Leiden(苦悩)
蕎麦屋からの帰り道でも、ユーディトさんはまだ夢見心地のようだった。僕らはポツポツと学校やクラスの話をしたけれど、ユーディトさんの返答はどこか上の空で、時々ほう、と意味もなくため息をついていた。よほどカツ丼が効いたらしいことは、そのうっとりとした表情を見ればすぐにわかった。
「カツ丼、美味しかった?」
頃合いを見計らい、僕が確信的に訊くと、ユーディトさんはぶんぶんと首を縦に振った。
「まだまだヤーパンには美味しいものがあるんだって希望が湧いてきた」
「そうか、そりゃよかったよ」
「言っとくけど、まだまだ私、満足してないわよ、チヨダ君」
えっ、とユーディトさんを見ると、ユーディトさんは遠くの空に浮かんでいる星を見つめながら握り拳を握り締めた。
「私が知らないだけで、まだまだこの国には美味しいものやいいものが沢山ある。私、ラーメンとカツ丼だけじゃ満足してないわよ。もっともっと色んなものを食べて……!」
そこまで言いかけて、ユーディトさんはそこでガックリとうなだれた。
「……あぁ、絶対コレ太るコースよね……どうしよう、昼食を抜くべき?」
「そ、そんなことするの……? 辛くない?」
「あぁ、こんなのどうしたらいいのか……私、またこんなハイカロリーなものを食べて……一年もしたら確実に見られない風体になるかも……」
「デリカシーないこと言うけどさ、ユーディトさんの場合は多少太った方が健康的じゃない? もう十分細いんだしさ」
「……本当にデリカシーない発言ね。どんな苦労があって私がこの体型を維持してると思ってるのよ?」
ユーディトさんが呆れたように僕を見た。
その憤りに向かって、僕はへらへらと笑った。
「そういうこっちゃない。太る、って考えるからよくないんじゃないかと俺は思うんだよ」
「はい?」
「そうだな、この世に何kgか自分が増える、って思ったらいい」
「どういう意味よ?」
「この世に何人の人間がいると思う?」
「約70億人」
「そうそう、人間は地球上にそれぐらいいる。俺たちは常に70億分の1の人間だよ。人間としての価値も70億分の1だ。でもね、その割合を増やすことが出来る」
「どうやって?」
「この世に物理的に自分が増えればいい」
僕は少し考えをまとめ、一気に喋った。
「俺の体重が二倍になれば、俺の割合が増える。こうなれば70億割る2で35億分の1にまで俺の価値が増える。ユーディトさんもそうだよ。体重が増えれば、この世に少し自分の価値が増える、だから肥満大国のアメリカは他より存在感があるのかもしれない。太ることは存在感が増すことだ。そう思った方がより気楽でしょ?」
ぽかーん、と音がしそうな表情で呆気に取られていたユーディトさんが、少し経った後、この男はひょっとしたら天才なんじゃないかしら、という感じの神妙な表情になった。
「考えたこともなかったわ、そんなこと。コペルニクス的転回、って言うのかしらね……」
「そんな大げさな話じゃないよ。ただ単にマイナスに考えて磨り減るのが嫌いなだけだ。誰がなんと言おうとサスティナブルに生きるんだ、俺は」
「何よそれ?」
「持続可能な生き方をする、それが俺の人生の目標なんだよね」
「持続可能な生き方って?」
そう言われて、僕も少し困ってしまった。
持続可能な社会、サスティナブル、SDGs……それらの単語は、その当時社会を席巻していた価値観だった。
一方、その「持続可能な社会」というのは、誰が何をして一体どうなれば実現されたことになるのか、僕自身もよくわかっていなかったし、実はこの世の誰もちゃんとわかっていなかったと思う。持続可能性、そんな単語が持て囃されるようになってからも、人々は何も変わっていないように見えた。コンビニからプラスチックのスプーンがなくなり、スターバックスのストローが紙になっても、相変わらずホリヤマ先生は人間の漬け物だったし、地球の回る音も小さくならなかった。今この瞬間、一体何が持続可能になっていっているのか、当時の僕にはわからなかった。誰もがよくわかっていないものにいい大人たちが飛びつき、持て囃し、見当違いの変化を繰り返す……僕らが青春時代を過ごした2020年代とはそういういい加減な時代だった。
少し考えてから、僕は一息に喋った。
「そうだな、第一サスティナブル、という単語の解釈が面倒だけど、俺なりの解釈はこういうことだよ。世の中は持続可能な社会を目指してます、って言ってるのに、人間の方は全然変わってない。相変わらずあくせく勉強したり、あくせく働いたり、あくせく悩んだり傷ついたりしてるんだ。サスティナブルって単語が出てきたせいで余計に忙しくなった人だってこの世に少なからずいる。全然何も変わってない。このままじゃ人類は共倒れだ。ハードモードな方へ、湿ってて暗くて寒い方へ、どんどん自分たちを追い込んでいってしまう。だったらこの世に一人ぐらい、本当にサスティナブルに生きる人間がいるべきだ。出来るだけ辛いことはしないで、楽しい事ならなんでもやって、変わらず草臥れず磨り減らず、めちゃくちゃ素直に生きていく人がさ」
僕はそこで息を深く吸った。
