Schnitzel(豚カツ)
焼肉、ファミレス、回転寿司、中華料理屋――。
色々と考えて――僕は結局、無難な飯屋を紹介することにした。放課後、校内外に名前を轟かせる美少女と一緒に道を歩いているというのに、僕らの間に会話は少なかった。
ユーディトさんは最初に部屋に転がり込んできたときと同じ、黒のニットセーターにデニム、そしてこれまた大変似合うグレーのダッフルコートという出で立ちで、ルンルンと効果音が出そうな感じで歩いている。着ているものはシンプルなのに物凄く似合っている。そして相変わらずスタイルがいい。とても同い歳の女子高生には見えない。まるでユニクロのモデルのようだった。今これがユニクロのCMの撮影中だと言えば誰でも信じるだろう。彼女がモデルで僕がマネージャーだと言い張れば職質してきた警察官だって納得して帰るだろう。制服でもそうなのだけど、特に私服姿のこの人と並んで歩くと、日本人をやっているのが嫌になってくる。胴長短足、米食文化の弊害がこれ以上憎たらしく思えた瞬間はなかった。
「ねぇチヨダ君、チヨダ君って、私に付き合ってるとき何を考えてるの?」
ふと――ユーディトさんが振り返り、思わぬことを聞いてきた。
「私と一緒に歩いてるとき、チヨダ君って難しい顔するわよね」
「え、そんな顔してる?」
「便秘の修道僧みたいな顔してるわ」
「物凄い顔してるな、俺」
ユーディトさんを見ていたせいで日本人をやっているのが馬鹿馬鹿しくなった、とは言えない気がした。うーむ、と唸り、僕は言った。
「時にユーディトさん、何で世の中から争いってなくならないんだと思う?」
「それぞれの主義・主張・正義に差異があるから」
「模範解答だなぁ、個人的には三十点」
「あらそう、残念。あなたの見解は?」
「逆に、争いがどうして起こるのかより、争いがどうして終るか、の方を考えた方がいいんじゃないかとふと思ったんだよ」
僕は一息に言った。
「例えばさ、チマチマ争ってるのが馬鹿馬鹿しくなるぐらい綺麗なものとか楽しいことがあったら、争いなんてつまんないことはやらないと思うんだよ、人間。北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろと言い、だよ。今争ってる人たちって、もしかしてそういうのをまだ見つけられてないんじゃないかな。争いが終わる場合って、今まで争ってた人たちが、争いをやめたくなるぐらい綺麗なものとか楽しいものを見つけたときなんじゃないかと思うんだよね。例えばもの凄く可愛い女の子とかさ」
「その女の子を巡ってまた争いが起こるんじゃないの?」
「でもその場合はその女の子が、お願いみんな仲良くして、って言ったら争いが治まる気がするんだよね」
「うーん、あなたが何を言いたいのかよくわからないわ」
ユーディトさんは理解を諦めた顔で首を振った。つまりね、ユーディトさんがこの世に3万人ぐらいいれば世の中から争いがなくなると思うんだよ……などと言おうと思ったが、やめた。この人にこのユーモアは通じなさそうな気がしたし、僕の方もそんなことを面と向かって言える度胸はなかった。
その後、便秘の修道僧のような表情の僕とユーディトさんは黙々と道を歩き、一軒の蕎麦屋の前に立った。
白い暖簾をくぐって、僕らは店の片隅の二人がけ用の席に座った。
「ユーディトさん、蕎麦ってわかる?」
「えぇ、もちろん。ドイツでもおばあちゃんが何回か食べさせてくれたわ。ここはソバを出す店なのね?」
ユーディトさんが興味津々の顔で尋ねてきた。
「ソバってアレでしょ? ズバズバって下品に音を立てて食べるヌードルよね? おばあちゃんにももっと音を出すように言われながら食べたんだけど、アレはちょっと生理的に耐えられなかったわね。食べる時に音は立てなくていい?」
「まぁ、それぞれ食べ方は自由だよ。それよりもオススメなのがね、このカツ丼っていうやつ。知ってる?」
「知らないわ。どんな料理?」
テーブルの上にあるお品書きを示しながら言うと、ユーディトさんがヌッとお品書きに鼻先を寄せてきた。物凄い食いつきだった。
