Krise(危機)

 そこかしこからなんだかいい匂いがするファンシーな部屋――。


 生まれて初めて同年代の女の子の部屋に入ることになった僕のそんな先入観は、うず高く積み上げられたダンボールの山に破壊された。如何にも引越しの翌日、というような感じで、ユーディトさんの部屋は中身の入っていない家具が立ち並んでいるだけで、大変殺風景だった。


 僕らはまずコメリから買ってきたふわふわのラグマットを敷き、その上にコタツのパーツを広げ、取扱説明書とにらめっこを始めた。


「組み立てられそう?」

「まぁ、そんなに難しい作業ではないんだろうけど、ユーディトさんには厳しいかなと思ってさ。力仕事だし」


 コタツ自体は今年の冬の入口に組み立てているし、何も難しい作業ではない。コタツのキモである赤外線装置自体は櫓部分に既に備え付けてあるし、脚をボルトで固定するだけの作業だ。


 僕はユーディトさんの部屋の真ん中にどっかりと腰を降ろし、作業を開始した。


「チヨダ君、コーヒー飲む?」


 そう言われて僕が顔をあげると、ユーディトさんが部屋の棚からコーヒーを淹れる準備を始めていた。しかもインスタントではなく、フィルターで抽出するタイプの本格派だ。久しく本格的なコーヒーなど口にしていない僕は、有り難く頂戴することにした。


「あぁ、淹れてくれるなら是非」

「ブラック派?」

「いや、むしろ甘い方がいいな」

「一応訊いておくけど、ヤパニッシュはブラックコーヒーが好きなんじゃないの?」

「俺の人生はホロ苦いんだよ」


 僕は真剣な表情で言った。


「コーヒーぐらいは甘くしたいんだ」

「うーん、よくわからないけれど……なら砂糖はふたつ入れてあげるわね」


 制服姿で手早く豆のセットを開始しているユーディトさんを見て、僕は一瞬、なんだか妙な気分になった。彼女というものが出来て、もしこんな風に何も言わずにコーヒーを淹れてくれるようになったらいいだろうな……と思ったのだけれど、その先の妄想はどうしても想像できなかった。お前ごときが大層な望みを持つな、そのように言う自分がどこかにいた。

 

 それから、僕は黙々とコタツを組み立てる作業に集中した。脚の一本をボルトを通し、備え付けの簡易レンチでキリキリと締め上げてゆく。十分ほどで脚が二本ついた。


 ふぅ、ととりあえずのため息をついたところで、不意にさっと視界に陰が差した。


「なんとかなりそう?」

「ああ、ユーディトさん。半分は完成したよ」

 僕は二本、脚がついたコタツを示した。

「あと二本ネジを締めたら出来上がり。もうすぐユーディトさんお待ちかねのコタツが完成するぞ」

「おお……それは楽しみね。コーヒー、ここに置くから、倒さないようにね」

「ありがとう」


 ユーディトさんはかなり大きめのマグカップを床に置いた。僕はコタツを回転させ、まだ脚にボルトを通したところで、マグカップを手に取って一口啜った。ぷん、とコーヒーの香りが鼻腔に抜けて、ほっと一息つけた。




「よし、あと少し……」


 僕が気合を入れ直した、その瞬間だった。

 そっ、という感じで、背中に仄かな温かさを感じた。




 なんだ? と反射的に振り返ろうとすると――視界いっぱいに、ユーディトさんの興味津々の顔が広がった。


 僕の肩に手をかけ、背中に密着して、ユーディトさんがじーっと穴が空くほど僕の手元を見つめていた。




「ゆ、ユーディトさん――!?」

「あとどれぐらいかかりそう? 私、そろそろ寒くなってきたんだけど」

「あ、あと十分ぐらい、かな……!?」

「そう。悪いけど手を止めないでくれる? いつこの瞬間に地震が来るかと思うとこれでも結構怖いのよ」


 いや、そうしてほしいなら是非離れてほしいんだけど――!


 一瞬で血圧が急上昇し、心臓がバクバクと鳴って、こめかみの血管が脈動した。


 誠に恥ずかしい話、当時の僕は女の子と付き合うどころか、手を繋いだこともない清らかな男子高校生だったのである。『鉄血の令嬢』と謳われる、中身はともかく、顔と肉体だけは天使か妖精かというような美少女にべったり密着されて、僕は当然、羞恥の感情で頭がパニックになりかけた。


「ほら、手が止まってるわよ。見といてあげるからさっさと済ませなさい」


 ユーディトさんは、如何にも見てるだけ、というような表情と声で作業再開を促した。




 落ち着け落ち着け、と僕は色んな悲しいことを思い出してその場を乗り切ろうとした。十歳の頃、肥溜めにハマって泣いた、その年の夏のお祭りで五千円という大金が入った財布を落とした、小学五年生の頃に宿題を忘れて担任の暴力教師に鞭で叩かれる折檻を受けた、中学生の頃に不良の先輩に呼び出されて顔面にドロップキックを四発喰らって前歯が全部差し歯になった、父親が友人の連帯保証人になって一家が離散し近所の公園でコンビニの廃棄弁当を手で食べながら夜を明かした……などというのは全部嘘だけど、とにかく、もの凄く悲しい記憶を捏造し、もの凄く悲しい気持ちになることで僕は何とか気持ちを落ち着けようとしたのである。




 しばらく心頭滅却しようとして――無理だった。どうしても悲しい気分にはなれなかった。それどころかユーディトさんの身体の柔らかさやいい匂いで脳みその中身がトロトロに蕩けてしまいそうだった。




 このままではヤバい。理性が振り切れてつい触ったりつい匂いを嗅いだりつい押し倒したりしてしまったら、ユーディトさんは悲鳴を上げて僕の股間を蹴り上げ、うずくまるしかない僕に向かって「クズ!」などと吐き捨ててそのまま警察に駆け込むのだろう。そうなれば一瞬で全てが終わりだ。僕は晴れてポケモンデジモン前科モンだ。持続可能な青春、サスティナブル主義の日常がバラバラになってしまう。かなりデッドオアアライヴな事態には間違いがなかった。




 考えろ、考えろ……! と薔薇色に埋め尽くされた頭に念じて、僕は床に置いていたコーヒーカップを慎重に持ち上げた。


「ユーディトさん」


 僕は凄くいい声といい表情で言った。


「コーヒーがちょっと苦かったから、砂糖足してくれない?」


 僕が咄嗟にマグカップを突き出すと、ユーディトさんはちょっと不審そうな表情を浮かべたけれど、黙って素直に従ってくれた。


 ふう、やれやれ、と僕はそっと嘆息した。背中に感じる暖かみがなくなってしまったのは悲しかったけれど、婦女暴行未遂の現行犯になることだけは回避できた。僕は『鉄血の令嬢』の無自覚ラブコメの波動に立ち向かい、からくも勝利を治めることができたのである。


 僕はいまだうるさい心臓の鼓動が落ち着くのを待って、それから黙々とコタツを組み立てる作業に没頭した。



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