4
お師匠の遺体は、森に埋葬した。
異変を感じ取ったかつての姉弟子――ノウェが駆け付けてきたときには、葬儀も、ログハウスの修繕も、全てが終わっていた。
森は静かで、賑わしく、いつも通りだった。
ノウェは話を聞き、一晩だけ泊まっていき、再び森を出た。
私を誘ったりはしなかった。
それから、私はあらん限りの魔女の資料を繙き、モナドに対する策を講じた。
奴と直接対峙した、十七代――いや、十八代前の魔女の記録が散逸していることは大きな痛手だ。
だが、その前後の魔女による記録には、以前の私には解読できなかったモナドの記述が残されていた。
そしてそれは、お師匠が残した記録を読むことで解決した。
お師匠が最期に私に託した暗号キーは、数珠繋ぎとなっていたのだ。
それによると、モナドとマレビトとは本来無関係の存在なのだという。
そこに蔓延る多種多様な妖異たちにより、複雑な魔力が満ちた森の中では、偶発的に時と
理論上それだけで異界への扉など開くはずもないので、それ以外にも様々な要因はあるのだろうが、とにかくマレビトによる界渡りというのは、純然たる自然現象だ。
およそ七百年前、モナドは偶然にもそれに巻き込まれたのだろう。
そして、『窓を持たぬもの』――この世界に干渉する術を持たないはずの怪異は、同じくこの世界にとっての異物でありながら、確固たる肉体を持つマレビトに憑依する術を得た。
数年前、私の前から姿を消したお師匠は、モナドの眷属となった森の妖異たちが主の再来を予見し、準備を進めていることを突き止めた。
彼らは、マレビトを意図的に召喚する術を身に着けていたのだ。
お師匠はその儀式の魔術に干渉し、それを巻き戻す術を組み込んだ。
術は発動した。
だが、足りなかった。
効果の発生は間に合わず、モナドはマレビトの少女に憑依してしまう。
自身を犠牲にする呪具によって発動していた魔術を補い、マレビトの召喚をなかったことにしたものの、当のモナドに対し、告げられてしまった。
猶予は七年だと。
なぜ七年なのかは分からない。モナドにとっても、こちらの世界に顕現するのはリスクの大きい行為なのだろうから、その程度のインターバルが最低限必要ということなのかもしれない。
ならば、それまでに。
私はなんとしても、モナドを退ける方法を見つけ出さなければならない。
それから、六年後。
再び森に異変が起こり、マレビトが現れた。
黒い髪の少女。六年越しに見るその姿は、年月相応に成長していた。
けれど、見間違えるはずがない。
私の師匠を殺した異端の妖物、その依り代となった少女だった。
馬鹿な。
まだ一年早い。
森でそれを発見した私は、焦った。
準備は進めている。策も講じている。だが、今この場でできることなど何もない。
できることがあるとすれば、一つだけ。
モナドの意識が現れる前に、この少女を殺す。
それをやったところで、また問題の先延ばしにしかならない。
けど、それでも――。
私が採取用のナイフを取り出し、震える手で少女の首筋に充てた、その時だった。
「う」
少女の瞼が、動いた。
かえって刺激を与えてしまったのだ。
「んんぅ。ふわぁ~あ」
しかし。
「あれ、ここどこ? え、森? なんで? え? え?」
目を覚ました少女に、モナドは憑いていなかったのだ。
そして、今――。
ぎゅぎゅ。
じじじ。
ぞぞぞぞぞぞ。
ぎゃらぎゃらぎゃら。
森が、ざわめいていた。
住み慣れた魔女のログハウス。その庭先に描かれた魔法陣の上で、マレビトの少女――ハナは寝かされていた。
拓かれた敷地を取り囲む森の中から、異形の瞳が無数にこちらを見つめている。
それは、モナドを信奉する森の妖物たちだ。
主を再びこの世に顕現させんと、器であり、贄であるハナの体を狙っている。
数えることなど到底できない、大小無数の怪異の群が、ログハウスの周囲を取り囲んでいた。
「ヨコセ」「ヨコセ」「ソノニエヲ」「ヨコセ」「コチラニ」「ワガキミノ」「マジョ」「ジャマヲ」「オノレ」「ヨコセ」「ニエヲ」「ワガキミニ」「ニエヲヨコセ」
歴代の魔女たちが修めた、魔術、紋章術、その他諸々の技術を私が組み合わせて作った独自の結界は、そんじょそこらの怪異には破られない。
