第11話 夢の国


 土曜日は前日の夜から雨がずっと降り続いていて、今朝までさんざん降ったあと、太陽が昇る頃にはすっかり止んでいた。


 というわけで遠出は中止にはならずに済み、僕らは当初の予定通り駅前で待ち合わせすることになった。今朝はとくに早起きする必要もなかったから、父さんとゆっくり朝ご飯を食べたあと、余裕を持って家を発った。


 そして午前十時。


 遅刻してくる人はいない。みんなきっちりとした性格のようで、予定の十分前には全員がそろってしまった。このままスムーズに予定が進んでいくだろう。と、少なくとも僕は思っていたんだけど、現実はそうでもなかった。


「……」


「……」


 奇妙な形をしたオブジェの前で、二人の少女が無言でにらみ合う。


 一人は言わずもがな、文芸部部長の暮永さん。


 もう一人は、なんと那瀬さんだった。


 まるで一触即発のムードを漂わせながら、二人はお互いの出方をうかがうように対峙している。犬と猿。ヘビとマングース。例えるならそんな感じ。


「ちょ、ちょっと先輩!」


 柚月ちゃんが僕の手を引っ張って顔を寄せてくる。


「なんで那瀬先輩がいるんすか⁉ わたし聞いてないっすよ!」


「や、僕もよくわかってない。ほんとに」


「じゃあなんで待ち合わせ場所とか時間とかばれてるんすか⁉」


「それは……聞かれて教えたからだけど」


「やっぱ先輩が元凶じゃないすか⁉」


 ぐあー! といつになく吠える柚月ちゃん。


 僕は首を傾げるしかできなかった。そりゃあ教えたのは僕だけど、こうして当日に突撃してくるなんて予想していないし、ここまで暮永さんと険悪な雰囲気になるなんて夢にも思わないじゃないか。


「そもそも暮永さんと那瀬さんって面識あったの?」


「……わたしが部に入るまでは、那瀬さんが部長だったらしいっす」


「え? じゃあもしかして、二か月前に辞めた部員って……」


 柚月ちゃんが苦い顔で頷く。


 そういえば那瀬さんがサッカー部のマネージャーにスカウトされたのも、ちょうどそのくらいだった気がする。


「へぇ、なんかすごい偶然だね」


「わたしが入部してすぐ那瀬先輩が辞めちゃったので、二人が話しているところはちょっとしか見てないっすけど、ほんとマジで水と油っていうか……」


「ふーん、そうなんだ」


「な、殴りてー、その呑気な顔……」


 拳を震わせる柚月ちゃんから視線を転じて、なおもにらみ合う二人を見やる。


「……どうしてあなたがここにいるのかしら? 叶葉さん?」


 しびれを切らした暮永さんが明らかな作り笑顔で問うと、那瀬さんも仮面のような笑みでこたえる。


「久しぶりなのにそっけない言い方ですね。看鳥ちゃん。一応わたし、一年も同じ部の一員だったはずですが」


「勝手に辞めたのはそちらでしょう? それともなに? また部に復帰したい、とでも言うつもりかしら?」


「まさか。冗談でもやめてください」


 夏の日差しの下、静かに繰り広げられる修羅場的ななにか。駅に向かう人たちは初めに張り詰めた空気に気を取られ、次いで那瀬さんの容姿に目を奪われ、最後に暮永さんの怨念のこもった眼差しに息を呑んで、そそくさと足早に立ち去っていく。


 二人とも別の意味で目立つ性質(たち)だ。自然とオブジェの前にエアポケットみたいな空間が出来上がっているけど、二人に気づく気配はない。


「わたしはただ、看鳥ちゃんに伊庭くんのことを任せられないと、思っただけです」


「……ハァ?」


 女の子の口から出るとは思えないくらい、ドスの効いた声だった。


「伊庭くんの更生は、看鳥ちゃんには荷が重いです」


「ハッ、大きなお世話ね。大体、伊庭くんがどんな人か、あなた知らないでしょ?」


「知りました。だから来たんです」


「……?」


 暮永さんが眉をひそめて、ちらっと僕のほうを見る。けど僕がなにも反応しないことがわかってか、すぐに那瀬さんに向き直った。


「私には荷が重いって言うけれど、じゃああなたには、なにができるっていうのよ」


「わたしは伊庭くんが興味を持つものに、一つ、心当たりがあります」


「な、なんですって……?」


 那瀬さんの言葉に僕もちょっと驚く。となりでは柚月ちゃんが「なに? なんなんすか?」と興味津々に訊いてくるけど、僕にもわからない。


「ふ、ふん! いいわ! あなたの言い分はわかった。けれど、こちらも今日のことは以前から決めていたの。急に予定変更はできないわよ」


「わかっています。わたしは今日、ついていくだけですから」


「当然よ。せいぜい邪魔にならないよう、おとなしくしていなさい」


 そう釘を刺すと、暮永さんは不機嫌そうにそっぽを向いた。





 例によって目的地は聞かされておらず、流されるまま電車を乗り継いでいく。

 ただ僕も遠出の経験は少なくても、とくに箱入り息子というわけじゃない。違う電車に乗り、乗客の服装が派手なものに変わっていくにつれ、なんとなくどこへ向かっているのか察した。


