Freund(友人)

 僕もその後、なんだかいつもより眠い目をこすりながら愛車の鍵を外し、のろのろと学校へ向かった。随分チンタラとペダルを漕いでいたせいで、到着したのは授業開始間近の時間だった。


「よっ、マサムネ。ずいぶん重役出勤じゃね?」


 向かいの席に座った春樹が俺の顔を見てゲラゲラと笑った。この肌の浅黒く日焼けした友人は意味もなくよく笑うのである。小さい頃、オヤジさんが若くして心臓発作で死んだ直後などはしばらく塞ぎ込んでいたのだが、成長してからは馬鹿に笑うようになった。そうでなければ生きていけなかったと、若くして気づいていたのかもしれない。


「うん――昨日ちょっと色々あってな」

「あぁ、地震な。お前一人暮らしだからビックリしたろ? 母ちゃんに電話でもしてたか?」

「あの母親が電話出るかよ。ついこないだはタンザニアでワニの肉煮て食ったって興奮してたしよ」

「ワニ肉って食えんのか?」

「鶏肉に似てたって」

「すげーなおばさん。相変わらず世界中飛び回ってるな」


 春樹はゲラゲラと笑ったが、笑い事ではなかった。僕が生まれた頃から、母は母ではなく、世界的なフォトグラファーでしかなかった。僕が小学校を卒業する辺りからまず家には寄り付かなくなっていた母のことは、今でもあまり母親らしいことをしてもらった記憶がない。最近あの母親がしてくれた母親らしいことと言えば、この高校の入学金を振り込んでくれたことと、カンボジアの山奥で精力剤として飲まれているというサルの首の焼酎漬けを送ってきてくれたことぐらいである。


「まぁ母親のことはいいんだよ。時に春樹、お前の家は大丈夫だったか?」

「あぁまぁ、震度五弱ぐらいじゃ今更驚かねぇよ。六行ったら流石に慌てるけどな」

「……やっぱり、そうだよな」

「え?」

「まぁ、色々あったんだよ、うん」


 僕はなんとなく、昨晩のことを思い出していた。あの『鉄血の令嬢』が俺の住まいを為すアパートに越してきたこと自体、信じられないことだろうに、その『鉄血の令嬢』が昨日の地震に驚いて僕の部屋に転がり込んできて、そのまま曲がりなりにも隣合わせで一夜をともにした、なんて行ったら、この気の良い男はどれだけ驚くことだろう。僕だって僕の身に起こったことでないなら信じないはずだ。


 ふと――僕はクラスメイトであるユーディトさんがまだ学校に来ていないことに気がついた。何のめぐり合わせなのか、彼女と僕はクラスメイトであり、なおかつ、彼女は授業開始十分前にはキチンと手を膝の上に置いて真っ直ぐ前を見つめているような、キッチリとした美少女なのだ。それがまだ着席していないどころか、そもそも教室に来ていない。


 大丈夫だろうか――昨日のこともあって僕は心配になってきた。そういえば昨日の夜、彼女は「倒壊するかと思うほど凄く揺れて」と言っていた。昨日の震度五弱は越してきたばかりの彼女の部屋をぐちゃぐちゃにしてしまって、朝の登校の目処が立たず困っているのではないか――と、今更ながらにちょっと不安になってきた。


 しばらく悶々と考え込んで――ふと、急に何もかもがおかしい、と僕は考えた。


 その時に僕が考えたのは、なんで僕がこんなにもユーディトさんのことを心配せねばならないのか、という根本的な問いである。


 詳しくは聞いていないけれど、そもそもユーディトさんは昨日、僕と同じアパートにたまたま引っ越してきただけの人であって、恋人でもなければ友人でもないお隣さんでしかない。昨日、彼女が我が家のコタツで一夜を明かす羽目になったのも単なる成り行きであったはずなのだ。


