Reisbällchen(おにぎり)

 その後も変化は続いた。ドテラを着て登校してきて以来、ユーディトさんは普通にクラスメイトと会話するようになった。元々無闇に攻撃的な人ではないので、普通に話をすれば誰でも彼女を好きになった。

 今まであんなに孤高で、規則にうるさかったユーディトさんが普通にクラスの男子や女子と会話しているのを見ると、これまでせっせせっせと日本文化を仕込んできた僕の労苦が報われたような気がして思わず涙が出た……というのは嘘だが、なんとなく、よかったな、と思えたのだった。


「ユーディトさん、最近変わったよね」


 その日の昼、秋が弁当を持って、学校を休んでいる本川君の席に座り、お弁当を広げ始めた。


「春樹から聞いたぞ、首謀者マサムネ。アンタあの人とお隣さん同士になったらしいわね。何を吹き込んだのよ?」

「吹き込んでないぞ。アレはユーディトさんが日本に馴染もうと努力した結果だ。俺はただの紹介者だよ」


 僕は学食で買ってきた、油ギトギトのコロッケパンをかじりながら答えた。コロッケパンはいい。いつでも60点の味がする。失望させも期待させもしない。実にサスティナブルである。


「ラーメンとカツ丼食ったぐらいで人間は変わらないよ。それでもあんなに雰囲気が柔らかくなってんだ。日本のことを理解できた、っていう自信が出てきたんだよ、多分」

「そうか? 本当にそれだけなんか?」

「何を疑う?」

「アンタがまたサスティナブル主義とか頑張らない主義とか吹き込んで、あの人を堕落させようとした結果なんじゃないの?」

「それはない。けど、ちょっとある」

「ほらね、やっぱり」


 秋は分厚い卵焼きに箸を突き刺しながら呆れた口調で言った。


「いや秋よ、でも実際それは大事なことなのかもしんないぜ」


 あんぱんと牛乳、という低予算な食事で昼を乗り切ろうとしている春樹が、少し神妙な声で言った。


「バイト先でもああいうカタブツはよくいるからな。最初は掃き掃除程度でも国家行事みたいに厳粛にやろうとするやつがいるんだけど、大概がそのうち潰れるか失望するかで辞めちまうよ。いち早く抜きどころを掴めるかどうかも社会生活では重要だと思うぜ」

「ほらなほらな、春樹だってこう言ってる。二対一だ、圧倒的多数決だ、数の暴力にひれ伏せ、秋」

「春樹は余計なところから援護射撃しないでよ。油断するとコイツはすぐに人を引きずり込もうとするんだから」


 秋は箸で僕を指し示した。


「小学校五年生のときだったっけ? アンタがまた思いつきで家出しようなんて言い出すから私たち全員大変なことになったじゃない。修学旅行で全員が行く前に俺たちだけ抜け駆けしようぜって。バスと電車を乗り継いで仙台まで行って松島で笹かまぼこだけ食って帰ってきたの。あの時は警察に捜索願い出される一歩手前だったでしょ。私なんかオールナイトでお母さんに説教されたわよ。コイツはそういう奴なのよ? あんな美少女にヤクザな道を教えないとも限らないじゃない」

「そうかぁ、俺の母さんはよくやったって褒めてくれたけどなぁ」

「それはおばさんがおかしいのよ。今どこにいんの、あんたの母親?」

「おお、今はジブチとかいう国にいるらしいぞ」

「ジブチってどこだ?」

「エチオピアの隣、ソマリアの北」

「ますますわかんねぇな」


 僕がコロッケを齧ると、春樹が「でもよぉ……」と何だか意味深な含み笑いを浮かべた。


「実際よ、あん時は楽しかったな。よく行ったよな、俺たちだけでさ」

「まぁ、それはそうだけど……」


 春樹が懐かしそうに言うと、秋が消極的にだけれど同意した。秋もあの家出を楽しいと思っていたのだ。


 そう、それは僕が言い出しっぺの計画的家出だった。別に深い理由があったわけではない。修学旅行という一大行事を前にした僕は、大人に引率されて知らない場所に連れて行かれるという行為がなんとなくカッコ悪い気がして、僕らだけで立派に修学旅行ぐらいできるのだと主張したかったのだ。

 僕らはお小遣いをためて得た2万円を握り締め、バスと電車を乗り継ぎ、修学旅行で訪れる予定だった松島を一足先に訪れた。途中、秋がお腹が空いたと言い出し、予定になかったファミレスで食事をしてしまい、春樹がカモメにウンコ爆撃を喰らってしまったためにTシャツを買わねばならず、松島では笹かまぼこを一人一個買って飢えを凌ぐ羽目になってしまった。それでも、松島の海はそんな逃亡者たる僕らの目にもちゃんと綺麗に映り、僕らは僕らだけで修学旅行をやりきった、という深い自信を得られたのだった。


 思えば、あの時は地球の回る音なんか聞こえてなかったのになぁ……と思った途端だった。すっ、と視界に何か黄色いものが割り込んできて、あっ、と僕は声を上げた。


 そこには、コンビニで買ってきたらしいおにぎりふたつを手にしたユーディトさんがいた。

 ユーディトさんは如何にも所在なさげ、というような感じでもじもじと僕らを見て「あの……」とか細い声で言い、おにぎりのひとつを差し出した。


「あの……これ、オニギリよね? ドイツでもおばあちゃんがよく作って食べさせてくれたの。買ったのはいいけれど、どうやって開けたらいいのかわからなくて……」


 ユーディトさんがもじもじと言うと、秋が即座に反応した。


「ユーティトさん、貸して」


 言うが早いか、秋はユーディトさんの手からおにぎりを奪い取り、ユーディトさんに示すように持った。


「これはね、まずはこうやって、このてっぺんのフィルムを引っ張って……」


 秋が実演してみせると、ユーディトさんは興味津々の顔でそれを見ている。ペリペリ……とフィルムが剥がれてゆく。


「そしたら次にここをこうやって引っ張ると……」


 秋が得意げな表情で両端を引っ張ると、ズリズリ……という感じで、ゆっくりとフィルムが剥げてゆく。それと同時に、ユーディトさんのテンションも高まっていった。


「おおお、おおお……!」

「どんどんフィルムがズレてって……」

「おおおおお……!」


 その瞬間、フィルムがふたつに割れて、ご飯の部分が海苔に着地した。


「……ほら、おにぎりになった!」

「おおおおおおおおっ!!」


 ユーディトさんは立ち上がらんばかりの勢いで興奮した声を上げ、目をキラキラと輝かせた。秋は喜ぶユーディトさんを、物凄く楽しそうに見ていた。人間はおにぎりひとつあれば友だちになれるのだと、僕はその時初めて知った。

 そんな二人を見ながら、僕と春樹は笑いあった。松島に行った時、空をさすらうカモメたちを見上げたときの顔だった。

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