「豚肉を衣で揚げて、卵で閉じたのをご飯の上に乗せてあるんだ。これならユーディトさんも抵抗なく食べられると思うんだよね」
「なるほど、ヤーパン版のSchnitzel、か」
そう、シュニッツェル。それはさっきスマホで検索した成果だった。ドイツ版の豚カツであるシュニッツェルならユーディトさんにもさほど違和感がないのではないかと僕は踏んだのだった。
カツ丼の説明がそこで終わってしまうのも愛想がないので、僕はつまらない小噺を付け足すことにした。
「ちなみに、このカツ丼には隠された能力がある」
「な、何?」
「人に秘密を自白させる効果がある」
僕は真剣な口調で説明した。
「例えば警察の取り調べで黙秘する犯人がいるだろ? その時、取り調べる警察官はこのカツ丼を犯人に出すんだ。その上で、犯人に故郷のこととか、犯人のお母さんのことを訊くんだ。おふくろさんにあんまり心配をかけちゃダメだ、ってね」
「そうすると……どうなるの?」
「そうすると犯人は見る間に泣き出して、自分がやったことをあらいざらい白状してしまう……カツ丼にはそんな効果があるんだ。一種の自白剤だよね」
ユーディトさんは見る間に大層驚いた表情になった。
「ほ、本当なの……!? 嘘よね!?」
僕が注文を取りに来た顔見知りのおばちゃんに目配せすると、如何にも外国人、と言えるユーディトさんを見て大体の事情を察したのか、おばちゃんは苦笑しながら頷いた。取り調べでカツ丼、刑事ドラマでは鉄板のシーンである。嘘は言っていない。
頷いたおばちゃんを見て、次にユーディトさんは尊敬の目で僕を見た。
「や、ヤーパンは恐ろしい国ね……。そんなものを開発したどころか、普通のお店で普通に提供してるなんて……」
僕がへらへらと笑うと、じろ、とユーディトさんが僕を睨んだ。
「こんなものを食べさせて、あなたは私に何を白状させるつもりなの?」
「あ、いや、大丈夫だよ。カツ丼を食べるだけなら自白効果はないんだ」
「言っとくけどスリーサイズとかは聞かないでね。いくらあなたでもセクハラで訴えるわよ」
「訊いてみたいけど訊かないよ。でもカツ丼が美味しいのは間違いない。食べる?」
「いいわよ、私は清廉潔白な風紀委員だもの」
ユーディトさんはふてぶてしく鼻息をついた。
「やましい秘密なんて一個もないってことを証明するわ。受けて立とうじゃないの、カツ丼」
「よし、じゃあおばちゃん、カツ丼二個ね」
僕が言うと、おばちゃんはすぐさま厨房に引っ込んでいった。
そのまま僕はユーディトさんと短く話をした。僕は僕が小学生の頃、学芸会で草の役をやらされた話などを多少創作して話した。あまりの僕の熱演ぶりにたまたま来ていた地元の劇団の演出家が感動し、僕を千年に一度の逸材と称賛したなどと嘘を話す度に、ユーディトさんは意味がわからないわ、という表情をして僕を見つめた。やはりというかなんというか、ユーディトさんにはユーモアを解する能力は乏しいようだった。この鉄血の令嬢はどうしたら笑うんだろうなどと途方に暮れかけた辺りで、カツ丼が白い湯気を立ち上らせながら出てきた。
丼がテーブルに置かれるなり、ユーディトさんは鼻先をカツ丼の前に突き出し、まるで砂金の大粒を見たかのように目を輝かせた。
「お、おおぉぉ……! こ、これがカツ丼……!」
「大丈夫? 食べられそう?」
「思ったより全然大丈夫そう! ごめんなさい、先にいただくわね!」
言うなり、ユーディトさんは割り箸を割り、思った以上に器用に箸を使い、カツ丼を一口口に運んだ。
一瞬、神妙な表情になった後……んふーっ! という声がユーディトさんのツンと尖った鼻から飛び出た。
「お、美味しい……! これがカツ丼……!」
「おっ、口に合ってよかったな。イケる?」
「凄い、凄いわ……! この卵と豚肉の調和! 少ししょっぱいけど複雑な甘みがあって……なんというのかしら、ああ、日本語だと表現が難しいわね……!」
それからユーディトさんは、フンバルトデルベン、というようなドイツ語をずらずらと並べ、カツ丼の感想を興奮した口調でまくし立て始めた。突如長文のドイツ語が聞こえ始めたので、厨房にいた割烹着姿の蕎麦屋のおじさんが驚いたように飛び出てきた。
