Sprichwort(諺)

 コタツ専用の掛け布団、厚手のラグマット、座椅子まで買うと、かなり嵩張る買い物になった。当然、手では抱えて帰れないので、僕らは商品宅配サービスを利用することにした。住所さえ伝えておけば、この商品は店側の配送車によって僕らのアパートに配送されるのである。そんなわけで僕らはほぼ手ぶらで歩き、時たまクラスの話やテレビの話をしながら、同じアパートに帰り着いた。


「ところでユーディトさん」


 ユーディトさんの部屋の玄関脇にうず高く積まれているコタツや布団をどかしながら、僕は多少突っ込んだ質問をしてみることにした。


「ユーディトさん、三ヶ月前に来日したんだよね?」

「そうだけど」

「なんで今さらこんなところに引っ越してきたの?」


 僕が訊ねると、ユーディトさんは「疲れたから」と素っ気ない返答をよこした。


「そりゃ来日して三ヶ月間、ホテル暮らしだったからね。流石に疲れたのよ。ホテルは食事もできて便利だけれど、プライベートな空間ってないじゃない? 卒業までずっとホテル暮らしっていうところを想像したらゾッとしちゃったの。そこで父の反対を押し切ってアパートメントを探して、ここに引っ越したってわけ」

「そ、卒業までホテル暮らしするつもりだったの!? 本気で!?」

「えぇ。本当はもうちょっと行けると思ったのだけれど、すぐ音を上げちゃたわ」

「すげぇな……ユーディトさんの家、お金あるんだね」


 その瞬間、ドアの前から段ボールを退けていた彼女の手が一瞬止まった。

 その美しい顔に、何故か莫大な徒労感のようなものが浮かんだ気がした。おや、と僕がその反応に驚いていると、彼女は吐き捨てるように答えた。


「……えぇ、お金だけは他の家よりあるかもね」


 これ以上は何も言いたくない、というように、ユーディトさんはそれきり黙ってしまった。その反応を見て、ほーん、と僕は暗に何かを察した。何もかも満ち足りているように見えるユーディトさんだけど、色々あるのだ、この人にも。

 ふう、と、自分の気持ちを切り替えるかのようにため息をついて、そこでユーディトさんは僕に向き直った。


「今日はありがとうね、チヨダ君。わざわざ私の買い物に付き合ってくれて」

「いいよお礼なんて。頼まれたから付き合っただけだし」

「それでも色々迷惑かけちゃったわね。それじゃ、私は早速このコタツに入ってみることにするから、今日はここで」

「あ、ユーディトさん」


 早速コタツに……という言葉に、僕はちょっと慌てて言った。


「コタツ、自分で組み立てられる?」

「えっ?」

「それ、中にバラバラになって入ってるんだよ。自分で組み立てないといけないんだけど、できそう?」


 組み立て? と、彼女は風紀委員らしからぬキョトンとした表情を浮かべ、小首を傾げた。


 ああ、と僕は一発で納得した。この表情、絶対に大丈夫ではなさそうだ。


 ハァ、と今度は僕がため息をついた。


「わかったわかった。ユーディトさん、俺がこのコタツ組み立てるよ。この際だ、とことん付き合わせてくれ」


 僕が言うと、ユーディトさんが多少恐縮したように首を振った。


「えっ、そこまでしてもらうのは幾ら何でも……」

「コタツを組み立てるのには結構力も要ると思うんだ。それにユーディトさん、まだ難しい漢字とかは読めないだろ? 取扱説明書に書いてあることがわかんないと可哀想だし」


 僕がそう言うと、瞬時迷ったような表情を浮かべたユーディトさんが、数秒後には何かを諦めたような表情で頷いた。


「本当に、あなたには何から何までお世話になっちゃうわね。……それじゃ、甘えようかしら」

「よしよし、じゃあそのコタツを貸してくれ。組み立てて持っていくから」

「えっ、なんで?」

「なんでって何が?」

「あなたが私の部屋で組み立てればいいじゃない。コタツをあなたの部屋まで持っていくことはないと思うのだけれど」

「ふぇ?」

「わざわざ私の部屋に配達してもらったのだから、あなたが私の部屋に来て組み立ててくれるのが自然じゃない?」


 しん――と、地球の回る音が止んだ気がした。

 数秒間、沈黙してしまってから――僕は盛大に慌てた。


「あ、いや、それはマズいんじゃないかな――」

「何が?」

「いや、一人暮らしの女の子に男が上がり込むのは――」

「やぁだ、そんなこと気にするような人なの、あなた?」

「世間一般的には気にすると思いますけどね」


 僕が大変恐縮すると、ユーディトさんは少し何かを考える表情になった後、それから奇妙なぐらい口を大きく開け閉めし、思いがけないことを言った。




「ヌレヌ、ウチコソ、ツユヲモ、イトゥエ」




 はぁ? と僕はかなり気の抜けた声を上げた。

 ユーディトさんは得意げに腕組みして説明した。


「何よ知らないの? 日本のコトワザだって聞いたわ」

「ごめん――今なんて?」

「ヌレヌウチコソツユヲモイトゥエ、って言ったのよ」


 ユーディトさんは偉そうに腕を組み、明らかに同年代の女子以上のボリュームがある胸を反らした。


「これは露にでも濡れちゃったらもうどうでもよくなる、っていう意味の日本語よ。私は昨日、あなたの部屋に上がり込んでしまった。つまりもう濡れてしまった後だから、お互い今更そんな小さなこと気にしているべきじゃない、ってそういう意味よ」

「かなり今更だけど、ユーディトさんって日本語お上手ですね」

「おばあちゃんに習ったからね。さぁ、遠慮なんかすることないって。私の部屋に上がっていって」


 ちなみに、だいぶ後になってからこの言葉を辞書で引いたことがある。濡れぬうちこそ露をも厭え、という言葉がそこにはあった。意味は読んで字の如くである。ユーディトさんがドヤ顔で言ったことわざの意味は当たらずとも遠からずだったのだけれど、何故かその時はユーディトさんのドヤ顔の講釈に素直に納得したのも事実だ。それに、ユーディトさんは引っ越してきてまだ二日目だ。僕が見てはいけないものを見てしまう可能性は低いだろう。


「わかりました。じゃあユーディトさん、部屋に上がらせてもらうからね」


 いいわよ、と実にスマートに返事をして、ユーディトさんは自室のドアノブに鍵を突っ込んだ。


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