうの男子はコンビニ袋とバケツを手に気まずそうな顔をしている。


 ……ああ、思い出した。僕を殴った男子だ。


 ということは赤縁メガネに気の強そうなあの女子は、たしか……そう、花園さんだった。


「だ、だれもいないって言ったじゃない……!」


「ごめん、全然気づかなかった」


 僕にだけ聞こえる小声で暮永さんが悲鳴をあげていた。


「黙って聞いていれば、なに……⁉ 足を引っ張るなとか、一体どういうつもりよ……‼」


 花園さんはまさに怒髪天を衝くといった形相で暮永さんをにらみつける。


 僕は謝罪の意も込めて前へ踏み出し、暮永さんを背中にかばった。


「言葉通りの意味だよ。聞いてたならわかるでしょ?」


「はぁ? なに言って……」


「暮永さんも、被害者だったってことだよ」


「ッ……‼」


 花園さんはレンズの奥の目を大きく見開く。


 本当のことなんて聞きたくなかったんだろう。気持ちはわからないでもない。長い間ずっと責めていた相手が実際は被害者だったなんて。自分がかばっていた故人のほうが実は嘘をついていたなんて。信じたくなかったはずだ。


「君たちはずっと勘違いしてたんだ」


「そんなわけ……‼」


 食い下がる花園さんの肩に、手が置かれた。神妙な顔つきの男子がなにも言わず花園さんを見下ろしている。


 花園さんは、なんだか壮絶な顔で息を呑んだ。言葉を失ったままうつむく、けど。


「……だから、なによ」


 すぐに鋭い眼差しを向けてきた。


「被害者だから、勘違いだったからって! 昔のことは全部忘れてもう自分はなにも関係ないってわけ⁉ よくそこまで薄情になれるわね‼」


「花園、さん……」


「葬式にすら来なかったくせに……‼ 今になってようやく謝りにきたかと思えば、なに? 忘れさせてもらう? 相手がなにも言えないのをいいことによくもそんなことを‼ 最低よあなた‼」


 背後で、暮永さんが怯んだ気配がした。


「勘違いなんかじゃない‼ そんなわけない‼ あんたはやっぱり、冷徹で冷酷で、自分のことしか頭にない卑劣な女よ‼」


「それの、なにがいけないの」


 僕は、気づくと口を開いていた。


「君だってそうじゃないか。結局自分のことしか見えてないから、何年も暮永さんのこと誤解したまま、馬鹿みたいに目の敵にしてるんでしょ?」


「一緒にしないで‼ あたしはそいつみたいに、わざわざこんなところまで来て死んだ人間を冒涜したりなんかしない‼ 酷いこと言ったりしない‼」


「君は、さっきからなに言ってるの?」


「はあ?」


 とても怪訝な顔をされる。話のわからないやつを見る顔だ。


 でも、僕にはそんな顔をされる理由がわからなかった。


 ただ不思議で仕方なかった。


 だって、そうでしょ?


「死人に耳なんてあるもんか」


「なっ……‼」


 絶句、といった表情。


 そんなにおかしいことを言っているのだろうか。僕は。


「それとも、死んだら責任は全部なくなるって言いたいの? なにをやっても死んだら全部逃げられるって? そんなわけ、ないじゃん」


「い、伊庭くん……?」


「死んだあとになにも言われたくないなら、生きてる間にちゃんと謝っておくべきなんだ。そんなことすらしてないなら、勝手に死んだ奴が悪い」


 花園さんと、おまけに後ろの男子も、まるでべつの生き物を見るみたいな表情をしていた。そしてたぶん、後ろの暮永さんも似たような顔をしている。


 でも、僕にはわからないんだ。


 みんながなにに驚いているのか。


 ここがどういう場所なのか。


 わからない。


「あ、あんた、それ本気で言ってるの……⁉」


「本気だよ。なにかおかしい?」


「お、おかしいに決まってるでしょ‼ あんたには、ど、道徳心とかないわけ⁉ それとも死者を尊ぶ気持ちすらないっての⁉」


「ないよ」


 即答する。


「ッ……‼ 最低よあんた‼」


 いっそう気持ちの籠った叫びが響く。怒りにも似た声だった。卑劣な男を断ずる怒りの声。


 僕は、なにも感じなかった。


 ただ凪いだ湖面のように、心は揺らがない。


「だったら、君にはあるの? 道徳心」


「あ、あたりまえでしょ‼ そんなの……‼」


「本当に? 寄ってたかって、女の子ひとりをいじめてる君に?」


「……ッ」


 花園さんは息を詰まらせた。顔もだんだん青ざめていく。


「死者への冒涜は悪くて、生者の冒涜はいいの?」


「そ、それは…………」


「生きてる人より死んだ人のほうが偉いの?」


「ち、ちが」


「矛盾してるよ。みんな」


 理屈が通らない。


 ちゃんと説明してほしい。


 僕にもわかるように。


 ちゃんと、正しく。


「どっちが正解かなんて興味ないんだ。ただ僕と暮永さんは今日、自分のためだけにここに来ただけだから。まあ僕は自分のことなんてどうでもいいし、三十歳くらいで死ねたらとか、今でも普通に思っちゃうんだけどさ。……でも」


 生ぬるい風が頬を撫でた。


「僕の人生はどうでもよくても、暮永さんの人生には、たぶん価値があるんだ」


「伊庭、くん……」


「どうでもよくないんだよ」


 細めたまぶたの隙間から、僕は花園さんたちをにらむ。


 些細なことで感動できて、色んなことに心を震わせて、他人のために心を痛めて、他人に心遣いができて。


 最初はすごく疲れそうで、面倒で、忙しそうにも思えたけど。


 暮永さんの生き方は、僕にはまぶしく見えたんだ。


「だからこれ以上、邪魔しないでほしい。人を傷つけることしか能のない君たちには想像できないほど、暮永さんはきっとすごい人なんだ」


 花園さんが怯んだように後ずさった。


 あと、一押しかな。


「それに、これ以上なにかされると、僕だってなにするかわからないから。僕は道徳心のない、最低な奴だからね」


 僕はふと思い至ると、衝動のまま墓の前へ近づく。


 そして供物台に置かれたプリンを掴んで蓋を取り去った。


「あ……」


 小さく声を漏らす暮永さんにはかまわず、僕は、思いきってプリンを一口で呑み込む。柔らかい触感と甘ったるい味が口のなかに広がった。


 ――ゴク、とこれ見よがしに嚥下して、空になった容器をコンビニ袋に入れると、僕は暮永さんの手を引いて歩き出した。



 

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