Blut und Eisen(鉄血)

 高校一年冬のその当時、青春にありがちなことではあるけれど、僕は妙に落ち込んでいた。理由は色々思い当たる。両親が離婚し、しっくりとした関係が築けていない父に引き取られたこと、唯一の理解者であった祖父が不治の病に侵されて先が長くないと判明したこと、僕自身が太宰治と小林多喜二とマルクスと渡航に傾倒したこと、クラス内で『チェンソーマン』のマキマ派とレゼ派の対立が激化していたこと、『ウマ娘』でツインターボの育成が上手く行っていなかったこと、近所にあるローソンで常々可愛いと思っていた女性店員に突如LINEのアドレスを渡されて動揺していたこと――などというのは全部嘘で、それどころか当時は特に大きな悩みもなく、苦しみもなく、僕の日常は恙なく平和だった。


 第一、悩みや苦しみというのは、高確率で何かを頑張っているから生じるものだ。頑張っているのに成績が上がらない、頑張っているのにタイムが縮まらない、頑張っているのにあの子と仲良くなれない――など、悩みや苦しみというのはその人がアグレッシブに行動している結果生まれてくるものだ。


 反面、当時の僕は「サスティナブルな青春」を人生のスローガンに掲げ、持続可能に頑張らない主義を貫き通していたので、そんなものとは決定的に無縁だった。とにかく余計な苦しみを背負うことなく、決して努力せず、やらない言い訳だけを磨き、やらなければならないことは手短に、最小の力で乗り越える、そんな生活を続けていたので、そこまで大きな悩みや苦しみは生じるわけがなかった。当時の僕は、生まれついての要領の良さ、そこそこのコミニケーション能力と口先の達者さだけでクラス内の誰とでも平和に付き合い、ほぼ努力なしでそこそこの成績を維持しているような男だったのだ。


 当然、熱血で目ざとい教師からは僕の学校生活をたしなめられたりもしていた。マサムネ、お前は三代将軍徳川家光のような男だ、人間というものは要領がいいだけじゃダメだ、目標を定めて努力しなければ本当に欲しい結果は得られないのだ云々――などというお小言をもらう度に、僕は何でこんなことを言われなければならないのだろうと教師の顔をぼんやり見つめながらそのことを不思議に思っていた。


 確かに、ここぞというところで努力できない僕は将来決定的に転落してオチコボレになるかもしれない、というぼんやりとした恐怖はあったのだけれど、その当時の日本には将来勉強して東大なんかに入って官僚とか広告代理店勤務とかパイロットとか芸人とかになっても下積みが辛いだけで、それならYoutuberになってしまった方が稼げるし有名になれるし、食うぐらい食うだけならUberEatsでも十分、という斜陽国家ならではの安易な風潮が出来つつあったのも事実だ。


 というわけで、あまり目立つ気がなかった当時の僕は、将来はすっかりYoutuberではなくUberEatsで稼ぐ方に決めていて、一年の夏、それまで徒歩通学だったのを自転車通学に切り替えていた。


 自転車を漕ぎ続けられる限り自分は餓死することはない、サスティナブルなのだと自分に言い聞かせ、僕はその日も華麗に校門を通り過ぎ、駐輪場に愛車を停めて校舎へと歩き出していた。


 途中、キャーッ! という、女子生徒の悲鳴が聞こえた。何かな、と思ってそっちの方向を見ると、一人の男子生徒が一人の女子生徒の前に対峙していた。


 見るともなく見ていると、着崩したブレザーの上に如何にもモテ男でござい、というようなブラウンの頭を乗せた男子生徒が、気になっちゃって、とか、もしよかったら、というような言葉を辿々しく呟いていた。


 あのブラウンの頭に見覚えがあった。三年生のバスケ部のキャプテンで、氏素性は知らないがとにかくモテる、という噂があった人だった。名前を知らなかったので、モテ次、と僕はとりあえず彼に即興の名前をつけて観察することにした。


「あのさ、もしよかったらなんだけど――俺で妥協する気、ない?」


 なんだか、モテ次は妙に低姿勢な告白をした。このルックスと雰囲気でこの低姿勢である。相手はさぞやキュンと来たことだろう。それが証拠に、モテ次の取り巻きらしい女子生徒たちはキャーッと再び露出狂に遭遇したときのような悲鳴を上げた。


 相手は今どんな顔をしているんだろうな――と思って告白相手の女子生徒の方を見た僕の目に、豪奢な天然の金髪頭と、不思議な色を湛える瞳が見えた。


 瞬間、僕は、あぁ、とこの告白劇の結末をなんとなく予想してしまった。




 いいぞ、モテ次。僕は少し意地悪な気分でほくそ笑んだ。


 その低姿勢、そしてこの生徒に立ち向かった度胸は褒めてやる。


 ドンといっちょ、景気よくフラれてこい。




「妥協する気? ないです。馬鹿にしないでくれますか?」




 キッパリ――というより、もの凄く引きつった声だった。


 うぇ? とモテ次は整った顔を盛大にひん曲げた。


 その表情を汚物であるかのように睥睨して、相手の女子生徒は更に重ねた。


「そもそも先輩、先週の木曜日の十八時頃、私じゃない女子生徒と西広宮公園のベンチで仲良く座ってましたよね?」


 うえっ? と再び、モテ次は妙な声を上げた。そうだったか、と一瞬、自分の過去を思い出そうとしたらしいモテ次がモテ男としての態勢を立て直そうとするより先に、女子生徒はチャキチャキと続けた。


