Klang(音)

 その後、僕とユーディトさんは多少頑張って、僕らがお隣さん同士であること、ユーディトさんに近所の飯屋を紹介したことなどを、十分近くかけて春樹に説明した。ちなみに、ユーディトさんはカツ丼の方ではなくヘルシーな蕎麦を痛く気に入ったことにしておいた。上手く誤魔化せ、とユーディトさんの目がそう命令していたのである。


 やっと事態を納得した春樹はいつものようにゲラゲラと意味もなく笑い、帰り道を三人で歩いた。流石はこの男と言えるコミュニケーション能力と、生まれついての距離の近さで、春樹が初めて会話するはずのユーディトさんともタメ口の呼び捨てで話し始めたのには驚いた。さすがは陽キャ、こういうことには長けている。実際は何も考えがないという事を上手く長所にしているのが春樹のいい部分だ。


「そうかぁ。まさかユーディトとマサムネがお隣同士なんてな。凄い意外」

「悪いけど春樹、このことは――」

「わかってるよ、学校の連中にはしない。お前が後ろから刺されても困るしな」

「えっ、なんで? ただお隣同士ってだけじゃない。私は別に困らないのだけど」

「ユーディトさんは困らなくても俺が困るからなぁ」

「意味がわからないわ」

「まぁまぁ、日本人は面倒くさいんだよ。それに陰湿だ」


 そこでなんとなく会話が途切れたので、僕が質問した。


「春樹はバイト帰り?」

「そうだ。ポテトのいい匂いに耐えながら四時間もレジ打ったんだぜ。最後やってくる客の顔がみんな同じに見えて困ったよ」

「バイト? うちの学校は学期中のバイトは禁止でしょ?」

「春樹に関してだけは天下御免なんだよ。教師連中が見逃してくれてる」

「そうそう、ウチは貧乏だからな。俺は学費を自分で稼いでるんだ」


 春樹はいわゆる父死別のシングルマザーの家庭で、当時は家計を助けるためにバイトをふたつ掛け持ちしていた。学校側にはバレていただろうが、そのことが問題にならなかったのは春樹の世帯事情を知っていた教師陣たちの配慮ということだったのかもしれない。

 春樹はそれなりに進学率も高かった不来方第一高校では伝説的な男だった。この男は中学のときから年齢を偽って幾つものバイトを経験し、踏んだ場数の多さから地元のアルバイター界隈ではちょっとした有名人だった。かくいう僕も既に高校一年生の秋の時点で春樹には二度ほど短期バイトの斡旋を頼んでいて、今しがた乗ってきた愛車はそのバイト代で買ったものだ。

 春樹が笑いながら言うと、ユーディトさんは何だか申し訳無さそうな表情になった。


「その、ごめんなさい。私、とっても失礼なことを……」

「いいよいいよ、ユーディトが気にすることじゃない。それにそんなに悪くないもんだぜ、この生活も。額に汗して働くってのは最高の勉強だ」

「げぇ、相変わらず俺からは一番遠いな、その発想」

「お前は逆に勤労の尊さを知っとけよ」

「断る。俺は磨り減るのは嫌だ」


 春樹はゲラゲラと笑った。僕も釣られて笑うと、ユーディトさんも遠慮がちに笑った。

 ひとしきり笑ったあとで、春樹が何かを思い出した表情になった。


「そういやマサムネ、そろそろあの日来るぜ」

「あの日?」

「二月十五日。今年は何やるんだ?」


 二月十五日、と言われてハッとした。僕らドブ団地幼馴染組にとっては特別な日。その当時、その日は僕らは毎年集まり、焼肉を食うなりたこ焼きを焼くなりしていた。大人になった今もそれは変わらない。この日は僕らにとって特別な日なのである。


