3

 それは奇妙な光景であった。

 魔女の小屋の外、畑の横の開けた場所に、大人が一跨ぎできるかどうかという大きさの正方形の布が敷かれている。

 茜色、藍色、黄土色、濃鼠色、様々な塗料で複雑に絡み合った曲線と、文字のようなものがびっしりと描かれており、なにがしかの陣術を行おうとしているようである。


 夜――。

 いつしか厚く立ち込めた雲は月明かりも星影も包み隠し、真っ暗な夜空は、森の木々との境も曖昧にしている。

  

 怪奇な紋様の描かれた布の上には、分厚い鉄板と足つきの金網が置かれている。

 金網の真下には、どろりとした薄黄色の粘液が一塊と、それを囲むように木炭が組まれていた。

 魔女が、紫色の手套で紙縒りを摘まみ、中指と親指を強く擦ると、小さな火花と共に、紙縒りの先端が燃えた。

 それを粘液に近づけると、音もなく炎が立った。


 やがて粘液が燃え尽きるころには、炭が熾き、夜の底に、柔らかな赤色の光が点った。

 炭が熱する金網の上に、水を張った鍋が置かれた。


 鍋には予め刻んでおいたショウガとカブ、タマネギを放り、火を通す。

 それと同時に、厚めにスライスした鴨肉を串に通し、炭火で炙る。

 脂が滴りだしたら、湯の沸いた鍋に加え、アクが出る度丁寧に掬う。

 肉の脂と、野菜の香味が溶けて混じり、湯気となって立ち上っていく。


 凍てつくような夜の森の空気が、優しく解かされていくようであった。


「いや寒いですって」


 全身をもこもこに着ぶくれさせた上に、毛糸のニットとマフラーで顔を殆ど覆い隠したハナが、むくれた顔で(見えないが)文句を垂れた。


「私だって寒い。中で待っていても構わんと言っただろうが」

 シロトはといえば、いつもの紫色のローブに厚手の外套を羽織っただけで、その代わり中にこれでもかと仕込んだ懐炉で寒さを凌いでいるようである。

「だって、気になるんですもん」

 ハナが視線を送った先には、遺灰が収められた桐の箱が、蓋を開けられた状態で置かれている。その下には、やはり何やらよく分からない紋様が描かれた布が敷かれていた。


「これはどういう魔法陣なんですか?」

「説明が難しいが、まあ、招きの陣だな」

「誰か呼ぶんです?」

「この小屋の敷地には、あやかしの類を寄せ付けない結界が張られている。この陣は、その条件を緩和すること、この陣の上に置かれたものの存在を外のものが察知しやすくなること、他にもいくつかの効果を同時に発動できるように計算して作ってある」

「はあ。だからいつにも増してややこしいんですね。あ、ていうことは、今から妖怪さんの誰かがここまで来ることになってるわけですか」

「さあな。私が取り決めたことでもない。向こうが約束を忘れていることもあるだろう。なにも起きなければ、そのまま撤収するさ」

「ふうん。あ、そろそろいいんじゃないですかね」


 呼吸するだけで鼻が痛くなりそうな空気を、鍋の湯気がいくらか和らげてくれていた。野菜と鴨肉の香りがそこに溶け、腹の底にまで届くようであった。

 金網ごと鍋の位置をずらして火から除け、それぞれ用意した椀に、具材をよそろうとした、その時だった。


 きん、と。

 硬質な音が小さく響いた。


「来たようだ」


 それきり、音は止んだ。

 ただ、赤い炎だけが点る夜の底に、いつの間にか白い何かが凝っていた。

 最初はほんの僅か、焚火の熱で空気が揺らいだようにしか見えなかった。

 もとより、何も見通すことなどできない闇夜である。

 それでも、炎の向こう側に、がいる。


 白いのである。

 だが、光を発しているわけではない。

 暗闇の中で、そこだけが色を抜いたように白い。

 光を、熱を、吸い取ってしまうような白だ。

 それが、凝っている。

 白い闇、であった。


 ざわり、ざわり、と、音とも取れぬ音を立てながら、ゆっくりと、その白い闇は大きくなっているようであった。

 そして、不意に、かたりと音がして、桐の箱が揺れた。


 ざわり、と。白い闇が揺らぐ。

 ことり、と。桐の箱が震える。

 

「あの、お師匠。なんか怖いんですけど」

「大丈夫だ。害はない」


 ざわり。ことり。

 ざわり。ことり。

 ざわり。ことり。


 互いに呼応するかのように、両者の動きが大きくなっていく。

 そして――。


 灰が。

 桐の箱の中から、一筋の灰が、音もなく、煙のように伸びあがった。


 ざわ――。

 朧げであった白い闇が、徐々になにかの形を為していく。

 宙に浮かび上がった灰が、流れ動き、集まって、また形を為していく。


 それは、女の姿であった。

 それは、男の姿であった。

 

 白い闇でできた女と、灰が集まってできた男。

 二人は暗闇の中で対峙し、見つめ合い、そして、触れあった。


「あ」


 その瞬間。

 ハナの脳裏に、決して自分のものではない、在りし日の記憶の幻影が流れ込んできた。

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