 それから数十分後。


「うぉぉおお‼」


 大きなアーチを抜けて園内に足を踏み入れてしばらく、我慢の限界とばかりに柚月ちゃんが雄叫びをあげる。


「ただいま夢の国おかえりわたしぃぃい‼」


 パステルカラーの建物が並ぶ、そこはメルヘンの世界。


 日本で指折りのテーマパーク。その名も『デスティニーランド』。


 若者たちが愛してやまない、まさしく夢の国だった。


「そぉーちゃくッッ‼」


 一体どこから取り出したのか、気づくと柚月ちゃんが頭に丸くて大きな耳を装着していた。なんとなくネズミっぽい耳だ。


「つけ耳はつけるためにある。では先輩、外すためにあるものって、なんだかわかるっすか?」


「なんだろう? わかんないけど」


「――ハメっすよ」


 縁なしメガネの奥ですさまじいキメ顔をつくった柚月ちゃんは、また妙な叫び声をあげながら売店っぽい華やかな建物へ突撃していく。


「ふっ、圧倒されているわね。伊庭くん」


「暮永さん」


 隣に並んでくる暮永さんもどこか得意げで、頭には猫っぽいつけ耳。この人はこの人で浮かれてるんだな、と心のなかで僕は呟く。


「『デスティニーランド』は日本有数のテーマーパーク。ゆえに、ここには人を楽しませるための英知が詰まっているわ。ここで得る刺激は、きっと伊庭くんにとっても有意義なものになるでしょう」


「たしかに初めて来たよ、こういうところ」


 中学の卒業旅行で一度誘われたことはあったけど、折悪く体調を崩して結局行けなかった。だから本当に初めてだ。


「今日の帰り道、かならず伊庭くんは『来て良かった!』と言うことになるわ。そのためにも思う存分、今日は遊びつくすわよ!」


「単に看鳥ちゃんが来たかっただけじゃ……」


「部外者は黙りなさい」


「なっ……そんな言い方は」


 那瀬さんの声を無視して、暮永さんは僕の手を引いて歩き出した。





 ここには人を楽しませるための英知が詰まっている。


 暮永さんのその言葉があながち大袈裟でもないと思い始めたのは、迷路のような船のなかを探索する体験型アトラクションから出て、続いて怪しげな塔を模した絶叫系のホラーアトラクションを満喫したあとのことだった。


「感じたっすか姉御! ぶわぁって‼ ぶわぁって一気に落ちたっすよ‼」


「ええ。落ちたわ。とても落ちたわ」


 興奮冷めやらぬ様子の柚月ちゃんと、しみじみと高揚感を噛み締める暮永さんが互いにアトラクションの感想を述べてはうんうん頷き合っている。


「柄にもなく叫んでしまいました……」


 那瀬さんも夢心地といった顔だった。ふんわり桜色に上気する頬を両手で挟んで、ほぅっと息を漏らす。絶叫系は僕と同じで初めてだったらしいが、この様子だとけっこう素養があるのかもしれない。


 三者三様の反応で、みんな楽しんでいる。


 これは三人だけに言えることではない。


 僕らは今、陽気な漕ぎ手が舵を取るオシャレなゴンドラに乗って、異国情緒あふれる街並みを背景に運河を渡っている。もちろん乗客は他にもいて、みんな乗ってきたアトラクションの感想を言い合ったり、普通に生きていたらお目にかかれないようなロマンチックな風景を陶然と眺めながら談笑していたりする。


 こんなに大勢の人々が一様に笑っている光景は初めてで、僕にはとても不思議に思えた。


「楽しくありませんか? 伊庭くん」


「……そんな顔に見えたかな?」


「いえ。なんとなく、です」


 那瀬さんはついばむように売店で買ったチュロスを食べる。ゴンドラのなかで少し肩身を狭くして、ちらり、と前に座っている僕の顔をうかがった。


「よくわからないんだ」


「わからない?」


 うん、と僕は頷く。


「つまらないわけじゃないよ。ただ、なんでみんながそんなに楽しいのか。笑ってるのか。わからなくて」


 色鮮やかな外壁の建物がゆっくり視界を過ぎていく。目に映るもの全てが新鮮で、物珍しくて、見ていて飽きない。


 でも——それだけ。


 色彩が豊かでも乏しくても感じるものはさして変わらない。どこを探検しても冒険心はくすぐられないし、スリルのある体験で覚えたドキドキも数秒のこと。明日には忘れてしまいそうなくらいの、その程度の「物珍しさ」でしかない。


「本当になにも感じないんですね。伊庭くんは」


「ごめんね。こんなやつと一緒にいても、楽しくないでしょ」


「そんなことはありません」


 那瀬さんは小さくかぶりを振ると「……そうだ」とつぶやき、二つ目のチュロスを取り出して、どうしてか僕の前に差し出してくる。


「どうぞ」


「え、なに?」


「行儀は悪いですが、これを食べて元気だしてください」


「べつに、元気がないわけじゃないんだけど」


「いいから。はい、あーん」


 ぐい、と鼻先に近づけられて、少し動揺しながら僕はかじりつく。


「美味しいですか?」


「……うん」


「よかったです」


 と言って、僕がかじった部分を那瀬さんが口に含む。「ふふ、やっぱり」と意味深なことをつぶやきながら僕に向けてくる微笑みが、なんだかわざとらしいくらい蠱惑的で、腰の上あたりがなぜかむずむずと変な感じだった。ちなみに暮永さんはいつから僕らを見ていたのか「な……」と空いた口が塞がらない顔で肩を震わせている。


「那瀬さん、今日なんか変じゃない?」


「そうですか? そんなことないと思いますけど」


「そういえば、僕が興味を持つものに心当たりがあるって言ってたよね? あれって、なんなの?」


 ゴンドラがレンガ造りのアーチ橋に差しかかる。橋の下に入ると船体に影が降りた。那瀬さんのあざとい微笑みが薄闇のなかに紛れる。


「秘密です」




 

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