 そう、それだけの関係。

 後はもう何も残らない。多少仲良くなれたかもしれないというだけの関係。


 そう思うと心配するのも馬鹿馬鹿しくなって、僕はユーディトさんを心配するのをやめることにした。春樹が他の生徒に呼ばれてそっちの方に引っ張られてゆくと、会話する相手もいなくなった。僕がブレザーのポケットからスマホを取り出し、イヤホンを耳に突っ込んで聴く体勢を整えていると、ズボッと誰かにイヤホンを引っこ抜かれた。


「おはよ、マサムネ」


 凛と通った、女子の声だった。僕が顔を上げると、今どき時代遅れな姫カットの黒髪を揺らしながら、目の前に立った女子がなぜだか得意げな表情を浮かべた。


「ふぅん――マサムネ、アンタ寝不足でしょ?」

「おお、正解。なんでわかった?」

「昨日の地震」女子生徒は得意げな笑みを深くした。「アンタ遠足の前の日とか、眠れないタイプだったからね。小さい頃から」


 こいつ――僕と春樹の幼馴染であり、このクラスの女子カーストトップに君臨する田中舘秋には、なにか不思議な力がある、と僕は思っている。この日本人形のような髪型と雰囲気を持った女子生徒は、何故なのか人をひと目見ただけでなんとなく考えていることを掴んでしまう厄介な能力を持っているのである。


「遠足と地震一緒にすんなよ。それに昨日は割とすぐに寝たよ。日付が変わる前だ」

「あらそう、健康的じゃん。またネットで『地震キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!』とか言って実況とかしてたんじゃないの?」

「そうしようかと思ったさ。でも馬鹿馬鹿しくなって途中でやめたよ。青春の内容として不健康すぎる」

「不健康が服着て歩いてるような男が何言ってんの」


 秋は僕の前の席に座り、椅子の背もたれを抱いて僕の顔を覗き込んだ。前の席に座っている生徒である文学青年・本川君の方をちらりと見ると、本川君はちょっと嬉しそうな表情をしていた。


 まぁ、クラス内男子の熱視線を『鉄血の令嬢』と二分する秋が自分の席に座れば、大概の男子生徒は嬉しいんじゃないだろうか。自分は生きていてもいいのだ、というお墨付きをもらったようなものだ。


 いつもは一言、二言挨拶を交わして、他のカーストトップ連中の方に引っ張られてゆくはずの秋は、その日は何故かちょっとしつこく僕とお話しようとしていた。


「何?」

「マサムネ。アンタ、今日提出の進路希望調査表書いた?」

「書いたけど」

「書いた進路の内容は?」

「UberEats」


 僕が即答すると、ハァ、と秋はため息をついた。


「呼び出し食らうよ? そんなん書いてたら」

「仕事に貴賤なし、だろ。呼び出す教師の方がおかしい」

「ちなみにこの間も進路希望調査票書いたはずだけど、そのときはなんて書いた?」

「Youtuber」

「その更に前」

「FXトレーダー」

「で、今回はUberEatsか。相変わらずのサスティナブル主義、か」


 秋は強情な僕をじっと見つめて、ハァ、と再びため息をついた。


「アンタ、ちゃんとしたとこに進学しないの? 一応成績は平均点ぐらいでしょ。そこそこ努力すればそこそこの大学には入れるでしょうに」

「まだわかんないよ。それもいいかな、って思ったらちゃんとした進学に切り替えるかもしれない」


 それは嘘ではなかった。大卒でUberEatsをやっている人なんてごまんといるだろうし、そうしちゃいけない決まりがあるわけでもない。


「四年間親のカネを使って精一杯遊んで、それで十分遊んだって信じてからつまんない大人の型にハマっていくのもいいかな、って思ったら、そのときは死ぬ気で勉強して入るよ、大学。チャリンコ漕ぐのはそれからだ」