「あの時隣りにいた生徒って、ブラバン部でクラリネット吹いてる三年の横田先輩ですよね? 先輩が今お付き合いしてる生徒って同じバスケ部の成島先輩だって聞いたことがあるんですけど――別れたんですか? それでまた別の女子と付き合い始めたんですか? この一週間のうちに?」


 モテ次の顔がだんだん青くなってきているように見えるのは、見間違いではなかっただろう。もう三人いる取り巻きはモテ次を信じられないような視線で見つめ、モテ次はその視線に気圧されて面白いぐらいに動揺した。


「しかもその時、横田先輩と先輩、仲良くチューしてましたよね? 幸せそうに、何度も何度も。私、見たくもなかったけど見てましたよ」


 ぎょっ――!? と、モテ次が目をひん剥いた。


 そのさまを氷点下の視線で睨みつけ、女子生徒はブレザーを着ていてもひと目で豊満と知れる胸を少しだけ張ったように見えた。


「あんなチューを公衆の面前で、何回も、恥知らずに。あんな下賤な行為、恋人でもない人とできるとは私には思えません。ぶっちゃけこれ、浮気してたんですよね? 横田先輩と」


 モテ次を見つめる取り巻きの視線は徐々に軽蔑のそれへと変わってゆく。あ、いや……というか細い声が聞こえ、今や情熱の告白会場は、多数の侮蔑の視線がモテ次をレイプする断罪の修羅地獄と化していた。


「それだけじゃありませんよね? 先輩。イヤホンを片っぽずつ分けて音楽聴いたり、サンドウィッチ分け合ったり、肩に手を回して笑いあったり……正直、見ていて吐き気がしました。本当に、肉欲丸出しで気持ち悪い――」


 ギリッ、と、音がしそうな程の視線で、女子生徒はモテ次を睨んだ。


「そんな恥も外聞も貞操観念も失った人間と、わざわざ妥協なんかしてやる人がいますか? 何人いるか知れない中の何番目かになってくれ、って言われて、喜ぶ人がいますか? あぁ――『いる』んでしょうね、先輩の周囲には、たくさん」


 その一言は、軽蔑の視線とともに取り巻きたちに向けられた。当然、取り巻きたちもその視線に気圧されたように見えた。


 ふぅ、と女子生徒は瞬時視線を下に落とし、息を吸い、決然と言った。


「でも私は違います。少なくとも私はそこまで堕ちてはいません。この告白自体が私への侮辱だと考えます。汚物のような浮気者に靡く可能性があると思われただけでも非常に不愉快です。馬鹿にしないでください……これはそういう意味の言葉です。わかったら二度と関わってこないで――それと」


 女子生徒はそれだけ一息に言い、モテ次の横を通り過ぎる瞬間、もの凄く強烈な一瞥をくれた。




「その頭、次見かけた時に黒くなかったら校則違反で部活動を無期限出席停止にするから」




 その視線に硬直したモテ次が振り向く前に、女子生徒は如何にも彼女らしいしっかりとした足取りで校舎に消えていった。


 終わった、モテ次の高校生活が――。


 モテ男の化けの皮を剥がされ、最低の浮気野郎だと発覚して人間関係が終わった上、あのブラウンの髪まで奪われたら、モテ次にはもう何も残るまい。


 順風満帆だった人間の人生が終わってゆく瞬間を見るのはそれなりに爽快だった。僕がまるで草原の薫風を吸ったときのような清々しい気分でいた時、ヒュウ、と冴えない口笛が聞こえた。


「おー、相変わらず容赦ないねぇ。今のアレだろ、『鉄血の令嬢』だよな?」

「ああ、完璧な『鉄血の令嬢』だったな」


 おはよ、と、後ろから意味深な含み笑いと共にやってきたのは、僕の無二の友人であり、幼馴染である谷藤春樹だった。

 春樹はいまだ衆人環視の只中に固まっているモテ次を見て、さも面白いものが見られた、というように浅黒い顔でニヤニヤ笑った。


「これで六人目、だな。今回のはかなり強烈だったんじゃねぇ?」

「お前、『鉄血の令嬢フロイライン』にフラれた人数数えてんの?」

「聞いたり見たりした人数だけな」

「暇な趣味持ってんな」

「あんなもん自然と目につくもんだろ。特に今のはフラれる可能性なんて考えてなかったっぽいしな。それだけに強烈。愉快痛快」

「それにしても、それで六人か。見てないときなら十ぐらい行ってんな、多分」

「すげぇよな。相手バスケ部のキャプテンだぜ。俺が女子だったらメシ行くぐらいはしたかもしんねぇのにな」


 事実、それはその通りだった。モテ次は人間としてクズだったけれど、何しろ顔は整っているし、背も高いし、何よりそれなりに強豪であるバスケ部のキャプテンという肩書がある。付き合うまではしなくとも、いざというときのために繋がっておけば何かと便利だったかもしれない。


 けれど、相変わらず相手の方――『鉄血の令嬢』こと、ユーディトさんには、そういう下心ある妥協姿勢は一切なかったらしい。


 その時の春樹はなぜだかもの凄く機嫌が良かった。僕は親でも死んだような表情で、春樹は何故かもの凄く楽しそうにヘラヘラ笑いながら歩き、颯爽とした弁舌と足取りで校舎に消えていった金髪の後ろ姿を瞼の裏に思い出していた。

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