「そうだな、今年は俺の部屋で鍋でもやるか」

「鍋か。いいな、何鍋? すき焼き? しゃぶしゃぶ? あ、火鍋もいいな」

「そんな豪勢で辛そうなもんは食えないよ。学生身分だし。当日までに考えるよ」

「ナベ? ナベって何?」


 ユーディトさんが不思議そうに訊いてきたので、春樹が僕の代わりに答えた。


「ひとつの鍋にいろんな具材を入れて、取り分けて食べるんだ。栄養もあるし、身体も温まる。腹も一杯になるんだぜ」

「へぇー、ヤーパンにはそんな食べ物があるのね」


 ユーディトさんが感心したように何度か頷いた時、僕の頭に妙案が発した。よし、これならさっきの失態を挽回できる。


「そうだ、ユーディトさん。俺らと一緒に鍋やる?」

「えっ?」

「再来週の週末、二月十五日。興味あるならさ」

「おお、それはいいな」


 僕の思いつきに春樹も同意した。


「ユーディト、お前、マサムネとお隣同士なんだろ? だったらパーティにしようぜ。色々持ち寄って馬鹿騒ぎするべ。テスト期間が始まる前だし、お互いの健闘を祈る会ってことにすりゃユーディトにも参加する資格が出来るだろ? どうだ?」


 おお、流石は春樹、こういう陽キャなことがサラリと言えるのは頼もしい。実際は何も深い考えがないまま喋ってるだけなのに、何も腹蔵がないという事はこれだけ人間関係を潤滑にするのだ。

 僕が心の底で春樹に感謝してると、ユーディトさんは少し迷ったような表情を浮かべた。


「誘ってくれるのは有り難いのだけれど、お邪魔じゃない? 私みたいな外人があなたたちのせっかくの楽しい時間を邪魔したりしたら……」

「そんなことないだろ。ユーディトさんが参加してくれたら俺は嬉しいよ。それに鍋は究極のダイエット食材なんだぜ」


 ダイエット。その単語に、ユーディトさんが面白いぐらいに反応した。さっきまであんなに自分の体型を気にしていたユーディトさんである。この話題に食いつかないはずがなかった。


「相撲取りいるだろ相撲取り。相撲取りはちゃんこ鍋っていう鍋を食べながら身体を作るんだ。低カロリーで高タンパクだから身体にもいいんだよ。ユーディトさんもきっと気にいると思うんだけどな」


 僕がそのように言うと、ユーディトさんは俄然興味が湧いてきたような顔で頷いた。

 なんだかソワソワしたような表情になった後、偉そうに肘を抱いて、ユーディトさんは逸る声で答えた。


「へ、へぇ。ナベ、いいわね。それにそんなに誘ってくれているのに無碍に断るのも帰って失礼かもしれないわね……。よし、わかったわ。お呼ばれするわ、そのナベに」


 ユーディトさんはその物凄く高いプライドにふさわしく、チョロかった。ダイエット、という人参をぶら下げたところ、呆気なく堕ちてくれた。僕と春樹は顔を見合わせて微笑んだ。


「じゃあ決まりだな。今度の土曜日、夜にマサムネん家で鍋パーティ。色んなもの持ち込んでやろうぜ。費用は割り勘、マサムネ、鍋の種類はお前に任せる」

「よっしゃ了解。ユーディトさんもそれでいい?」

「わかったわ。費用は1万円ぐらいかしら? もっと値が張る?」

「そんなにかからないなぁ。三千円ぐらいだよね、春樹?」

「そんなに安いの? リーズナブルでヘルシー、ヤーパンの食事は合理的ね」

「俺らが褒められてる、ってことでいいのかな、これ」


 三人はゲラゲラと笑った。笑いながら馬鹿話をしていると、僕のアパートの前まで来た。


「ユーディトさん、ユーディトさんは先に帰っててくれ。俺は春樹をもうちょっと送ってくからさ」

「あらそう? なら私は先に帰ってるわね。今日はありがとう」


 そう言ってから、ユーディトさんは何かに気がついた表情になり、僕に手招きした。なんだ? と僕が顔を寄せると、ユーディトさんがそっと耳元に囁いてきた。


「今日はタニフジ君がいるから。いつものお礼は後で、ね?」


 瞬間、僕の顔面に向かって、全身の血が逆流した。思わずぎょっととユーディトさんの顔を見つめてしまうと、ユーディトさんはいたずらな微笑みを浮かべ、パッと顔を離した。そのまま、ユーディトさんは手のひらをひらひらと振り、呆然とする僕を放ったまま、軽やかな足取りでアパートに向かっていった。