「それでね、そういう生き方をするって決めた人は、その楽しさを自分で囲ってちゃダメなんだ。忙しく磨り減っていく人たちの横でね、楽しい笑い声を聞かせ続けなきゃいけない。そうすりゃそのうち必ずあっちも俺たちのことを意識する。何だか楽しそうだな、あっちの方が楽そうだなってさ。そうなりゃ忙しい人々も徐々に変わっていくかもしれない。やんなきゃならないことの重石で人間の漬け物になってシナシナになってしまう可哀想な人が一人でも減るかもしれない。そうなりゃ相対的にこの世に楽しいことや楽しい人が増えていく。この世にハッピーが増えていく、行けるところまで行ける、愛をバラまいていける。それが俺の言うサスティナブルな人生ってことだよ」
僕の言葉に圧倒されたように、ユーディトさんはぽかんとしたような表情を浮かべた後、何故なのか、物凄く儚げに、笑った。呆れられるつもりだった僕はその表情にかなり真剣に驚いた。
「……あなたって意外にロマンチストなのね。ちょっと驚いた」
「え、ロマンティックかな、これ」
「人生の目標が壮大すぎる。実質的な世界征服じゃない、それ」
「世界征服なんかしないよ。これはちょっとした世直し。俺は常に正義の味方なんだぜ」
僕は決め顔で言った。さぁここで笑え、と念じたのだけど、ユーディトさんはどこか浮かない顔をしたままだった。
おや、この顔は……? と思っていると、ハァ、とユーディトさんがため息をつき、疲れた表情で弱々しく微笑んだ。
「いいわね、あなたのそういう生き方。……正直、憧れるかも」
「え、そうかな。人にはやる気がないことの言い訳が上手いだけだってよく怒られるけど」
「そんなことないわ、とても素敵、だと思う」
瞬間、隣りにいたユーディトさんが立ち止まった。
「何しろ、私にはとてもできそうにない生き方だからね……」
ん? と後ろを見ると、さっきまでカツ丼の余韻に浸っていたはずのユーディトさんが、何だか辛そうな表情で斜め下を見ていた。
「――私は、そんなふうに思ったら、生きられない」
まるで、人間が生きる上で一番大切な何かを振り絞るかのように、ユーディトさんはそう呟いた。
短い沈黙があり、その後ユーディトさんは思いがけないことを言った。
「ねぇチヨダ君、さっきあなた言ったわよね、物凄く可愛い女の子がいたらこの世から争いがなくなるかも知れない、って」
「う、うん」
「その発想、とても素敵、だと思う。思うけれど……ごめんなさい、私はそこまで楽観的になれない」
ユーディトさんは不思議と、そんな事を言った。
「私は、私みたいな人間がいる限り、どうやってもこの世から争いはなくならないと思う。あなたはそうでも、私のような人間は、一生誰かと競って、争い続けると思うの。常に完璧じゃないといけないからって、頑張って、努力して、積み上げて、他人の足を引っ張って、蹴落として……そうやって磨り減っていくのがわかってても、必死に無様に足搔くしか生き方がないから――」
ユーディトさんは、そう、重苦しく続けた。
まるで自分に刷り込むかのような言い方だと思った。
少しの沈黙の後、ユーディトさんはぽつりと付け足した。
「――私みたいな人間には、あなたのその発想は残酷だわ」
か細く、地球が回る音に掻き消されそうな一言だった。
ユーディトさんはそれきり沈黙してしまった。
その張り詰めたような表情に――なんでなのか、見覚えがあった。
あれはユーディトさんが僕らの学校に編入してきた、一週間後ぐらいのこと。
それはユーディトさんという人が学校中の男子連中に人気になり、そして本人にはそうなる気がないのだと、徐々に知られ始めたときのことだった。
僕はその日、次の日の課題を忘れて、教室に戻った。
既に部活動や委員会活動も終わりに差し掛かっていて、教室はがらんどうだった。
僕が教室に入ると――廊下側の一番前の席に、人影があった。
ちょっと驚いて、僕は廊下の影からその人物を観察した。
ユーディトさんは今みたいに、張り詰めたような表情で、一心不乱に机に向かっていた。
薄暗い中目を凝らして――彼女が解いている問題集が、小学校高学年向けの漢字ドリルであることがわかった。
その時のユーディトさんは気の毒なぐらい必死そうで、普段より一層孤独で、一秒ごとに磨り減っていってしまいそうな表情で、鬼気迫る雰囲気で漢字の勉強に勤しんでいた。
僕は結局、課題を取らずに帰った。何だか、見てはいけないものを見てしまった気がしたのだった。課題を忘れた結果、教師には当然ボヤかれたが、僕はその時の行動がそれでよかったのだと今も思っている。
だからそのときのユーディトさんの張り詰めたような表情は――僕が言ってはいけないことを言ってしまったことの証拠だった。
これはいけない。僕の信念の話をして人にこんな表情をさせてしまうのは不本意だったし、こんな美少女が暗い顔をしているというだけで世の中には悪影響だ。まったくサスティナブルではない。
僕が何かを言おうと口を開きかけた時、あろうことか僕より先に口を開いた奴がいた。
「マサムネ――!?」
驚いたような声が、道路の向こう側から響いた。
ん? と顔を上げた先に――バイト終わりらしい私服姿の谷藤春樹が立っていた。
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