第5話 真っ白な生き損ない


 その後、僕はレジで二人分の代金を支払ったのち、爽やかな笑顔の店員の女性に見送られながらファミレスを発った。直後、車道を大きな車が横切って、すぐに角の向こうに消えていく。車の数は少なくなっていた。街はとても静かだ。

 

「僕のこと、恨んでる?」


 街灯がぽつぽつと照らすアスファルトの坂道に不思議と人影はない。


 ゆっくりと焦らすように振りかえった暮永さんの存在が、夜闇に浮き出るみたいだった。


「恨んでいない、と言えば嘘になるわ。あれのせいで車が使えないから、パパの帰宅も遅くなったし、そのせいでこうして外で食事を済ませているわけだし」


「僕に代金を払わせたのは、その腹いせ?」


「まあ、ね。……今更払ってくれは、なしだから」


「べつにそんなこと言わないよ」


 僕を突き放すように暮永さんは坂を上っていく。


 五月の夜はまだ少し肌寒くて、往生際の悪い春の気配がまだ消えてくれなかった。包帯の巻かれた腕を冷たい風が撫でて、それが身体の芯まで冷やすようで、僕はちょっと身震いしてしまう。


 暮永さんの足取りは、街灯の前で止まった。


「……最初は、見間違えだと思ったわ」


 事故当時を思い出しているのか、か細い声が空気に紛れる。


「目の前まで車が迫っているというのに、あなたは表情一つ変えず、まるで葉っぱが一枚飛んできたのを見るみたいに、退屈そうに眺めているのだもの……」


「そんな感じだったかな。あんまり覚えてないけど」


「一瞬だったから。……でも、わたしは忘れられない。夢に出てくるくらいよ」


「そんな悪夢みたいな」


「悪夢よ。だからさっき部室を訪ねてきたあなたが、まるで何事もなかったみたいに普通に振る舞っているのを見て、本当に寒気がしたわ。別人じゃないかと思った」


「え? でも暮永さん、あのときすごい不気味に笑ってた気が」


「はあ? なに言ってるのよ。たしかにあなたが逃げようとしたときは、警戒させないよう愛想よく笑ってあげたけれど、怖い笑みを浮かべた覚えはないわよ」


「あれが、愛想……?」


 いひひ、と笑う暮永さんの表情を思いだして「いやいや……」と僕は首を振る。無理があるよ。いくらなんでも。


 下手をすると嘘を看破されたときよりも驚く僕の前で、暮永さんは「……ねぇ、伊庭くん」と低く声色を変えて訊いてきた。


「あなた、いつからそんな感じなのよ」


 そんな感じとはどんな感じなのか。

 訊きかえしてみても、よかったかもしれない、けど。


「……僕にもよくわからないんだ。本当に」


 僕は素直に、偽らざる本音を語ることにした。


「なんだか、ずっと昔からだった気がするし、最近になって、初めてそうなった気もする」


 これといったきっかけなんて、なかった。


「でも自覚が出来たのは、中学を卒業したあたりかな。浅谷って友達にさ、お前は冷めてるんだって言われて、ああ、そうかもなって。元々なんに対しても興味が湧かなかったし、好きって言えるものなんか一つもなかったし、逆になにかを嫌いになったこともなくて」


「それを放っておいたら、そうなってしまった?」


「うん。そんな感じ。浅谷は僕を部活にハマらせて解決しようとしてくれてたんだけど、まあそんなに上手くいかなくて」


 知らない間に悪化してしまっていたのだろうか。


 中学の頃は少なくとも事故に遭ったりなんてしなかった。ちゃんと気を付けて自転車に乗っていたし、夜間に出歩くことも少し怖かった気がする。


 でも今はそれが遠い昔のことのように思える。当時の感情は思い出せない。今の僕が、それを必要としていないから。


「それはもう、冷めてるとは呼べないわね」


「じゃあなんて言うの?」


「乾いている。よ」


 ……ああ。

 すごい。びっくりするくらい腑に落ちてしまった。

 そうか。なるほど。

 乾いちゃってるのか。僕。


「生きている実感がないのね、あなた。だから死ぬのも怖くない」


「実感って、そんなの必要なの?」


「当たり前よ。夢のなかでこれが夢だと気づくように、これが『生』だと気づく瞬間が、人生にはあるわ。あなたにはあった?」


 迷うことなく、僕は首を横に振った。


「そう………………よし、決めたわ」


 暮永さんが振りかえる。長い黒髪が夜の世界に踊る。


「わたしが人肌脱いであげる。あなたの更生に、協力してあげる」


「え? なんでそうなるの?」


「このまま放っておいて、わたしの知らないところで死なれでもしたら、寝覚めが悪いからよ。うん。そう、そういうこと」


 なんか明らかに今思いついたみたいな……。


「あなたの乾いた心に、わたしが水をあげましょう」


 なんてかっこよさげなことを言って暮永さんは仁王立ち。神様かなにかの悪戯か。街灯がまるでスポットライトみたいに暮永さんの姿を照らしていて……、僕は、あれほど彼女に抱いていた不気味なイメージが、綺麗さっぱりどこかへ消え去っていることに、遅れて気がついた。


「……お手柔らかにお願いします」


 まあ、いいや。


 せっかくの厚意を無下にすることもない。


 変わっても変わらなくても僕はどうでもいいけど、それが危険だって誰かが言うなら、とりあえず変わる努力くらいはするべきなんだろう。


 そんなふうに、僕は思っていた。



 

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