「アケヨ」「ココヲアケヨ」「マジョメ」「マジョメ」「アケヨ」「ヨコセ」「ソノニエヲ」「ヨコセ」「ヨコセ」「ヨコセ」「ムダナコト」「ムダナコトヨ」「ナア、マジョ」「マジョヨ」
それでも、聞いているだけで気が狂いそうになる呪詛の合唱が、四方八方から押し寄せてくる。
その中心で眠るハナは、一向に目を覚ます気配はない。
身じろぎ一つ、寝息の一つも立てずに、滾々と眠り続けている。
なぜ、一度憑依されたはずのハナからモナドが抜け落ちていたのかは分からない。ましてや、妖物どもに召喚されたわけでもなく、あくまで自然発生のマレビトとして、再びハナがこの世界に訪れた理由など。
『あなたが助けてくれたんですね! ありがとうございます!』
仮説だけなら立てられないこともない。
例えば、お師匠の使った『巻き戻し』の魔術の効果が、モナドが憑く前までという意味で効果を発揮したのかも、だとか。
界渡りをしたマレビトが元の世界に帰った話は残っていないが、一度この世界に来たことでハナとこの世界に縁が結ばれ、通常の確率を遥かに超えて界渡りが起きやすくなっていたのかも、だとか。
けれど、そんな仮説になんの意味があるだろう。
『お願いします! 私をここに置いてください!』
なあ、ハナ。
あれからもう一年経つんだな。
お前は突然現れて、私の暮らしにずかずかと踏みこんできた。
『雑用でもなんでもしますよ! あと用心棒も! こう見えて私鍛えてますので! ほら! ほら! あ。……あ。あの、違うんです。わざとじゃないんです。違うんですってば!』
お前は本当に煩い奴だった。
忙しなく、落ち着きがなく、喧しい。
それに付き合わされる私は、初めの一日で一年分の声を出した。
喋りすぎで腹筋を痛めたことなんか生まれて初めてだった。
『うわあ。このワンピース、本当にもらっていいんですか? すごい。可愛い! ありがとうございます!』
喜怒哀楽が私の十倍くらい極端で、ころころと表情が変わる。
次に何をするのか予想ができなくて、常に目が離せない。
本当は、助けるつもりなんてなかった。
それどころか、殺すつもりだった。
次に考えたのは、研究材料にすることだった。
モナドが抜け落ちているのならば好都合。今の内にその体を調べ上げ、罠を仕込み、モナドを封じてしまえばよい。
そのつもりで、家に置いた。
それなのに。
『傷薬ってどこの棚に置いてましたっけ?』
『えええ、ヘビ飼ってるんですか? 爬虫類好きなんです?』
『このお茶、美味しいですねえ。いい香り。ねえ――』
それなのに、気づけばお前は、いつでも私の後ろにいて――。
『ねえ、お師匠』
いつしかお前にそう呼ばれることが、当たり前になっていった。
「ム・ム・ム・ダ・ナ・コト。森ノ魔女ヨ」
結界の外側に、二本足で立つ鼠がいた。
そんな体で無理に人の言葉を喋るものだから、ひどく不明瞭で聞き取りづらい。
「我ガ・キミ・ハ。窓ヲ持タヌモノ。コノ・ヨウナ結界。イ・ミモナイ」
染み出すように。
這い寄るように。
彼らの体の奥、隙間から、黒々とした靄が湧き出てきた。
それはなんなく結界をすり抜け、私たちに迫ってくる。
「サ・ア。我ガキミ。贄ハソコニ。聖ナル晩餐ヲ始メマショウ」
そう。
そんじょそこらの妖物には効かずとも、モナド本体には意味がない。
七年前と同じように、この世界のどこに隠し、どう匿おうと、その全てを無視して、モナドはハナの体を手に入れてしまう。
そうなれば、今度こそモナドは完全に顕現する。前回のときと違い、一年も前に起こった界渡りを巻き戻すことなどどんな魔術にも不可能だ。
だけど――。
ず。
ずず。
ずぞぞぞぞ。
おおおおおおおううう。
なあ、ハナ。
お前の前で、私はいつだって必死だったよ。
虚勢を張って、威厳を取り繕って、精一杯の強がりで暮らしてた。
今なら分かる。
ねえ、お師匠。
あなたも、同じだったんでしょう?
きっと、今の私と、同じ気持ちだったんでしょう?
だから――。
黒靄が膨れ上がる。
渦を巻く。
吸い込まれるように、ハナの体に収束していく。
そして。
それが、すり抜けた。
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