Kuss(接吻)

 その後、僕は黙々と手を動かし、ぴったり十分後にコタツは完成した。




 完成したコタツを見て、ユーディトさんは僕の両手を取り、ありがとうと少し熱っぽい目で僕を見た。どうせならこの後この部屋に泊まっていかない? 独り寝は寂しいのよ、とユーディトさんは媚びるような目で僕を誘った。僕はどうにか固辞しようとしたけれどユーディトさんは逃してくれなかった。その後、新しく完成したコタツの上には、ユーディトさんが作ってくれたアイントプフと焼いたヴルストが並び、僕は夕飯をごちそうになった。未成年だけど少しならいいでしょうと多少のワインも振る舞われた。僕は酒に弱いのでグラスひとつでへべれけになり、コタツに横になってしまった。ユーディトさんはそんな僕を介抱しながらずっと傍で僕の頭を撫でてくれていた。僕の酔いも少し覚めてきたとき、ユーディトさんは僕の耳元に口元を寄せて、鈴の転がるような声で色々なことを囁いてきた。ユーディトさんが何かを囁く度にユーディトさんの長い髪が揺れ、とてもいい香りがして、僕は夢見心地だった。本当にあなたには感謝しているわ、お礼に私の全てをあげる、さぁ服を脱いで……と言われるなり僕は素裸にされてしまった……というのはもちろん嘘で、その後僕らは完成したコタツに脚を突っ込み、すっかりと極甘になってしまったコーヒーの残りを啜りながら、短く話をした。ユーディトさんはとても上機嫌で、初めて見るようなニコニコとした表情で、全身でコタツを感じていた。




「んほぉ、これよこれよ、これがコタツ……! なんてぬくいのかしら。ドイツにはなんでコタツがなかったのかしらね……」

「ユーディトさん、そんなにコタツ気に入ったの?」

「気に入るわよ。テーブルとしてもベッドとしても使えるなんて素晴らしいじゃない。しかも地震のときにはシェルターにまでなるなんて。ヤパニッシュはなんて合理的なの」


 そう語り、天板に頬ずりしそうになっているユーディトさんの頭の上には幾つものハートマークが飛んでいて、全身でコタツを感じているようだった。

 ユーディトさんのような美少女が手放しで日本のことを褒めそやすと、なんだか僕の方も照れるような気持ちになった。別に僕は日本代表の日本人ではなかったのだけれど、こんなにも日本のことを気に入ってくれて嬉しいという気持ちは抑えようがなかった。いやぁまぁ、などと頭を掻く僕をユーディトさんが不思議そうに見つめた瞬間、グゥゥ、という音がして、僕は顔を上げた。


 僕から――ではなかった。それは間違いなくユーディトさんの方から発して、なおかつ今のはお腹が鳴った音だった。え? とユーディトさんを見つめると、ユーディトさんの淡雪のような白い肌が徐々に桜色に染まった。


「あ、あら、風紀委員としたことが……コタツが手に入ったことで少し気が緩んでしまったようね」

「ああ、思えばもう八時だもんなぁ。お腹すいたよね。そろそろお暇して夕食準備しなきゃな。ユーディトさんはどうする?」

「いえ、フードデリバリーを利用することにするわ。しばらくはそれで凌ぐ予定」

「自炊はしないの?」

「何言ってるのよ。自炊なんかしたらキッチンが汚れちゃうじゃない」


 えっ? と僕が驚くと、驚かれたことに驚いたようにユーディトさんは僕を見つめた。


「何?」

「いや、キッチンって汚れるものじゃないの?」

「使えばね」

「使わないの?」

「使ったら汚れちゃうじゃない」

「ま、まぁ、当たり前だよね……」

「そう、当たり前だと思うのだけれど」


 キッチンが汚れるぐらいなら料理をしない、それは鉄血の令嬢としてはある意味とても合理的な選択に聞こえた。驚きを中途半端な笑いでごまかしていた僕に「それにしても……」とユーディトさんは顔をしかめた。


「昨日取り寄せたピザは酷いものだったわね……あんなピザ、ドイツではどこを探しても食べられないわよ。何よあのパンみたいなふかふかの生地は? ピザというものを根本的に理解していない味だったわね。しかもバカ高いし。あんなものを喜んで食べるのは馬鹿か変態かEngländerぐらいのものよ」