 途中で、何かを思い出したかのように、ユーディトさんは僕を振り返り、手を後ろ手に組んで、礼の「美少女のお願いのポーズ」になった。


「チヨダ君、もしよかったら、なんだけど」

「はい?」

「もしあなたがよかったら、明日は別のご飯を紹介してくれない?」


 その言葉に、僕は苦笑した。


「何か候補を考えておくよ」


 そう言うと、ユーディトさんは満足そうに微笑んだ。鉄血の令嬢と呼ばれる金髪の美少女が浮かべた笑顔、その様は本当に地上に舞い降りた天使のようだった。

 その後姿を見送りながら、春樹は何故なのか嬉しそうな表情を浮かべた。


「まさか、あの鉄血の令嬢がマサムネのお隣さんになるなんてな。何があるかわからねぇもんだよな」

「そうそう、俺も最初は驚いたよ。ユーディトさん、地震に驚いて裸足で飛び出してきたんだぜ」

「地震?」


 それから僕は、春樹に対して「ユーディトさんコタツ事件」の顛末を、なるべく脚色して話した。普通はなるべく脚色しないで喋るのだろうが、僕の場合は違う。なるべく面白おかしく、誇張して話すのである。どんな物語であっても人にする時は面白い方がいいのだ。


 粗方話し終えると、春樹はゲラゲラと笑った。


「なるほどな、それでか。それでいい表情するようになってんのか」

「ああ、コタツがあるからニッコニコじゃないのか。何しろ一瞬で堕ちてたからな。ユーディトさん、凄いこと言ってたんだぜ、あるべきところに帰れた安らぎがあるとかなんとか……」

「違うよ、いい表情するっていうのは、お前のことだよ」


 えっ? と僕が驚くと、春樹が僕をまっすぐに見つめた。


「何かあったんだろうなとは思ってたけどよ、そういうことか。自分じゃ気づいてないかもしれないけどさ、今のお前、久しぶりに、これが首謀者マサムネでござい、って顔してるよ」


 首謀者。懐かしい単語だった。あのドブのように汚い団地に住んでいた時、僕が大人たちから、確実に百回以上は言われた言葉だ。僕もその言葉を聞くのは久しぶりだった。しばらくその言葉に驚いてから、僕はぺたぺたと自分の顔を手のひらで触った。


「俺、そんな顔してる?」

「してるよ。お前は昔からそうだからな」


 春樹はニヤニヤと笑いながら僕を見つめた。


「何か楽しいものを見つけると目が輝き出す。顔がニヤケ出す。声にハリが戻る。今のお前、最高のオモチャを見つけた、って顔してるぜ。だからイキイキしてるんだろ」

「……そんなことはないよ。それに、あんな美人が俺のオモチャなんて失礼だろ」

「それでも、ユーディトはゾッコンお前に懐いてるよ。見てりゃわかる。なにせ、あの鉄血の令嬢があんなユルい顔してんだからな」

「別に――今のところ、単なる知り合いから昇格するつもりはないけど」

「そのうち確実にそうじゃなくなるよ。お前は結局、周りをつき合わせ始める宿命に生まれてんだ。俺ら、何回お前の思いつきに付き合ってゲンコツ喰らってきたと思ってんだよ」


 春樹はゲラゲラと笑った。それは――その通りだった。僕らドブ団地組が何か悪さをする時は、僕がいつも言い出しっぺ、怒られるのは春樹、謝るのは秋の役割だった。僕らはとてもよい友達同士だった。今も変わらず。


「それで、久しぶりに戻って来た首謀者マサムネは、あの鉄血の令嬢をどうするつもりなんだよ?」


 ギヒヒ、と意地悪く笑う春樹から、僕は目を逸らした。 


 自分は磨り減らずには生きられない――。


 さっき、そう呟いたユーディトさんの、重苦しい表情。まるで自分で自分の首を絞めているかのような、けれども磨り減り続けることにまだ慣れきってしまえていなさそうな、辛そうな表情。

