第14話 夕焼けと込み入った事情


 観覧車から降りた僕と那瀬さんを待っていたのは、仁王立ちする暮永さんからのお叱りの言葉だった。


「だいたいあなたは――」


 練っていた予定を崩されたのがよほど頭にきているのか、暮永さんのお説教はなかなか長く、かつ那瀬さんに対しての比重が大きかった。


 そして那瀬さんと言えばずっと拗ねた顔でそっぽを向いていて、それがまた暮永さんの怒りの火に油を注いでいた。ただなにかしら那瀬さんも反省している部分があるのか、反抗的な態度も徐々に弱弱しくなっていったけど。


 そんなわけで那瀬さんの思惑は失敗に終わったみたいだった。






「遊ぶような気分じゃなくなってしまったわね……」


 通りを歩きながら暮永さんがつぶやく。説教が済んだあとも依然として機嫌がなおる気配はなく、みんなの雰囲気も良くはなかった。笑顔咲き誇る通りのなか、とぼとぼと暗い顔であてどなくさまよう僕らはきっと色んな意味で浮いている。


「そうだね。柚月ちゃんはすごく元気そうだけど」


「あの子の明るさは際限がないのよ」


 相変わらずのテンションであっちへ行ったりこっちへ行ったり忙しい柚月ちゃんを眺めながら、暮永さんはため息をつく。


「そういえば、伊庭くん。あなたずっと叶葉さんと一緒だったのよね?」


「うん。そうだけど」


「……どう、だったのかしら」


「ん、どうって?」


 訊きかえすと、暮永さんは不満そうな顔になった。


「……あ、あの子がレストランで言ったのよ。伊庭くんはわたしに興味を持ってるはずだって。だから、わたしの存在が伊庭くんにとって、絶対いい刺激になるはずだって」


「そんなこと言ってたの?」


「ええ。もちろんわたしは反対したけれど……なんだかんだいってあの子、容姿だけを見たら……ま、まあ、それなりに綺麗なほうだし? なんか男子にも人気あるらしいし? もしかしたら、あの子の言う通りかもしれないって……」


「それなりにってレベルじゃないと思うよ。那瀬さんは」


「う、うるさい」


 暮永さんは「……そ、それでッ!」となぜかもじもじとしながら、


「どうなのよ……あの子にいっぱいアプローチされた感想は……」


「そりゃ、ドキドキしたよ」


「しっ、したのねっ。ドキドキしたのねっ」


「うん。でもこれって、暮永さんが言ってたのとは違うでしょ?」


「ち、違うって……な、なにが」


「身体は反射的にびっくりするけど、すぐにどうでもよくなるんだ。那瀬さんが特別ってわけじゃなくて、たぶん柚月ちゃんとか、桜庭先生とかにされたって、一緒だったと思うよ」


