Ramen(支那蕎麦)
あのドブのように汚い団地とは全く違う、如何にもオシャレな注文住宅、といえる自宅に秋を送ってから、僕はビュンビュン自転車を飛ばした。既に時間は午後六時を過ぎていて、自炊するには多少急いで帰る必要があった。
アパートに着き、愛車を駐輪場に停め、階段を登った僕は――。
自分の部屋の前に座り込んでいる金髪の頭に、あっ、と声を上げた。
声を上げた瞬間、抱えた膝に顔を埋めていたその人物も顔を上げた。
ユーディト・聖海・ビスマルク。
ユーディトさんが、何故なのか僕の部屋のドアに、制服姿の背を預けて床に座り込んでいた。
「ユーディトさん……?」
僕がそう呟くと、ユーディトさんは僕を見るなり立ち上がった。
立ち上がって、のしのしのしのし、という感じで歩み寄ってきて、ガッ! と僕の両肩を掴んだ。
アッ、突き落とされる――! と僕はその時真剣に怖かった。ユーディトさんの不思議な色の瞳は色濃く殺気を湛えていて、僕の肩を掴んだ力はこの細腕から発したものだとはとても思えなかった。思わず後ろ足を踏ん張って階段からの転落を阻止しようとしたその瞬間、「よくも……」という恨み声が聞こえた。
僕は階段を転げ落ちなかった。
ユーディトさんは僕の目を覗き込み、いまだ固まっている僕を、切なそうな苦しそうな、なんとも言えない表情で睨んだ。
「よくも……よくも私にあんなものを食べさせたわね……!」
食べさせたって何が? と問うより前に、ユーディトさんが僕の肩を掴んで前後に揺さぶった。
「ラーメンよ、ラーメン! 覚えてるでしょ!?」
ユーディトさんは悲鳴のような怒りの声を上げ、当然僕は驚いた。まだ何を言われているのかわからない僕は、とりあえずユーディトさんと会話することにした。
「ら、ラーメン……?」
「そうよ、ラーメン! 昨日フードデリバリーで注文したブタヤサイマシとかいう食べ物よ! 何よアレは! ヤパニッシュの間だけであんな美味しいもの囲って恥ずかしくないのッ! ちゃんとドイツにも紹介しなさいよ! いやむしろドイツにも出店すべきよ、あの店はッ!!」
ユーディトさんは意味不明の言葉を叫び、僕と金髪をぶんぶん振り回した。
「何よあの濃厚な油ギトギトのスープは!? 何よあのニンニクの量は!? 何よあのヌードルの歯応えは!? あんなのどう考えても病みつきになっちゃうじゃない! 今日もまたラーメンのことばっかり一日中考えて全然授業に集中できなかったじゃないの! 何なのよヤーパンって! せっかく留学してきたのに私に勉強させないつもりなのッ!!」
ユーディトさんはその時、大層怒っていた。ラーメンという食べ物に。
オイリーで、ジューシーで、ボリューミィな日本のラーメンは、この天使か妖精かという外国人美少女をも虜にしてしまったらしいのである。
「え……つまり、そのラーメンが気に入りすぎて、俺に抗議しに来た、って?」
「抗議じゃないわ! これでもお礼のつもりよ! でも味が反則的すぎたの! あんな食べ物、食べ続けたら確実にプクプクに太るのは明らかじゃない……! 物凄いカロリーの味が味がしたもの! 冒涜的で背徳的だったわよ!!」
わけのわからない理屈を大声で叫びながら、ユーディトさんは僕を睨んだ。
「あなたには感謝してる、感謝してるけどこんなの絶対ダメよ! もう私、どうしたらいいのかわかんない……! ああ、こんな生活続けてたら絶対太るわ私、今晩からでもダイエットしないと……!」
ユーディトさんのいうことは支離滅裂で、僕を恨んだらいいのか感謝したらいいのか自分でもよくわかっていないようだった。しばしその熱量に圧倒されて黙ってしまった僕をキッと睨みつけ、ユーディトさんは低い声で言った。
「出せ」
「はい?」
「あなたのことだからまだまだ隠し持ってるんでしょう? 出しなさい」
「な、何を?」
「だからっ――! ヤーパンの、凄く美味しいものを知ってるんでしょう!? 教えて!」
ユーディトさんは物凄く必死な表情で再び大声を発した。
「まだまだ納得してないわよ、私! ヤーパンが隠し持ってるのがラーメンだけとはどう考えても思えないわ! あなた、なにか知ってるんでしょう!? 教えて! 教えなさい!」
「か、隠し持ってるって……!」
「教えてくれるまで私はここから動かないわよ! あなたを絶対に帰さない! あなたが私をこんなにしてしまったんでしょうが! 責任取りなさいよッ!」
事情がわからない人が聞いていたら間違いなく勘違いするだろう単語を大声で喚きながらユーディトさんは大騒ぎした。幸い、アパートの住人は誰もいなかったらしいが、傍の道路を道行く人々は何事かとこちらを見ている。通報されてしょっぴかれるのも嫌だったので、とりあえず僕はユーディトさんを宥めることに集中することにした。