「やっぱりヤーパンはまだまだ美味しいものを隠していたのね……! こんなものを自分たちだけで囲って……!」
「いや別に囲ってるわけじゃないんだけどね……」
「あぁ、食べると減っちゃう、減っちゃうのにハシが止まらない……!」
「うわっ、ご飯粒飛んできた」
これは天使か妖精か、と言える金髪の外国人美少女が、ほっぺたじゅうに米粒をくっつけながらガツガツとカツ丼を頬張る光景――なんというか、コタツ以上に、とても奇妙な絵だった。
それからもユーディトさんはニコニコのえびす顔で、口いっぱいにカツ丼を頬張り、むふーっと唸り、咀嚼し、もったいなさそうに飲み干して、次のひとくちを掻き込むという作業を律儀に繰り返した。
いつの間にか、それを見ている僕の方の箸が止まっていた。
眼の前ではユーディトさんが顔よりデカいどんぶりを手に持ち、一心不乱にカツ丼を食べていた。
美味しさのオーバードーズでトリップしかけているユーディトさんを見ると、なんというか、例えようもなく懐かしい気持ちになった。
大昔、僕はあのドブのように汚い団地で、イヌキチという犬を飼っていた。僕が飼っていたというのは正確ではない。僕と、春樹と、秋とで、共同で公園の野良犬に餌付けしていたのだ。
僕らがお小遣いを出し合って買ったドッグフードを公園に持っていくと、イヌキチはしっぽをちぎれんばかりに振り回し、ワンワンと嬉しそうに吠え、小便をちびりそうになりながら一心不乱に餌を食べていた。食べる、という行為にこんなにも全力を出している生物がいるというだけで何だか僕らは幸せな気分になったものだった。そのうち、イヌキチは保健所のおじさんに捕まり、譲渡会に出され、イヌキチという名前ではない名前で、今はどこかの家で平和に飼われているはずだ。
今目の前でカツ丼という食べ物を全力で摂取しているユーディトさんを見ていると、全身で食べる喜びを表現していたイヌキチを思い出した。それどころか、なんだかユーディトさんがだんだん犬に見えてきた。パタパタとしっぽが揺れる音がする。ぴくぴく動く垂れた耳が金髪の上に浮かぶ。つぶらな瞳を輝かせながらこちらに走ってくる。地面を蹴って飛び付こうとしてくる――。
「……イヌキチ、ご飯だぞ」
「えっ?」
僕が思わず呟いた一言に、ユーディトさんが耳聡く反応した。僕ははっと驚き、わざとらしく咳払いをして、何事もなかったかのようにカツ丼を食べる作業を再開した。顔中にご飯粒をくっつけたまま、ユーディトさんは不思議そうに僕を見ていたが、すぐにカツ丼を食べる作業に戻った。
口元を紙ナプキンで拭い、出されたほうじ茶を一気飲みして、ユーディトさんはほう、と熱いため息をついた。
「どうだった、カツ丼?」
「最高、最高よ……! 毎日こんなものが食べられるなんて、ヤパニッシュはなんて贅沢をしてるのかしら……!」
ユーディトさんの瞳は、どこかの博物館で展示されている世界一巨大なトパーズのような輝いていた。
「豚肉のジューシーさ、卵の甘じょっぱさ、それを上手く中和するお米の艶やかさ……ああ、ダメだわ、もっと日本語を勉強しないと……!」
ユーディトさんが興奮しつつまくし立てるのを、ほうじ茶を追加しながらおばちゃんが微笑ましく見ていた。ありがとうね、とおばちゃんが小さな声でユーディトさんにお礼を言うと、ユーディトさんも笑顔で首を振った。
と――そのとき。カウンターに座っていたスーツを着たサラリーマンのおじさんが、ズゾゾ、と盛大に音を立てながら蕎麦を食べ始めた。その音を聞いた途端、ユーディトさんの眉が極限まで吊り上がり、顔がしかめられた。
おっと、これはいけない。本当にこの音は生理的に応えるらしい。
僕は多少慌ててユーディトさんを促した。
「出ようぜ」
その言葉に、うん! とユーディトさんは救われたような表情で答えた。
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