Rakugo(落語)

 五時限目の授業が終わり、みんながバタバタと帰り支度や部活動への移動を開始しても、僕にはなにもやることがなかった。


 僕はその時バイトもしていなかったし、その日はテスト期間前で部活もなかったので、この時間がとにかく憂鬱だった。いくらサスティナブル主義を掲げていても、何もやることがない自分の空虚さを思い知らされるのが嫌だったし、騒々しいし埃も立つ。どうせアパートに帰ってもやることがないのだ。


 仕方なく、僕は朝に聴くことができなかったイヤホンを耳に突っ込み、目を閉じ、映像と音ごと周囲をシャットダウンしてしまうことにした。このまま椅子に座って大半の生徒がいなくなってからシレッと帰れば、僕の何らかの名誉がまだ保たれる感じがしたのだ。本当にくだらない抵抗だけど、その時の僕は真剣にそんな惨めな抵抗を続けていたのである。




 プレイリストの中から、お気に入りの一席をタッチした。

 「一曲」ではない、「一席」である。




『近々あっしが田舎に引っ込むってぇなら、おめぇはまだ吉原にも行ったことがねぇんだろう、花魁おいらんの道中てぇものをいっぺん見ろてぇから、あっしは嫌だ、ってそう言ったんだ』―― 。




 『紺屋こうや高尾たかお』。僕のお気に入りの噺。

 高校生が聴くものの中ではおそらく一番シワシワなもの――いわゆる落語である。




『決してあんなところへ行くんじゃあねぇ、病気でも背負った日には生涯取り返しがつかねぇから、決して足を踏み入れちゃあならねぇと言われている、だからあっしはおっかねぇから行かねぇってそう言ったんだ』――。




 僕は落語が好きだ。大人になった今でもたまに高校時代を思い出して聴くことがある。


 落語の本質は人間の業の肯定だと、誰かが言っていた。

 その当時の僕はとにかく誰かに自分のことを肯定してもらいたかったのかもしれない。


 堕ちていく、集団から際限なくズレていく自分を、落語はそれでもいいのだと肯定してくれていた気がするのだ。




『馬鹿なことを言うない、ただ見るだけなんだから決して間違いはねぇから行ってみろってんで無理に引っ張って行かれました。花魁おいらんてぇものを初めて見ましたが――綺麗なもんでんねぇ』――。




 その瞬間だった。僕の周囲の気配が変わった気がした。


 ん? と僕が異変を感じて顔を上げると、まず目に入ったのは豪奢な金髪だった。


 決意の一文字を表情に浮かべ、きゅっと唇を引き結んでこちらへ歩いてくる人――。




『中でもこの、高尾太夫。絵のようだ、なんて喩えを言うが、とんでもねぇ、絵どころじゃあねぇ。人間にあんな人があるかと思った』――。




 何人かの生徒が、思わずというように彼女を振り返った。


 絵のようだ、なんて喩えを言うが、とんでもない。


 確かに、絵どころではなかった。


 まるで西洋の宗教画の世界から抜け出してきたかのように、その時人混みを縫って歩いてきた彼女のオーラは圧倒的で、まるでそれ自体が輝いているかのようだった。




『ああいう花魁に盃のひとつも貰えねぇかと言ったら、友達がみんな笑ってやがる。あれは大名道具と言っておめぇたちは傍へも寄れねぇから、そんな夢のようなことは諦めろって』――。




 ユーディト・聖海きよみ・ビスマルク。


 まるで夢のような美少女が、真っ直ぐ僕の傍に歩み寄ってきて、腰に手を当てて立ち止まった。


 


 イヤホンを外して。

 ユーディトさんの形の良い眉が、そう命じた。


 美人は目先ひとつで城を傾ける、という古い格言は本当だと思った。

 僕は思わず、命じられるままイヤホンを両耳から引き抜いた。

 

「あの――何?」

 

 僕は精一杯冴えない返答を返した。百点満点の返答だったと、今も思う。

 けれど――そんな涙ぐましい僕の「配慮」も関係なく、ユーディトさんは思いがけないことを言った。




「ちょっと付き合ってほしいのだけど」




 ざわ――と、教室に居残っていた連中がどよめいた。

 言われた瞬間、僕は恐怖のあまり頭を抱え、奇声を発し、両手をめちゃくちゃに振り回して二階の窓から飛び出した――というのはもちろん嘘だけれど、かなり真剣に、そうしてしまえたらどんなに楽に済むだろうかと考えた。


「どこに?」

「ちょっとそこまで」

「どれぐらい?」

「私がどうしてこんな誘い方をしているのかわかってるでしょ?」

「いや、本気でわかってないんだけど……」


 僕は卑屈に笑った。それ以外方法がなかった。


 クラスの連中は突如として会話し始めた僕らを、まるで聖母マリアの降臨を見たように、硬直したまま見つめている。


 ユーディトさんは僕の卑屈な笑いに苛ついたとも、落胆したとも取れる表情でため息をついた。


「わからないの? 昨日あんなことがあったのに?」

「いや、昨日って……」


 僕がそこまで言いかけた、その途端。ユーディトさんの手が電撃的に動き、僕のお留守になっていた右手を取った。うわっとたたらを踏む間もなく、僕は女子としてはかなり体格のいいユーディトさんに引きずられて歩き出した。


「ゆ、ユーディトさん――!?」

「いいから! 何も言わずに付き合って! こっちに来て!」


 僕の抗議を悲鳴のような叫びで掻き消して、ユーディトさんはずんずんと歩いて教室を出ていった。

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