 もう二度とあんな表情を見たくない、と誰にでも思わせるだろうユーディトさんの顔を思い出して、僕は言った。


「うーん、まだよくわかんないけど――もうちょっと仲良くなれるなら、緩くなってほしいかな、色んなことにさ」

「なんで?」

「さぁ……凄く辛そうな表情見ちゃったからかな、さっき」


 瞬時口を閉じ、さっきのユーディトさんの表情を見た時に感じた危機感をなんとか言葉にしようと四苦八苦してから、僕は口を開いた。


「確かに規則とか規律を守って生活するのもいいと思うんだけど、何だかあの人の場合は、そうしたいっていうよりも、そうしなきゃって思い込んで生きてるだけなのかも知れないって、さっきちょっと思うことがあったんだよ。だからもう少しあの人と仲良くなれるなら、少しだけ今とは違う考えを押し付けたいかな」

「お前が言うサスティナブル主義か?」

「それもそうだけど、なんていうかなぁ、もうちょっと生き急がないで生きていってほしいって感じかな。基本的に生きてるのは面倒くさいことだけど、ゆっくり生きてりゃ楽しいこともあるんだよ、ってさ、そんな風に思って欲しいかもしれない」


 僕が回りくどく言うと、春樹は少し無言になり、なるべく意識したような軽口で、言った。


「要するに、ジンみたいになるな、ってことか」


 うん、と、僕も頷いた。

 流石は春樹、僕が本当に言いたいことを、代わりに口に出してくれる優しい男なのだ。


「マサムネ。愛してるぞ」

「うん、知ってるよ」

「もうひとつ言っとくけどな、お前が言うサスティナブル主義、俺は好きだぜ」

「うん」

「でもな、それはお前の本当の価値観なのかな、って思う時もある」


 僕は無言を通した。


「ジンがまだここにいりゃ、今のお前はもっともっと、昔みたいに首謀者としていろんな悪さをしてたんじゃないかなってさ」


 春樹は少しだけ遠慮がちに、僕を見た。


「お前にはなんか人と違う才能がある。理由さえあればもっともっとアグレッシブに周囲を変えていける人間がお前だ。今のお前が言うサスティナブル主義は、ジンがいなくなって、単にやることがなくなっちまったから言ってるだけなんじゃねぇかな、って――そう思う時も、実はある」


 それは――春樹の言う通りなのかも知れなかった。

 僕は明確にやるべきことを見失っている、だからサスティナブル主義などというよくわからないスローガンを掲げて人生に引きこもり、腐っているだけなのかもしれない。有り得たかもしれない未来や結果に手を伸ばすことを諦め、進化を拒否し続けているだけなのかもしれない。

 僕自身だって、それはよくわかる。人生がサスティナブルであるということは、実際には単に変化のない日常ということでもあるのだ。変化がないということは進歩もない。だけどやっぱりお前にそういう人生は似合わないのではないか、と、春樹は今、そういう事を言ってくれているのだった。


 僕が肯定も否定も出来ずに沈黙してしまうと、春樹がふぅ、とため息をついた。


「もうそろそろ二月十五日だ」


 僕は無言で頷いた。

 なんとなく僕も無言になって、僕と春樹は同じ星空を眺めた。


「今年も、またあの日が来るんだな」


 そう言って、春樹は目を細めた。

 なんだか、憎いものを睨みつけるかのような、ほんの少しきつい視線だった。


「もう来てくれんな、ってさ、毎年思ってるんだけどな――。もういいよ、あのことは忘れさせてくれよ、ってさ。でも、来るんだよな、毎年毎年よ――」


 そう、二月十五日、僕らはその日が来る度に、古傷を抉られて血が流れる。

 僕らはそのことが怖かった。だから未来など来てほしくなかったのだ。


 僕らは二人で、星空を見上げた。

 勝手に遠いところへ行ってしまった僕らの『媒介物』を責めるように、僕らは星空を見上げて、今はそこにいるのだろう彼を睨みつけた。


 しばらく忘れていた地球の回る音が、まるで荒れ狂う川の音のように耳の底に聞こえ続けていた。


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