Kleidung(服装)
その後も、僕らの日常は恙なく平和に流れた。
だが確実に、変化はあった。
あの日以来、僕とユーディトさんは四回、晩飯をご一緒した。最初は天ぷら定食、次は中華料理、次はうどん、最後はとんこつラーメンで締めた。ほとんどの料理を、ユーディトさんは痛く気に入った。とんこつラーメンでは、ユーディトさんは二回も替え玉を頼んだ。
日本の料理をユーディトさんに紹介する度に、僕は頬に三回、額に一回、キスをされた。
春樹は相変わらずバイトに精を出し、バイト代でスマホを最新機種に交換した。
秋は相変わらずモテて、また新たな一人をフッた。
秋にフラれ、気持ち悪いことをしないで、とまで言われてしまった本川君が一週間も学校を休んだ。高熱が出たのだそうだ。
進路指導のホリヤマ先生だけは変わらずに、相変わらずシナシナの顔をしていた。
僕らの世界は、少しずつだけれど、変化していた。おそらくは良い方に。
そう思わせる事件が、ある日、起こった。
その日は雪もちらつく凄く寒い日だった。僕は滅多に着ないユニクロのダウンジャケットを着て登校した。他の生徒も同じような感じで、ブレザーの上に何かを一枚羽織って、教室につくなりコソコソとすぐ脱いだ。何故なのかはわからないけれど、北国の学生はブレザーの上に何かを着ることを嫌がる。オシャレではない、恥ずかしいと思っているのだ。高校生独特のくだらない不文律のひとつだった。
それなりに教室内の人口も増えてきた辺りで――それは起こった。
ユーディト・聖海・ビスマルクさんが登校してきたのである。
ガラッ、と教室の引き戸が開いた瞬間――しん、と、クラスの喧騒が治まった。
春樹とバカ話に興じていた僕も、ん? と異変を感じて教室の入口を見た。
瞬間、僕はあっと声を上げた。
ユーディトさんは、ブレザーの上に、あの日僕がコメリで買わせた小豆色のドテラを着て登校してきたのだ。
一瞬、クラスの連中が顔を見合わせた。アレって、アレだよな? そうそう、というような、無言の会話がなされ、僕は己の失策を悟った。
そうだ、ドテラ。それは日本の伝統的な防寒着だとは言っていたけれど、それがどちらかと言えば部屋着であり、外に着ていくべきでないものだとまでは説明していなかったのである。
「お、おい、マサムネ、お前だろ」
春樹がちょっと焦ったように言った。この男は頭の回転が速い。あのドテラが僕の紹介であろうことを一瞬で悟ったのだ。僕は大きく頷き、しばし迷った後――意を決してユーディトさんに駆け寄った。
「ゆっ、ユーディトさん!」
「あら、おはよう。何?」
「それ、それ……!」
僕は小声でドテラを指さした。ああ、と澄ました顔で応じたユーディトさんは、これがどうかした? というような表情で僕を見た。
「それ、学校に着てきたの……!?」
「あら、あなたが勧めてくれたんじゃない。とっても暖かくて重宝してるのよ」
「うわ、参ったなぁ……!」
クラスの人間の大半が注目している環境下で、僕はなるべくユーディトさんが恥をかかないように四苦八苦した。
「ユーディトさん、言わなかった俺が悪かった。それ、部屋着なんだよ」
「ヘヤギ? ヘヤギって何?」
「外に着て出るもんじゃないってこと。基本的に着るのは部屋の中だけのもので……」
「なんだ、そんなこと。いいじゃない、暖かければなんでも」
大いに慌てている僕を不思議そうに見つめ、ユーディトさんがなんでそんなことを気にするのだろう、というような表情で僕を見た。その不思議な色の瞳に見つめられ、思っても見なかった反論をされ、僕は一瞬、言葉を飲み込んだ。
「もしかして、これを着て外に出ちゃいけないって法律や校則があるの?」
「い、いや、それはないけど……」
「なぁんだ、だったら別にいいじゃない。何を着て登校するかは個人の意思に委ねられるべきだわ。あなただって寒ければ上に何か着るでしょ?」
