暮永看鳥のはかまいり。
伊草
第1話 伊庭くんは冷めている
「あなたはどんなものに惹かれますか?」
テレビ画面の向こうで、スーツを着た大人の女性が言った。
「もしその答えがあなたのなかにあるのなら、あなたはきっと大丈夫です。今はまだ何も目標がなくたって、あなたの心を熱く揺らすそれが、あなたを活かす鍵となり、あなたが生きる糧となるんです」
その番組は有名タレントが教師となって、無気力な子供たちに向けて人生をテーマとした授業を届けるといった形式のようで、僕がテレビを点けたとき、ちょうど番組は佳境に入っていた。
「荒川くん、あなたが好きなものはなに?」
「お、おれは……ゲームとか、あ、アニメとかしか、好きなものがなくて……」
「いいじゃないですかゲーム! アニメだっていまや日本を代表する貴重な文化です。自分の好きなものに自信を持ってください!」
「先生、わ、わたしは星を見るのが好き、なんですけど……。そんなものでも、いいんですか」
「もちろんですよ。素敵です。先生も星を見るのは好きです」
あなたたちの人生は希望に満ちています。
女性はしきりにそう語ってみせる。
熱弁に耳を傾ける子供たちには一切ふざけるような素振りがなくて、なかには涙ぐんでいる女子だっていた。授業を受ける生徒たちの真剣な眼差しに宿る、爛々とした輝きが、あるいは先生の言う希望なのかもしれない。
でも、だったらさ、
「なににも惹かれないような人は、どうやって希望を持てばいいのかな」
無意識に漏れた独り言だった。
『そんなやつはいねえよ』
僕の問いに答えてくれたのは、もちろんテレビ画面の奥の女性ではなくて、テーブルに置いてあるスマホのスピーカーだった。
「いや、ここにいるんだけど」
『またそんなこと言いやがって……。いいか? 太啓(たける)。お前はそもそもまだ若い』
浅谷直哉は僕の同級生で、こうして深夜にスマホを介して無駄話をするくらいには距離の近い友達で、もちろん僕と同い年だったはずなんだけど、
『若い。とにかく若ぇんだ。お前はまだ』
「なにが言いたいの……」
『聞けって。たとえば今の世界の平均寿命、知ってか? 七十歳くらいだ。そんで日本の男ってなりゃそれが八十歳くらいに延びて、これからまだまだこの数字は延びるって話だ。そんだけの時間が俺らには残されてんだぞ? まだ中坊のお前がそんなことで悩んだって、んなのしゃらくせーことなんだよ』
「べつに悩んでるわけじゃないけど」
ちょっと疑問に思っただけなのだ。
「そもそも、そこまで長生きする必要ってあるの?」
『たりめーだろ。百年あっても足んねーよ』
「そんなに生きて、浅谷はなにがしたいの?」
『そりゃ色んなもん楽しむんだよ。一度きりの人生だぜ? やりてーことやってから死にてーだろうが』
「べつに、僕はそう思わないけど」
『んじゃお前は何歳まで生きりゃ満足なんだよ?』
「まあ、長くて三十歳くらいでいいかな」
『みじかッ‼』
スピーカーの音が激しく割れる。
「そうかな。生物全体で見たら、けっこう長生きのほうなんじゃない?」
『いやいや……流石に三十はねーべ? あと十五年くらいじゃねーか』
僕らはもうすぐ高校生で、計算するとたしかにそれくらいだ。
『お前なあ……来週から高校デビューだってのに、そんな冷めててどうすんだよ』
「冷めてる、のかな。なんか、そういうのとは違う気もするけど」
たしかに浅谷は自他ともに認める熱い男で、だから対称的な僕をそう言いたくなる気持ちはわかるけれど、なんとなく、その呼び方はぴんと来なかった。
とそのとき、パンッ! と手が打ち鳴らされる音がスマホ越しに急に響く。
『そうだ! じゃあ高校は俺と一緒にサッカーやるってのはどうだ⁉』
「な、なんでそうなるの」
『お前運動神経悪くねーのに、ずっと帰宅部だったろ? なら手っ取り早くなんかにハマっちまえばさ、そんな冷めたことも言わなくなるって。つーか絶対そうだろ!』「……」
僕はべつに、今の自分を変えたいわけじゃない。
『俺も同中の奴がいたら心強いしさ、一石二鳥だろこれ! なっ!』
「うん。わかった」
でも誘われたら頷いておくのが、僕の信条だ。
『いやあ、俄然楽しみになって来たぜえ! 高校生活‼』
「そりゃ良かった」
*
そんな、一年以上前の今さらどうでもいい記憶。
どうして今、そんななんでもない記憶が脳裏によぎったのか。
あるいは、それが走馬灯というものだったのかもしれない。
「……あ」
気づいたときにはもう遅かった。
まばゆいヘッドライトが自転車に乗った僕を照らす。
それは――真っ暗な深夜の刹那。
夜の道路を走る一台の自動車と、一人の僕に起きた悲劇。
驚愕の表情でハンドルを握る運転手の男と、その娘らしき女の子の青ざめた顔が、一瞬のうちに掻き消えて、鈍い衝突音が街に響き渡った。
直前に急ブレーキをかけたんだろう、悲鳴のような摩擦音が遠くで聞こえた。それでも咄嗟の判断もむなしく、僕は横合いから自動車にもろに追突され、なかなかの勢いで吹き飛んだ。ごろごろと石ころみたいにアスファルトを転がって、気づけばガードレールを背に倒れていた。