 エングランダー、おそらくイギリス人のこと。おお、しっかりイギリス人をdisるところはドイツ人らしいなぁ、と妙なところに感心していると、あ、とユーディトさんが何かを思いついた表情になった。


「そうだ、ねぇチヨダ君、この辺りで美味しいお店を知らない? あなたなら詳しいでしょ?」

「美味しいお店、かぁ。ユーディトさんが気に入るような店はわからないなぁ」


 僕は歯切れ悪くそう言った。何せその当時の僕は貧乏学生で、高級なフレンチやロシア料理を出すような店には全く縁がなかったのである。回転寿司なら喜ばれたかも知れないが、生憎カリフォルニアロールを出すような店は近くにはなかった。


「ちょっとお役に立てないかも。何しろ俺が行くところと言ったら牛丼屋かラーメン屋ぐらいしか……」

「ら、ラーメン……!」


 そこでユーディトさんが輝いた声を発し、僕は少なからず驚いた。


「そうだわ、ラーメン! 最近ヤーパンから来たラーメンはドイツでも人気なの!」

「え、そうなの?」

「そうだわ、日本に来たなら本場のラーメンを食べないと! ぜひそのお店の名前を教えてくれない!?」

「え、でも……」


 僕は少なからず躊躇した。なにせその店は所謂二郎系インスパイアの店で、うず高く積み上がったモヤシとニンニクが名物の、不来方第一高校男子学生御用達の店なのである。


「その店なぁ、ちょっと量が多い店なんだよ。ユーディトさんにはキツいかも……」

「もちろんそれはメニューを見て判断するわよ。なんてお店?」

「『らーめん豪』、っていうお店。ここからすぐだから多分すぐ食べられると思う」

「おお、それはいいわね! 早速スマートフォンで検索してみる!」

「それじゃあ、そろそろ俺は自分の部屋に帰るかな。俺も夕食の準備しないと……」

「あら、チヨダ君は自炊?」

「そりゃまぁね。貧乏学生だからね」

「そう……私に出来ることはあまりないけれど、せめて食べるものがない時は私に言いなさい。あなたの分までフードデリバリーを頼んであげるぐらいはできるから」

「なんか結構失礼な事言われた気がするなぁ……まぁいいや。それじゃあユーディトさん、俺、そろそろ帰る」


 僕が立ち上がると、ユーディトさんも腰を浮かせ、玄関まで送ってくれた。僕が靴を履いていると、あ、とユーディトさんが何かを思い出した声で言った。


「そうだ、お礼の話をしないとね。チヨダ君、私からのお礼は何がいい?」

「いいよ、お礼なんて」


 僕は謙虚に苦笑した。


「ユーディトさんと俺はお隣さんだろ? 焦ることはないよ。味噌や醤油が切れた時に貸してくれたらそれでいいよ」

「残念だけど、ミソもショウユも買い置きがないのよ。困ったわね……」

「だったらトイレットペーパーでもなんでもいい。とにかく、俺が何か困った時まで貸しておいてよ」

「そんな、それじゃあいくらなんでも私の気が済まないわよ……」


 ユーディトさんは困り果てたような顔になった後、瞬時考え、それから何か意を決したような表情になった。




「……仕方がないわね。チヨダ君、ひとつ質問」

「はい?」

「余計なお世辞はいい、率直に答えてくれて構わないわ。――私のこと、可愛いって思う?」

「は?」




 僕はかなり間抜けな声とともに固まってしまった。


「知ってるのよ? 私、なんかみんなに、何かあだ名で呼ばれてるの。それって、私が他の女子生徒より目立ってるって、そういうことなのよね?」

「はぁ、まぁ、そうなりますかね」

「それなら――私のこと、どう思う?」

「どうって――」

「ああもう、察しが悪いわね――つまり、チヨダ君から見て、私が、異性として、少しでも魅力的に見えるか、って聞いてるの」


 ユーディトさんは何故なのかちょっと顔を紅潮させながら、ムッとしたような表情で僕を睨んだ。




 そんな事言われても――。僕は無遠慮にユーディトさんを見つめた。

 ほとんど銀色に近いのではないかと思わせる、色素の薄い金色の髪。

 まるで宝石のような輝きを放つ瞳に、すっと通った鼻筋。

 神様が手ずから創り出したかのように魅力的な、赤く腫れたようにぽってりとした唇。

 突き出すところと引っ込むところがかなり過激だと思えるスタイルのよさ。