「長文でごまかすな、アホ」


 秋は僕を叱るような視線とともに見つめてきた。


「昔から何度も言ってるでしょうよ。要領の良さだけじゃ世の中は渡ってけないの。ほぼ無勉強で受験受けて、それで入れてくれる大学なんてあると思う?」

「自分の名前さえ書けりゃ入れてくれる大学もある」

「そこでもう少し努力すればそこそこいい大学に入れるのに?」

「あのなぁ秋、俺のことはわかってるだろ? 俺、嫌いなんだよ。努力」


 僕は少し身を乗り出して説教を仕返す体勢になった。




「努力? 根性? ガッツ? いいだろう、如何にもタコにも青春ぽい、頭から否定はしないよ。けれどな、俺には要らない、一個も要らないな、そういうビックリマークは人生に。イージーな方へイージーな方へ、どこまでもどこまでもどんぶらこっこどんぶらこっこ、それが俺だよ。わかってんだろ? あとちなみにな、『どんぶらこっこ』って擬音は桃太郎で大きな桃が川上から流れてくる時にしか使われないオノマトペなんだ。外国人は日本には大きな桃が川上から流れてくるとき専用のオノマトペがあるって言うと冗談だって思うらしいぞ。どうだ面白いだろ、うはははは」




 しらーっ、と、音が聞こえてきそうな感じで、秋が僕を見つめた。ちっ、と舌打ちがしたくなった。秋と僕は幼馴染であるから、秋は僕がどういう性格でどういう奴なのかを知り抜いている。つまり、僕の口先が通用しない。丸め込めない。


「小学生の頃は将来努力して仮面ライダーになるって言ってたじゃない。あのときの情熱はどこ行った、マサムネ」

「どっかに落として来ちゃったよ」

「拾ってこい」


 幼馴染らしい軽口を叩いて、秋は机の上に転がっていた有線イヤホンを掴んで僕に投げた。ドゴン、という重い音がして僕の身体に穴が空いた……というのはもちろん嘘だが、秋は僕を心配そうな目線で見つめた。


 秋は美少女である。だからこうして真剣な顔をされた上で心配されると、そうではない生徒に心配されるよりもよりこっちの不安感が増す。


「アンタ、今どき高校生で人生アーリーリタイアなんて流行らないわよ、一昔前のラブコメじゃないんだからさ、もう少し人生に情熱傾けなさいよ」

「一昔前のラブコメヒロインみたいな髪型してる奴に言われたかねぇよ」

「一応ね、宣言しとく。心配してんのよ、私。割と真剣に、アンタの将来を」


 秋は4月生まれで、僕は6月生まれだった。昔から秋は僕ら幼馴染組のお姉さん的存在だったから、今もたまにこうして要らぬお姉さんムーヴをかましてくることがある。それにしたって今回はちょっとしつこい感じだった。僕はボクシングのチャンピオンのように、秋のお小言を身体を左右に振って避けることだけに集中していた。


「アンタがどうしても将来UberEatsになりたいっていうなら止めはしないけど、アンタの場合はそうじゃないでしょ。積極性がなんにもない消極的選択の行きつく先としてUberEatsがあるわけでしょ」

「繰り返しになるけど仕事に貴賤はない」

「仕事には貴賤がないけどやる気に貴賤はあるでしょ。アンタの場合は志望動機にビックリマークが一個もないじゃない」

「遊ぶカネ欲しさ、でもなんでもいいだろ」

「遊ぶカネ欲しさは志望動機じゃなくて犯行動機だろうが。いくらUberEatsでもおととい来やがれって言うわよ」

「何を根拠にそんなUberEatsを下に見るかわかんねぇ」

「下に見てんのはアンタだけよ」

「酷い」

「見られたくてやってるとしか思えないじゃないの」


 秋、秋、と、クラスの顔面偏差値上位の連中が秋のことを呼んでいた。今行く、と一言だけ返答してから、秋は僕に向き直った。


「とにかくマサムネ、アンタちょっと本当に心配だぞ。春樹は空気読めるから言わないけど、実は私たち、陰でアンタのこと心配してんのよ?」

「有り難い幼馴染を持てて感無量だよ」

「心にもないこと言うな。とにかくアンタ、UberEatsはやめとけ。内定に響くぞ。消しとけ、いい?」

「ご忠告ありがとう。そら、呼んでるんだから行ったれ」


 僕が極めてやる気のない感じにお小言を打ち切る声を発すると、秋は露骨にムッとした表情を浮かべたけれど、それからすぐにカーストトップの表情を取り戻し、顔面レベルの高い連中の中に吸い込まれていった。