「さ、桜庭先生……」


 顧問の先生を例に出すのは唐突だったか、暮永さんが頬を引き攣らせる。かまわず僕は続けた。


「要するに、こういうのは性欲の話だからさ。やっぱりなにか違うと思うよ」


「身も蓋もなさすぎるわね、あなた……」


 嘆息したのち暮永さんはどこかからメモ帳を取り出す。いや、日記だったか。開かれたページにさらさらとペンを走らせながら、暮永さんは「でも、その通りよ」と言った。


「恋愛は本能ではないわ。元からあるものではなく、ふたりでゆっくり育んでいくものだから。…………間違っても、強いられるものではないのよ」


 静かな声音は、強い感情の裏返しのようで。


 妙に含みがあって、僕に対して言っているのに、僕ではない誰かに向けられたもののように感じてしまう。まあ気のせいだろう。


「暮永さんって、意外と乙女なんだね」


「なっ……‼」


 不健康なくらい真っ白な頬が、一瞬でさっと赤くなる。


「あ、あくまで一般論よ、一般論……」


「褒められて、恥ずかしいの?」


「っ……⁉ あっ、あなたねっ……‼」


 耳元まで顔全体を紅潮させた暮永さんが、キッと僕をにらむ。小動物の威嚇みたいだなと僕は涼しい気持ちで思った。笑っているときのほうが暮永さんは怖い。


 暮永さんは悔しそうに唇を噛んで俯いてしまう。


 が、数秒経ってから、ハッ、と妙案が浮かんだような表情で顔を上げ、僕を見てにやりと笑った。


「そういえばあなた、さっき柚月や桜庭先生を例に挙げていたけど」


「うん。挙げたね」


「どうして……わたしの名前は出さなかったのかしらね?」


「えっ……」


 虚をつかれて、僕は固まった。


 なぜだろう、頭が真っ白になったみたいな。


「ふふ……」


 一矢報いてやった、と得意げな顔で頷くと、暮永さんは僕を置いて歩みを進め、那瀬さんと柚月ちゃんの間に入るように肩を並べた。


 なんだろう。


 よくわからないけど。


「……びっくりした」


 茫然と、呟くしかなかった。







「――階段から落ちたんです。わたし」


 帰りの電車のなか、那瀬さんが不意につぶやく。


「え、なに?」


「伊庭くん。さっき訊いたじゃないですか。どうして文芸部を辞めちゃったのかって。やっぱり、ちゃんと答えておこうと思いまして」


「あー、うん」


「なんですか? その気のない返事は……」


「いや、結局敬語に戻すんだと思って」


「う……」


 さっき柚月ちゃんから聞いた話に寄ると、那瀬さんは高校に入るまで滋賀県で暮らしていたらしく、未だに関西弁が抜けないのだとか。それのなにが問題なのか僕にはよくわからなかったけど、独特な関西弁が原因で嫌なことがあったりするのかもしれない。那瀬さんにしかわからない事情だろう。


「あまり似合わないと言われるので。……って、べつにいいじゃないですか。そんなことは」


「だね。ごめん。話の骨折っちゃって」


 軽く謝ってから、となりに座る那瀬さんに顔を向ける。


「階段から落ちたって、なんで?」


「ただの不注意です。そのとき看鳥ちゃんと口論になっていて、あやまって足を踏み外してしまって。そのせいで腕を痛めてしまいました」


「もしかして入院したの?」


「まさか。軽い怪我ですよ。すぐ治りました」


「でも、それで仲違いしたんでしょ?」


「いえ、そんなことで因縁をつけたりはしません。まあ、看鳥ちゃんからはなぜか謝罪されましたけど……、まったく、お門違いもいいところです」


 暮永さんはきっと責任を感じて律儀に謝ったんだろうけど、那瀬さんとしては自分の不注意でしかないという認識みたいだ。筋違いの謝罪をされて、逆に憤りを覚えたらしい。


「ただ」


 と、那瀬さんは言葉を切って、


「……後日クラスメイトに詰め寄られて、わたし、うっかり言っちゃったんです。わたしが負傷したのが、看鳥ちゃんと口論していた最中だったことを」


 那瀬さんが後悔の眼差しを向ける先には、四人掛けの向かいの席で柚月ちゃんと頭をくっつけ合いながら寝息を立てている暮永さんの姿があった。


「看鳥ちゃんが、わたしに呪いをかけた、と。そんな馬鹿みたいな噂が瞬く間に校内に広がりました。迂闊でした。ほんとうに」


「……なるほどね」


「わたしは必死に訂正したんですけど、ほとんど意味はありませんでした。今までも何度か同じようなことはあって、そのたびに誤解を解いてきたんですけど、あのときだけは少し様子が違って……近しい友人や担任の教師にまで退部を勧められて、わたし我慢できなくなっちゃって、そのことを看鳥ちゃんに相談したら……」


「したら?」


「……『じゃあ辞めればいいじゃない』って」


「うわー……」


 さすがの僕もちょっと引いてしまった。


「『あなたがいなくても部は回るわよ』って。そんなふうに言われて……わたし、すごく頭に来ちゃって」


「その勢いで、辞めたんだ?」


「……はい」


 車窓の向こう、コマ送りのように流れていく夕暮れの景色を眺めながら、那瀬さんはぽつりとつぶやく。


「逃げたんです。わたし」


 僕はすやすやと眠る暮永さんを見る。いつもは一匹狼な感じの暮永さんだけど、縮こまるようにして眠っている今の姿は、ちょっと大きな犬みたいにも見える。まちがっても誰かを恨んで呪いをかけるような女の子には思えない。


「……あの噂」


「え?」


 無意識に、声が漏れる。


「なんであの噂、あんなに大袈裟なんだろ」


「……伊庭くん?」


「あ、ごめん。ただの独り言だよ」


「看鳥ちゃんの噂のことですか? まあ、たしかに尾ひれがつきすぎているとは思いますけど、噂とはそういうものですし……」


「そう、だよね」


 たしか以前僕に警告をしてきた、あのなんとかって子が積極的に暮永さんの噂を広めているらしいけど、よくよく考えると、どうしてわざわざそんなことをしているのか。全然わからない。





「ごめんなさい」





「「え……?」」


 僕と那瀬さんは同時に視線を上げた。


 暮永さんは、かすかに眉をひそめてくぐもった声を漏らしていた。うなされているのか。柚月ちゃんに抱き着くように身を寄せる。


 長い前髪の隙間、白い額ににじんだ汗の粒を那瀬さんがハンカチでぬぐってあげると、その表情は穏やかなものに戻った。


 ごめんなさい……、か。


 それは一体、誰に向けての言葉なのだろう?

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