Zitrone(檸檬)
「よし、みんな揃ったな?」
僕がとてもいい声でそう言うと、それぞれ私服に着替えた秋、春樹、そしてユーディトさんが頷いた。みんな闘志あふれる顔をしていた。
「これからドブ団地組プラスいちで、恒例の二月十五日会を開催する。予算はひとり三千円、そしてこれから俺たち全員で買い出しに向かう。間違っても途中でゲーセンなんかに寄ったらダメだぞ。これから日付が変わるまでは真剣勝負だ。覚悟はいいな?」
おう、と春樹が頷き、ユーディトさんが緊張した面持ちを浮かべ、秋が呆れ顔をし浮かべた。
「マサムネ」
「質問を許可する」
「アンタさ、毎回この流れやるけど、なんか意味あんの? 別にこれからどっかに忍び込んで悪さするわけでもないのに」
「わかってないなぁ秋は。これは遊びだ、楽しいことなんだ。仕事じゃないからこそ厳粛に始めるんだよ」
「普通逆でしょ。仕事だから真面目にやるんでしょうが」
「俺は逆だ。遊びにこそマジが宿る。真面目にやれ、仕事じゃねぇんだぞ」
決然とそう言い、僕はゴホン、と咳払いをひとつした。
「そして皆さんお待ちかね、いよいよ今回何鍋をやるかの発表に移ります。今回やるのは……ちゃんこ鍋に決定しました!」
パチパチパチパチ、と僕は拍手した。ユーディトさんは興味津々の顔になったけれど、ほか二人はいまいちテンションが低いままだった。
「なんだよノリ悪いなぁ。もっと喜ぼうぜ。ちゃんこ鍋だぞちゃんこ鍋」
「アキ、ちゃんこ鍋って何?」
「お相撲さんが食べる奴。まぁ、栄養満点で美味しいのは間違いないから、ユーディトさんは期待してもいいんじゃない?」
「おっ、おお、あのスモウレスラーが食べているもの……! 物凄く栄養がありそうね……!」
ユーディトさんが、俄然興味が湧いてきたというような表情で小躍りした。そのテンションの高さを微笑ましく思いながら僕は言った。
「発表が終わったところで、まずはこれから食材の買い出しに行くぞ。必要な具材を買うお金は各自が持ち寄った二千円、それ以外は各自千円の予算以内で好きな飲み物やお菓子を購入できるルールだ。ちなみに未成年なのでアルコール飲料は厳禁。いいな?」
僕が確認すると、うぇーい、というような返答が三人から返ってきた。よし、と応じて、僕らは近所にあるスーパーへと移動を始めた。
移動の最中、僕らはずっと楽しく喋っていた。僕が小学校四年生の頃、近所の神社主催のわんぱく相撲に出場し、いじめっ子として有名だったガキ大将の六年生を禁じ手のスープレックスで破り、優勝したのに主催者側のおじさんからゲンコツを二発喰らった話や、春樹が小学校の頃朝食を食べずに登校し、あまりの空腹に耐えかねて早退した話などを多少誇張して披露すると、ユーディトさんはころころという感じで笑った。この鉄血の令嬢も遂にユーモアを解するようになってきたらしい。
そんな感じで十分近く歩き、僕たちは近所にある大型複合施設にやってきた。スーパー、電気屋、ホームセンター、ドラッグストアなどが複数ある、田舎にはありがちな商業施設である。広い駐車場を横切り、僕らはその中のスーパーに入店した。
秋がカートを押し、僕らは予めメモしておいた食材を次々とカゴに放り込んだ。秋は春樹がカゴに放り込んだゴボウが気に入らないらしく、多少高くてもいいからもっと太いのを探せ、何言ってんだ何事も安い方がいいだろうが、などと言い争っている。
そんな中、ユーディトさんは生鮮食品コーナーのレモンを掴み上げ、難しい顔で唸っていた。
「ユーディトさん、どうしたの?」
「ヤーパンの果物、高すぎよ……これひとつで150円もするの?」
ユーディトさんは理解不能だというような表情で黄色いレモンを睨んでいる。
「ドイツならこの時点で革命が起こってるわね……Zitroneが150円なんて天地がひっくり返っても容認できないわ。どうやってレモネードとか作るのよ?」
「まぁ、日本はそんなに果物が安くないからなぁ。高いという気持ちは正直わかる」
「高いっていう気持ちはあるのね。ヤパニッシュとしては不満じゃないの?」
「不満だけど、そこまでレモン食べないからなぁ」
「むうう、強烈に不満だわ。ヤーパンではおいそれとレモンティーも作れないのね……」
