Verwirrtheit(錯乱)

「あ、あ……あぅ……」


 僕が名前を呼ぶと、金髪の美少女は喘ぐようになにか言葉を紡ごうとした。


「あの、不来方第一高校一年C組の、ユーディト・聖海きよみ・ビスマルクさん、だよね? 俺のことわかる? 千代田だよ、千代田政宗。クラスメイトの」


 僕が入学式当日以来の自己紹介をすると、美少女の形のよい唇が「まさむね」と動いた。そうだ、と頷くと、激しく浅かった美少女の呼吸が徐々に深く、落ち着いたものになってきた。


「チヨダ……くん……? クラスメイトの……」


 なんでここに? と続きそうな口調だった。僕も全く同感だった。だいたい、ユーディトさんがこのアパートに住んでいたなんて聞いてないし、アパートに住んでいて彼女を見たこともない。


 けれどユーディトさんはその時、裸足だった。どう考えても自分の部屋から飛び出してきて、ここにそのまま倒れ込んだという風体だった。


「ユーディトさん、どうしてこんなところに?」


 僕が当然の疑問を訊ねてみると、ユーディトさんの瞳が徐々に焦点を結び始めた。


 ちょっと苦労して呼吸を整えてから、すう、と深く息を吸い込み、ユーディトさんは酷く震えた声で絞り出した。


「ひっこし、引っ越してきたの……ここに、今日、午前中に――」


 ということは、その記念すべき引越し当日に地震に遭遇したということか。なんとも災難な――と僕がちょっと同情していると、ユーディトさんが再び震える声で言った。


「そ、そうだ! さっきの地震……! 私の部屋、倒壊するんじゃないかと思うぐらい、凄く揺れて……!」


 ユーディトさんはそこで我に返ったようにそう叫び、ゴージャスな金髪を両腕でガリガリと掻きむしり、ああああ、と呻いた。


「私、怖くて、どうしようもなくなって……! どうすれば、どうすればいいのか全然、全然わからなくなっちゃって……!」


 ユーディトさんの目から盛大に涙が溢れて来て、天使のように愛らしく整った顔がぐしゃっと潰れた。その顔を見られたくなかったのか、ユーディトさんは玄関にへたり込むと、顔を俯けて激しく嗚咽し始めた。ぼたぼたと、玄関のタイルに涙が落ちて、幾つもの染みになった。


「ゆ、ユーディトさん……」


 とりあえず落ち着いて、と僕が声をかけようとした、その瞬間だった。


 ぐわっ、という感じで持ち上がった顔は――ひどい有様だった。


 涙と洟水、よだれ、あと何らかの分泌物にしとどに濡れたその顔が――何かを求めて僕を見ていた。




 次の瞬間、僕は思いっきりユーディトさんに抱きつかれていた。




「うおッ――!?」




 思わぬ事態に声を上げた瞬間、ギリギリ……! と肋骨が軋む勢いでユーディトさんが僕を締め上げ、物凄い悲鳴がユーディトさんの口からほとばしった。




「怖かっだ、怖かっだよぉぉぉぉぉぉぉぉ!!! うわぁぁぁぁぁぁん!!! ひっぐ、えぐっ、こんなのもう嫌……! ……う゛ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇええええん!!!!」




 ちなみに、ユーディトさんは美少女なだけでなく、色々とどデカい。身長なぞは百七十センチ近くある。決して大柄な部類に入るわけではない僕とどっこいどっこいぐらいの背丈だ。


 だから必然的に僕らはほぼ同じぐらいの目線の高さで抱き合うこととなり――なおかつ、ユーディトさんの悲鳴は耳元で聞くと鼓膜を破壊するほどデカかった。


 如何にも外国人、というようなデカくてゴージャスな美少女がべぇべぇ子供のように泣きじゃくる姿――。


 それは僕が人生で始めて目の当たりにする光景だったし、二度とは見られないような光景だった。


 僕はどうすればいいのかわからず、最初の二十秒はじっと絶叫に耐え、後の三十秒はユーディトさんの背中に遠慮がちに手を回し、最後の十分は怖かったね、怖かったね……とその背中を擦ることに徹することにした。


 たっぷり十分もすると――ようやくユーディトさんの嗚咽も下火になってきた。頃合いを見計らって僕が身体を離すと、ずびーっ! と音を立ててユーディトさんが洟を啜り、ハァハァと犬のように喘いだ。


「落ち着いた?」

「うっ、うん……」

「それならよかった。それで……とりあえずユーディトさん、この後どうする?」


 僕が尋ねると、ユーディトさんはそこで「キョトン」と音がしそうなほどキョトンとした表情を浮かべ、小首を傾げた。物凄い美少女がそんなあどけない表情を浮かべるところは眼福ではあったけれど、このままでは埒が明かない。僕は多少、しっかりとした声で訊ねた。


「地震はもう終わったよ。それで――自分の部屋に戻れる?」


 僕がそう言うと、ユーディトさんの表情がみるみる強張った。


 まるでサイコスリラーの主人公のように表情を一変させ、ユーディトさんは裏返った声で悲鳴を上げた。


「いや……嫌よ! またいつ地震が来るかわからない状況で一人きりなんて……! そんなの、そんなの耐えられるはずがないわ……!」


 ヒィィィッ! とヤカンが沸騰したような悲鳴を上げ、ユーディトさんは再びガリガリと頭を掻きむしった。


 と――そのとき、カタカタ……という音がして、僕らはハッと同時に顔を上げた。見ると、玄関に置いてあった時計が小刻みに揺れている。余震だった。




「いやぁ――――――っ!! もうやめてぇ!! お願いよ、もう許して!! うわぁぁぁぁぁぁん!!」




 その悲鳴とともに、ユーディトさんがまた僕に抱きついてきた。下火になっていた嗚咽も盛大に再開している。僕は再びユーディトさんの背中に手を回し、大丈夫、大丈夫……と撫で擦った。


 これは――さっきの大地震が本当に堪えているようだ。とても一人で放っておけそうにはない精神状態だった。


 ハァ、とため息をつき、僕は意を決して言った。


「わ、わかったわかった。ユーディトさん。それじゃ、この部屋で少し休んでいく?」


 僕がやんわりと身体を離しながらそう言うと、ユーディトさんが雨に濡れそぼった子犬そのものの目で僕を見た。


「ここで少しお話しとかしながら余震が落ち着くのを待とうよ。それなら大丈夫?」


 ずびーっ! と、ユーディトさんがもう一度、物凄い勢いで洟を啜った。うわぁ、と少し顔をしかめた僕を伏し目がちに見つめて、ユーディトさんは小刻みに頷いた。


「……そう、する」

「よし、じゃあ立って。汚くて散らかってるけど、とりあえず暖かいはずだから、中に入ってよ」


 その日――僕は生まれて初めて、女の子を自分の部屋に上げた。


 それも、僕の通っている高校で『鉄血の令嬢フロイライン』と呼ばれた伝説的美少女、ユーディト・聖海・ビスマルクさんを、だ。

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