ユーディトさんのよく通る声は、まるで雷のように響き渡った気がした。何しろ、これだけの美人が言うことである。言葉以上の妙な説得力がある。その時のユーディトさんがカラスは白だと言えば、クラスの全員が反論しなかったに違いない。
「私は私がいいと思ったものを着てきただけ。それが合理的方法でしょ? 別にヘヤギだろうがなんだろうが、私は別に恥ずかしいともみっともないとも思わないのだけれど。ドテラは暖かいし軽い、なのにどうしてこんないいものを着ないの? ヤーパンはおかしな国ねぇ」
如何にもドイツ人らしい合理主義をあどけない表情で表情で並べられて、さすがの僕も絶句してしまった。
それと同時に、クラスの連中の空気が変わった。なるほど、言われてみればその通りだよな……というような、奇妙な納得が漂い始めた。
そこでユーディトさんはうっとりとした表情になった。
「それに私、とっても気に入ってるのよ? このドテラ、本当に暖かくて軽くて……しかもなんかトラディショナルで素敵なデザインしてるじゃない。シンプルで、暖かくて、それでいてなんというか、優しく包み込まれている感じがあるというか……」
ユーディトさんはドテラの襟に頬ずりし、実に満足げにため息をついて微笑んだ。
瞬間、クラスの連中――特に男子連中が――まるで感電したように感じたのは、おそらく僕の勘違いではなかった。
何度も繰り返しになるけれど、ユーディトさんはこれは天使か妖精か、と疑いたくなるような美少女である。そんな美少女が官能的な微笑みを浮かべ、心からの親愛の情を込め、小豆色のドテラに頬ずりする姿――それは物凄く奇妙な絵面ではあったけれど、反面、物凄く破壊力のある光景だった。
萌えた……と、その時のクラス連中の感情を最大公約数するなら、そんな単語になったかもしれない。僕らは日本文化が誇るぬくもりにすっかり魅了されてしまったこの外国人美少女に、瞬間的に萌えてしまったのである。萌えは正義だった。絶対的な正義だった。ドテラは部屋着であり外に来てゆくべきものではないという社会通念など、この美少女が浮かべた蕩けるような微笑みに一撃で掻き消されてしまったように思えた。
「ユーディト、確かにそうだ。お前の言う通りだ」
その時、絶句するしか無い僕を見かねたのか、春樹が絶妙なタイミングで助け舟を出してきた。
「暖かけりゃなんでもいい、確かにそうだよな。俺もドテラは好きだぜ。暖かいよな、それ」
「あら、タニフジ君もドテラを持ってるのね? いいわよね、これ。凄く気に入ってるの」
「何よりシンプルでいいよな。動くときとか汗もかかねぇしさ」
「そうだな、俺が間違ってた。ドテラはいい、ドテラは日本の誇りだ」
僕まで調子を合わせると、春樹がゲラゲラと笑った。僕も大いに笑った。その笑い声で、何だか戸惑っていたクラスの連中も、これはポジティヴな事態なのだと安心したらしかった。それがポジティヴかネガティヴか、判断がつかないことが一番人を不安にさせる。一度ポジティヴなことなのだと理解されれば、それは笑いになる。
僕と春樹がゲラゲラと笑い、ユーディトさんがクスクスと笑ったことで、それとともになんとなくクラスの空気も徐々に平静を取り戻してゆき、五分も経てばすっかり元通りになった。
実に奇妙な話なのだけれど……この「ユーディトさんドテラ事件」の後、クラスには奇妙な変化が生じた。登校する時、ブレザーの上に何かを着て登校する生徒が明らかに増えたのである。僕の勘違いではない。明らかに、増えた。誰も彼もがユーディトさんの全く付け入る隙のない合理主義に感電してしまい、「寒ければ着る」ということを誰も恥ずかしいことだと思わなくなったのだ。
こうして、くだらない不文律のひとつが、僕の世界から消えた。
世界はよい方に進化したのである。
やはりユーディトさんがこの世に3万人ぐらいいたら、くだらない不文律などこの世から消えてしまうだろう。
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