 ハァ、と僕はため息をついた。僕が席の主である本川君にアイコンタクトを取ると、本川君はいそいそと近寄ってきて席に座った。


「ゴメンな席取らせて。秋はああいう性格だから。後で言っとくよ」

「全然気にしなくていいよ。チヨダ、田中舘さんと何話してたの?」

「話をしてたわけじゃないよ。お説教されたの、一方的に」

「チヨダって田中舘さんと友達なんだ?」

「腐れ縁、幼馴染ってヤツだよ。昔、同じ団地で暮らしてたの」


 僕らは所謂幼馴染である。物心つく前から、あのドブのように汚いマンモス団地で、小学校六年生までを一緒に暮らした仲だ。命を預けあって人攫い団に立ち向かったり、友情パワーで世界の危機を一緒に救ったりしたこともある……というのは嘘だけれど、髪の毛を引っ張り合って喧嘩したり、ひとつのプリンを分け合って食べたりしたことぐらいはある。僕らはかつて本当にいい友達だった。そしてそれは今も変わらない。


 僕が秋と幼馴染だとわかると、本川君は尊敬の眼差しで僕を見た。

 ああ、と僕は納得した。好きだな、本川君。秋のことが。


「そうなんだ、チヨダって顔広いんだね」

「広くはないよ。ただ昔は一緒に遊んでたってだけ」

「でも田中舘さんってスクールカースト上位の生徒じゃん。そうそう話しかけられたり話しかけたりできるもんじゃないよ」


 僕は前を見た。そこには如何にも文学青年と言えそうな、覚悟のない優しさ以外は何も持っていなさそうな本川君の丸顔がある。


「本川君と秋って、カーストが違ってると思うか?」

「そりゃあ……」


 本川君は何だか情けないような顔で苦笑した。


「田中舘さんは美人だし、成績もいいからね。友達も多いし」

「本川君だって成績は悪くないし友達だっているだろ」

「成績はある程度ね。でも俺は違うよ、田中舘さんとは住む世界が」

「そうかな。俺はそうは思わないけどな」


 ああ、本川君、と僕は内心でこの心優しきクラスメイトの文学青年を憐れんだ。最近君は少しライトノベルに傾倒しすぎだ、スクールカーストなどというまやかしを信じていると人生が面倒くさくなるだけだぜ……などと説教したくなったけれど、やめた。面倒くさかった。


 当時、確かに春樹や秋は押しも押されもせぬスクールカーストトップ集団の生徒ではあったかもしれないけれど、僕はそんな彼らとも堂々と付き合い、反面、カーストが下位であると思われるイケてないクラスメイトたちとも堂々と付き合っていた。僕はどのカーストにも属していないのだという自信があったし、この口先ならどこのどいつとでも対等に付き合えるという自信もあった。


 変わり者だと思われている自覚はあったけれど、自分がどのカーストに属していて、どのカーストの連中と付き合うべきか、そんな疲れることを考えるのはアホのやることだと思っていたし、大人になった今もそう思っている。とにかく、疲れることをしたくなかったのだ。


 時計を見ると、もうHR開始の予鈴が鳴る頃だった。僕はため息とともに有線イヤホンを束ねて鞄に突っ込み、なんとなくスマホを弄っていると、「はーい、席つけ」の声と共に担任が入ってきて、HRが始まった。



 ユーディトさんは、HRが終わった頃、いつの間にか席について授業を受けていた。


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