ユーディトさんが実に不満げにレモンを棚に戻した。日本のレモンは爆弾としても使用できるから結構値が張るんだよ、などと言おうと思ったが、やめた。この人にはまだこのレベルのユーモアは通じまい。爆弾、と聞いたら悲鳴を上げてレモンを床に投げ捨てたりする可能性があった。
それからも、ユーディトさんは興味津々の顔でスーパーの中を物色していた。おそらく初めてであろう日本のスーパーである。ユーディトさんは今、異国の食文化のるつぼの只中にいるのだ。興奮しないはずがなかった。特に鮮魚コーナーでは、ユーディトさんは色とりどりの魚たちを見て大変興奮した。
「す、凄い! こんなに魚が並んでるの、初めて見たわ……!」
「おお、やっぱり興奮するんだ。日本人は結構魚を食べるからね」
秋が半笑いの声で言うと、ユーディトさんは目をきらきらと輝かせた。
「今日ちゃんこ鍋に入れるのはこの魚。ユーディトさん、鱈ってわかる?」
「タラ? 何の魚かしら?」
「うーんとね、マクドナルドのフィレオフィッシュに使われてる魚、だと思う」
「なるほど、Kabeljauね!」
「そう、その、カベヤー」
秋は冴えない発音でそう言い、僕と春樹は思わず笑ってしまった。途中、更に興奮したユーディトさんがマグロとタラバガニとカキをちゃんこ鍋に入れようと言い出したので、諦めさせるのにちょっと苦労が必要だった。僕ら貧乏学生にマグロのサクは高価過ぎる。
しばらくやいのやいの騒ぎながらスーパーを散策し、僕らはあらかたちゃんこ鍋に必要なものを揃えた。秋と春樹がレジに並んでいる間、僕とユーディトさんはスーパーの出入り口付近でレジが終わるのを待っていた。空は既に夕闇の赤から夜の黒に変わり始めていて、夕方から吹いていたそよ風もいつの間にか止んでいた。
「あ、チヨダ君。この隣にドラッグストアがあったわよね?」
「あるけど」
「私、ちょっと化粧水が切れかけてるの。悪いんだけど買ってきてもいいかしら?」
「おお、それは一大事だ」
僕は真剣な表情になって頷いた。
「ユーディトさんのスキンケアが上手く行かなくなったら人類の損失だ。何時間でも待つから是非とも買ってきてくれ」
「あなたのいう事は時々よくわからないわね……それじゃあ行ってくる。タニフジ君とアキによろしく」
言うなり、ユーディトさんは小走りでスーパーを駆け出していった。その姿を見送ってしばらく、買い物袋を手にした春樹と秋が戻ってきた。
「あれ、ユーディトは?」
「一大事が発生した。化粧水が切れたから買ってくるって」
「なるほど、そりゃ一大事ね」
秋が頷いた。
「あの子が肌のトラブルを起こしたら、紛争の種になる」
それから、僕らはサッカー台の周辺でだらだらと世間話をした。数日前のニュースで、インドネシアかどこかで、体長10メートル近いニシキヘビが村人を丸呑みにした話などをすると、秋は顔をひきつらせ、春樹はゲラゲラと笑った。
「もし俺が体長10メートルの蛇に飲み込まれたらさ。お前ら、どうする?」
「私は逃げる。後も見ずに」
「俺は一応闘うかな。体長10メートルの蛇なら、捕まえりゃ高く売れるだろ」
「お前ら俺の弔い合戦をしてくれようって気はないの?」
「アンタみたいなの食ったら腹壊すわよ。少し待ってりゃ肛門から未消化でそっくり出てくるでしょ」
「その時にはウンコまみれじゃねぇかよ。別の意味で死ぬだろ」
「近寄るなウンコマン。エンガチョ」
「まぁなぁ、マサムネは殺しても死ななそうだしな」
「俺は毒物かなんかかよ」
「そこまでじゃないけど、物凄い傷みものなのは間違いないでしょ」
「自分でも否定できん」
「なぁ、ユーディト遅くないか?」
「まぁ、言われてみれば」
「道に迷ってんじゃねぇか? ユーディトってここらへんの土地に明るくないだろ?」
「心配ね……マサムネ、行け。私たちはここで待ってるから」
「んおお、ちょっと様子見てくる」
秋にそう命じられて、僕は早足で店を出た。スーパーの入り口で厳ついパンチパーマのおじさんが、ドスの効いた声で携帯電話に何事かを怒鳴っている。それをなんとなく見ながら隣のドラッグストアに駆け込もうとした僕は――目立つ金髪と、その頭以上に目立つ色とりどりの頭を視界に入れた。
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