「おっ、落ち着いてよユーディトさん! どうどう! 教える、教えるから落ち着いて!」
むぅーっ、と、ユーディトさんが鼻先を僕に突き出して、僕の言葉が本当なのか確かめるように僕を見た。
ユーディトさんの整った顔は真正面から見ると想像以上に凶器だった。僕は顔をそむけ気味にして、本当だと目で訴えた。
「やっぱり、まだあるのね?」
「ユーディトさんの口に合うかどうかはわからないけど……まぁ、ここらの飯屋だったら何個か知ってる。それを教えるってことでいい?」
そう言うと、僕の肩を掴むユーディトさんの手の力が緩んだ。
「……本当に、あなたに何から何までお世話になりっぱなしなのは悪いと思ってるわ。本当よ?」
ユーディトさんは自分が如何に無茶なことを言っているか思い出したかのように、これ以上申し訳無さそうな顔はできまいという表情で顔を俯けた。その表情を見て、悔悛するマグダラのマリアのようだな、と僕は自分でもよくわからない事を思った。
「でも本当に死活問題なのよ。これじゃ全然授業に集中できないし、体重の管理もできないし……私ってヤーパンに他に知り合いもいないから、あなたに頼るしかないのよ。わかってくれる?」
「あっ、全然、全然気にしなくていいよ! 誰でも夕飯は食べなきゃならないんだし! 気にすることじゃないよ!」
「気にするわよ……これじゃ他に示しがつかないわ。この風紀委員がご飯のことが気になりすぎて授業に集中できないって知れたらみんなどう思うと思う?」
「何度も言うけどめっちゃ可愛いと思うと思う」
「はぁ……相変わらずあなたはズレてるのね。もういいわ、今のは忘れて。他言無用よ。とにかく、このままじゃ私、私じゃなくなっちゃうわ」
ユーディトさんは重いため息をついた。
「恥ずかしい話、私、今日の日中は夕食のことばかり考えてたの。正直ノイローゼになりそうなぐらいだったわ」
「そ、そんなに考えてたの……!?」
「地震にコタツにラーメン、ヤーパンは本当に恐ろしい国よ。ここまで煩わされるなんて思ってもみなかった……。でもここで立ち向かえなきゃそれこそ風紀委員は務まらないわ」
ユーディトさんは何らかの決意を取り戻したような表情で、僕の顔を覗き込んだ。
「そこでね、お・ね・が・い。チヨダ君、私にもっともっとヤーパンの美味しいものを教えてくれるわよね? もちろんお礼として私のオゴリ。ね?」
ユーディトさんは再びの「美少女のお願い」ポーズとともにそう言ったけれど、やっぱりというか、目は全く笑っていなかった。断るならあなたを海に放流するわよ、と続きそうな目の色だった。相変わらず物凄い眼力だった。
もちろん、前回コタツを買いに行ったときと同じく、僕に選択肢はなかった。奢ってくれると言うならこの貧乏学生の懐も傷まないし、何より今は真冬時である。海に放流されたらそれはそれは寒かろう。なにより絵面が全くサスティナブルではない。
「まぁ、それは全然いいんだけど……正直、口に合うかはわからないよ? ユーディトさん、お米とか大丈夫?」
「ああ、ある程度は馴染みがあるわよ」
ユーディトさんは自信満々に頷いた。
「ドイツではおばあちゃんがよく日本から取り寄せたお米を食べさせてくれたから。ヤパニッシュのソウルフードだって。なんならミソシルも大丈夫だし、ハシもちゃんと使えるのよ?」
「おー、それは心強い発言だなぁ。嫌いなものとかは?」
「キュウリ。曲がってるから」
「食物アレルギー」
「ないわね」
「じゃあちょっと待ってて。ユーディトさんも私服に着替えててくれ。俺も着替えながら候補を考えるからさ」
「わかったわ。ああ、あとね」
ユーディトさんはそこで人差し指を一本上げ、それを自分の唇に押し付け、完璧な美少女のポーズを取った。
「言っとくけど、美味しくなかったら承知しないから」
完璧な美少女のポーズとともに、ユーディトさんはとても恐ろしいことを言い捨てた。僕が唖然としていると、ユーディトさんは言うべきことは言った、と言いたげな迷いない足取りで踵を返し、お隣の203号室へ帰っていった。
ハァ、と僕はため息をついた。早くもこれで三回目の関わり合いとなってしまった。
それもそうだけれど、今はユーディトさんを失望させないよう、とびきり美味しいものを探さねばならないようだった。
僕のサスティナブルな日常、それが大きく揺らぎ始めているのかもしれない――。
そんな事を考えて、僕は不安とともに部屋の鍵をドアノブに突き刺した。
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