「ッ、ぐッ……」
左腕に激痛。
僕は苦鳴を漏らし、情けないことに涙や鼻水を垂れ流しながら、その場にうずくまった。「だ、大丈夫ですか⁉」運転手の父親が駆け寄ってくる気配がするけど、妙に曖昧だ。
意識が朦朧とする。左腕の痛みも遠ざかっていく。身体の感覚が消えていく。
でも、僕の心は不思議なくらい穏やかで。
眠るように、僕はまぶたを閉じた。
*
「それで……よく生きていましたね」
「まあね」
五月下旬、ゴールデンウィーク最終日。
僕は長期休暇を締めくくるサッカー部の活動に顔を出していた。
広々としたグラウンドの端っこ、屋根付きベンチに並んで座り、たった今僕に向けて気遣わしげに言ったのは、サッカー部のマネージャーである那瀬叶葉(なせかのは)さんだ。さらさらセミロングの黒髪に、宝石みたいな碧眼、まるで西洋人形みたいな常人離れした綺麗な顔立ちを曇らせて、はらはらと胸を撫でおろす。
「わたしは聞いていて、生きた心地がしませんでしたよ」
「そうなの? 僕はおもしろい話をしたつもりだったんだけど」
「どこがですか……」
那瀬さんの声に呆れと非難が混じり合う。
「だって、これから轢かれるってときに見た走馬灯がそれだよ? おかしいでしょ?」
「もう怖い話は聞きません」
そっぽを向かれてしまった。
「へいパース‼」
グラウンドでは晴天の下、部員たちがボールを追いかけ合っている。フォアードの浅谷が人一倍大きな声を上げて敵陣へ切り込む。砂塵の舞うなか額の汗を拭う浅谷の姿は、とても爽やかだ。
誘われてサッカー部に入って、はや一年。
結局、僕は何も変わらなかった。
他の何かに熱中することもなく、浅谷の言う「冷めた」性格は依然として治らなかったのだ。
「わたし、伊庭(いば)くんはサッカーが好きなんだと思ってました」
「僕がサッカー好き? どうして?」
「どうしてって……だって、好きじゃなかったらとっくに辞めてますよ。今日だって、部活動には参加できないのに、こうして休日に顔を出してまで真面目に取り組んでるじゃないですか?」
「レギュラーじゃないのに、律儀に部活に来るのはおかしい?」
「そ、そういうんじゃなくて」
那瀬さんは慌てて頭を振る。セミロングの黒髪がさらさら揺れる。「わかってるよ、ごめんね」僕はペットボトルの水を一口飲む。
「うっしゃあ‼」
と、そのとき浅谷がシュートを決めたようだった。見やると、チームメイトに囲まれて笑っている。すると一瞬、そんな浅谷と目が合った。だがすぐに逸らされる。可愛い人気マネージャーと並んで喋っているのが気に入らないらしい。困ったものだ。
「その腕、大丈夫ですか?」
ふと訊ねられた。那瀬さんの視線は僕の――包帯の巻かれた腕に向いている。
「大丈夫だよ、もうすぐ直るってさ」
「あの、伊庭くん、差し出がましいかもしれないですけど、お祓いとか、行ったほうがいいんじゃないですか?」
「ん、なんで?」
「なんでって……だって、これで事故に遭うの、何度目ですか?」
「…………」
僕は気まずくなってぽりぽり頭を掻く。
直後、ホイッスルが鳴った。
「試合終了だー‼」
*
——そう。
僕がこうして交通事故に遭うのは、初めてじゃなかった。
入学してからは、なんと四度目だ。
即刻病院送りになったのは二度目だったりする。
そのあまりの不幸体質に、不気味さを感じた人はみんな揃って言う。
——さっさと祓ってもらえ。
最近は親にも言われるくらいで、ここ数日は僕もいよいよじゃないかと思っていた。
今回の事故で五体満足なのは奇跡に近い。
でもこの先、無事でいられる保証はない。
というわけで、僕もほとほと困り果てているのだった。
「祓ってもらえって言ったってなあ~」
放課後の教室で、浅谷がぼやく。
「ここらに神社とかねーし。どうやって祓ってもらうんだよ」
「浅谷が悩む必要はないと思うけど……」
顧問の都合で今日の部活がなくなり、教室に残った僕らはなにをするともなく駄弁っていた。話題は、僕の「御祓い」についてだ。
「なあに言ってんだ。このままじゃろくに部活もできねーどころか、卒業まで生き残ってるかも怪しいんだぞ。自覚持てよ」
「うーん……」
「絶対なにか良くないものが憑いてやがる。どうにかしねえと」
浅谷の目の光り方は探偵のそれだった。
「やっぱり異常だよね、これ」
「ああ。お前なんかは知らねーだろうが、最近じゃ『伊庭太啓(いばたける)には悪霊が憑りついている』って、巷じゃ噂になってるくらいだからな」
どこの巷なんだ。それは。
「噂になる程の知名度が僕にはないよ」
「まあ確かに。大きな噂になんのは大体人気者か、美男美女か、あるいはあの呪いの女の……」
ぴた、と浅谷の動きが止まる。どうしたのか。首を傾げた僕の前で、浅谷は、ぱん、と急に手を鳴らした。
「喜べ。妙案を思いついた。いくぞ太啓」
「いや、どこに?」
「ふっ、決まってるだろ」
得意げに笑って、浅谷は言った。
「文芸部だよ」
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