ラーメン

Sauerkraut(漬物)

「お前なぁチヨダ、進路希望調査表にUberEatsって書いてきたの、前代未聞、お前が初めてだぞ。普通は進学先、もしくは公務員とか一般企業とかって書くもんなんだぞ。言っとくがUberEatsが悪いってわけじゃないぞ、お前のこういうひねくれ方が問題なのであってな……」


 当時の僕の進路指導を担当してくれていたのは、ホリヤマ先生という五十絡みの男だった。草臥れた男、の一言で全ての説明がつきそうなホリヤマ先生は、撫で付けただけの胡麻塩頭を掻きながら渋い顔をした。


「第一お前、成績は正直、悪くない方だろ。常に平均点より上は取ってる。数学なんかはむしろ上位集団だろ。もう少し努力すればそれなりの大学も射程圏なんだぞ?」

「あ、いや、それはいいです。断ります」

「断るって何を?」

「俺はサスティナビリティの信奉者なんです。血便出るまで努力していい大学に入るようなことはちょっとお断りするというか」

「そんなこと言ってもお前、やんなきゃならない努力ってあるだろ? 人生では常に」


 ホリヤマ先生はこれでも昔は名門大学の駅伝部に所属しており、箱根駅伝では区間新記録を打ち出したこともあるそうだ。駅伝、マラソン、ランニング……僕にとっては最も吐き気がする単語だった。努力! 根性! ガッツ! よくわからないけれど、マラソンではその3つの「!」が必要であるらしい。このホリヤマ先生は今は草臥れてしまっているけれど、昔はその3つの「!」に埋め尽くされて青春時代を過ごしたに違いない人だ。つまり、僕の理解からは最も遠い大人なのだ。僕はマラソンと「月が綺麗ですね」という告白方法とポテトチップスを食べた手でゲームコントローラーを握る奴が大嫌いだった。もちろん大人になった今でも嫌いである。


「生きるためにはカネが必要だし、やんなきゃならないしんどいことってあるだろ。お前、言っとくがUberEatsで稼いだって自転車は漕がなきゃならねぇだろ。そんなにサスティナブルでもないのだってわかるだろ?」


 そのやんなきゃならない努力に押し潰されてしまったあなたみたいな人にはなりたくないんです、と僕は真剣に言ってみたかった。生きるための最低限の努力がいつしかやらなければならない義務に化け、まるで樽の中で漬かってゆく大根のように、ゆっくりと義務感や責任感という漬物石に水分と旨味成分とを吐き出させられてシナシナになってゆく事が有り得るのだとしたら、目の前のホリヤマ先生の草臥れた雰囲気はまさに人間の漬け物そのものに思えた。生きるためにはカネが必要? 当たり前じゃないか。問題はそのカネをどうやって稼いでいくかなのだ。


 無論、そんなことを面と向かって口にするわけには行かないので、僕は代わりに違う切り口で反論した。




「サスティナビリティにも種類があります」

「種類ってなんだよ?」




 ホリヤマ先生は心底わけがわからん、という表情をした。教師のくせにアホだなぁと僕はその表情を見て哀れな気持ちになった。




「俺が言うサスティナブルではない生き方というのは、意にそぐわない残業を強いられたり、合わない上司に無理やり酒を飲まされたり、人間的にとても尊敬できない顧客にペコペコ頭を下げて生きることなんです。これも生きるためには仕方ないんだと思って磨り減り続けること、それ自体が俺にとってのハードモードの人生なんです。その点、UberEatsで使う自転車は漕げば絶対に前に進みます」




 僕は流れるように説明した。




「人は人を差別する生き物ですが、自転車を漕ぐという行為には差別も区別も有り得ません。たとえサルだろうが宇宙人だろうがアンドロイドだろうがサドルにケツを乗せてペダルを踏めば自転車は前に進みます。俺はそういうのを愛してるんです。漕げば進む、歩けばたどり着く、やればできる……そういうのが俺の言うサスティナブルな人生の根幹を為す価値観なんです。さらに俺は決して額面は多くなくていいから、労力に見合った対価は相応に、確実に欲しい。如何なる形の搾取も本当はされたくない。しかしマルクスも言ってますけど全ての労働は搾取によって成り立っています。我々に出来ることはこの搾取のレベルを下げること、これだけです。UberEatsならその点サスティナブルです。自転車を漕ぐのは疲れますけど、一人の労働だからパワハラもモラハラもない。磨り減らない。やり甲斐の搾取もない。自転車を漕いで進んで依頼人に辿り着いてちゃんとした対価を貰う、これが俺の言う人生のサスティナビリティです。これに嘘や建前ではない魅力を感じるのは俺がおかしいんでしょうかね」