 これは天使か妖精か、と校内外に謳われる、鉄血の令嬢――。

 この人が魅力的でないと言い切れる人は、異性でも同性でもいないだろう。




 しばし迷った後、僕は意を決して答えた。


「そ、そりゃあ――うん」

「うん、って何?」

「魅力的――だと思うけど。かなり」

「本当に、そう思う? お世辞じゃない?」

「そう、思う。全くもってお世辞じゃなく」




 よかった、と、ユーディトさんが言った、次の瞬間だった。

 小さくジャンプするかのように僕に近寄ってきたユーディトさんの両手が、僕の首筋に回った。




「うぇっ――!?」




 僕が驚いた瞬間、手に抱き寄せられた僕の頭が傾き――直後、ちゅっ、というリップ音とともに、左の頬に湿った柔らかさを感じた。




 しばらく――僕は何も言えなかった。

 呆然と隣にいるユーディトさんを見ると――ユーディトさんは一度も見たことがない、とろけるような笑みを浮かべた。




「現状できる最大級のお返し。ね?」




 ぼそぼそとそう言って、ユーディトさんは今更恥ずかしそうにはにかんだ。




 瞬間、じわじわと僕の中に何らかの衝撃が染み込んできて――その場で僕の身体は爆発四散した、というのは嘘だが、人間が羞恥の感情で爆発することがあったなら、その時の僕は間違いなく爆発四散していただろう。


「ゆ、ユーディトさん……!?」

「も、もう、そんなに赤くならないでよ。こっちが恥ずかしくなるじゃない。とにかく、これでしばらく貸したままにしておいて。ほら、わかったならさっさと退室!」


 ユーディトさんは早口で言うと、ぐいぐいと僕の背中を押した。僕がドアノブをひねり、外に出ると、ユーディトさんはニッコリと笑顔で、またね、と手を振った。その瞬間、絶妙なタイミングでドアが締まり、僕はひとり、夜の闇の中に放り出された。


 しばし呆然として――ぶるり、と僕は肌寒さを感じた。


 随分長い間、ここに突っ立っていた気がした。自分の部屋に帰ろうと一歩足を踏み出した瞬間、ガクン、と身体のバランスが崩れ、僕は危うく転びそうになった。


 今の今までどうやって二足歩行していたのか、全く思い出せなかった。しばらく奇妙な格好で立ち、足を重力に馴染ませた後、僕はひょこひょことおかしな歩調で自分の部屋まで歩いた。


 何とか部屋に入り、ドアを閉めた瞬間、家まで帰りついた安堵で完全に腰が抜け、僕は玄関先に座り込んだ。


 ユーディトさんの香り、唇の柔らかさ、恥ずかしそうな表情――そのひとつひとつを思い出す度に、湿った玄関の上がり框は電気椅子に変わった。


 飽きるぐらいぽーっとしてしまった後、僕は急に、疲れたような気分になった。ユーディトさんの唇が着地した頬を掌でめちゃくちゃに拭った僕は、壁に手をつき、どうにか立ち上がる事に成功した。


 そのまま、制服を脱いでシャワーを浴び、部屋着に着替えると――ずん、と急に全身が重くなって、僕はとりわけ重い頭を揺らしながら、そのままベッドに倒れ込んだ。


 今から夕食を作って食べるほどの体力が残っていないように思われた。何よりもその時の僕は、鉄血の令嬢と謳われたユーディトさんに放課後全ての時間を費やして付き合い、コタツを買い、組み立て、そして今日の夕食の世話まで焼いたのだ。サスティナブル主義を貫き通してきたこの学生生活でも、今日は最も活動的に動いたし、一番刺激的な日だった。疲れて当然だった。


 僕は部屋の電気を消し、そのまま仮眠のつもりで目を閉じた。夕食なら起きた時に適当なものを食べればいいと眠い頭の片隅でそう考え、うとうととまどろみ始めた。


 眠りに落ちる前、そういえば僕は何でこんなに頑張ってしまったのだろう、と、ふとそのことを不思議に思った。


 その後、結局僕は朝まで一度も目を覚まさなかった。


 ちなみに、その夜はドテラを着たユーディトさんがニコニコと笑いながらコタツに当っている夢を見た。




 ユーディトさんって、笑うんだな。 

 妙なところに関心を覚えながら夢は溶けていった。

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