 僕が一息に言うと、ホリヤマ先生はしばし圧倒されたように僕の顔を見つめ、それから、ハァ、と野太いため息をつき、遠い目をした。


「たまにな、いるんだよお前みたいな生徒。抜群に要領が良くて頭も良くて、よく口が回って、気に入らなけりゃ教師にだって平然と食って掛かってくるようなヤツが」


 どう考えても褒められている感じではなかった。ちょっと文句を言おうと思ったが、それより先にホリヤマ先生が続けた。


「そういうヤツは磨けば簡単に光るのに、押し並べて自分を磨こうとしない。大体お前みたいに全てを諦めて草とか土とか食って生きる仙人みたいになるか、生き急いで無茶やって早死にするかだ。お前は確実に前者だな」

「俺は土なんか食いませんよ」

「どうかわかんねぇよ。いいか、大学にいたお前と同じような俺の同窓の一人はな、今はチベットの山奥で出家して坊主になってる」

「何の話ですか」

「ただの世間話だよ。実際にそういう奴がいたんだ。抜群に頭が良くて口が回って、お前みたいにひねくれた奴だったのに、ある日俺はチベットで僧になるって日本を飛び出していって、実際それっきりだ。いっぺん写真が送られてきたから嘘でなく坊さんになったらしいぞ」

「俺は出家もしません。毎日読経するような継続性があるならちゃんとした会社に就職しますよ」

「わかんねぇぞって。何度も言うけどな、人生なんてきっかけひとつだよ、きっかけひとつ。お前みたいな世の中のことが他の生徒より見え透いてるヤツはな、ふとあるときに何でもないことに感動して世界中のどこにでもブッ転がっていっちまう」


 それはいいことじゃないか、と僕は心の底で思った。それはつまり、世界のどこでも暮らしていけるバイタリティがあるということだ。それなら褒めてほしいものなのだけれど、草臥れてしまうと人を褒めるバイタリティも枯れるのだろうか。


「あのなチヨダ。これは教師としてじゃねぇ、人生の先輩としてひとつ、言っとくぞ」


 先生はまさに草臥れてしまった男の代名詞と言える一言を枕に、僕に短く説教をした。


「人間の人生なんてな、何でもないことから良くも悪くもなるんだよ。俺は昨日まで社長だった奴が大恐慌が来てあっという間にホームレスなんて時代に就活してたからよくわかんだ。その逆もアリだよ。三十五越えたら老いるのが嫌だから自殺する、なんて常に言ってたひねくれ者が今はチベットで坊さんやってんだぞ。人々にブッダの教えを説く有り難い活動に従事してるんだぞ。でもな、その歳で何もかも諦めちまって自転車漕ぐよりも、そっちの方が遥かに清潔で健康的だと、俺はそう思うぜ」


 ああ、と僕はホリヤマ先生の顔から納得した。この人は羨ましかったのだ、その悩める怪僧のことが。


 ホリヤマ先生の幾つもの「!」に囲まれた青春時代は人間の漬け物になることですっかり吐き出させられてシナシナになってしまったのに対し、悩める怪僧はそうではなかった。漬け物にされる前に樽を飛び出し、自由な場所で自由に生きているその怪僧に、ホリヤマ先生は嫉妬している。僕もそうなれるのかもしれないのにもったいない、と、ホリヤマ先生はそういうことを言っているのだ。


 もしこの場に煙草があったなら、一本咥えて煙を吐き出していただろう、というような、短い間があった。ホリヤマ先生は俺の顔から視線を外し、椅子の背もたれに右肘を乗せ、首を回した。


「いい方にも悪い方にも簡単に転ぶ、それが人生だ。お前も好きな女の一人でも出来りゃ劇的に変わるかも知れねぇ。まだまだ諦めるのは早いと思うぜ」

「はぁ」

「俺から言えるのはそれだけだ。とりあえず、テスト終わった後でいい、再提出しろ。言っとくがこれは大人の事情だからわかってくれな」

「すみません」

「いいよ、どうせ心にもないだろ。そんな建前はいいから、せいぜい悩め。お前がやるべきことはとにかく悩むとこからだ。先生はそう思う」

「ありがとうございます」


 別にお礼を言うべきことではなかったけれど、この人間の漬け物にさよならを言うためにはそれしかなかった。僕が頭を下げると、もういいよ、というようにホリヤマ先生はしっしっと僕を手で追い払った。僕はなんだか莫大に疲れた気分とともに職員室を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る