3

「モナド……!」


 吐き捨てるような言葉が、お師匠の口から発される。

 それを一瞥した少女――に取りついた森の主・モナドは、仮面のように不自然な笑みを浮かべたまま、ログハウスの中を見回した。


「いやはや。この森に来るのも随分久しぶりだ。相変わらず空気が美味い。ああ、しかし、なんだな。少々が足りないな」


 ぼう。


 その小さな右手に、真っ赤な炎が燃え盛った。


「よせ!」

 お師匠が懐から小さなアンプルを取り出し、少女に向かって投げつけた。

 中身が零れ、今にも爆発寸前だった炎の塊が消える。

 薄水色をしたその液体は、恐らく『ユニコーンの雫』だ。処女に対して無敵の加護を発揮する秘薬。


 そうか。

 これで、一度モナドを切り離して――。


 じゅう。


 灰色の煙が立ち上り、鼻の曲がるような悪臭が広がった。


「ああ。思い出した。お前たち、魔女の末裔か」


 少女の口から、目から、耳から、鼻から、黒々とした靄が噴き出ていた。

 それは実体をなし、触手となってお師匠の体に絡みつき、縛り上げた。


「お師匠!」

「さが――」


 それが、投げ捨てられる。

 ログハウスの壁に激突させられたお師匠の体は、そのまま頽れ、動かなくなった。


「お師匠。お師匠!」

 駆け寄ろうとした私の足が縺れ、転ぶ。その前に、小さな少女が立ち塞がる。


はいつもそうだ」


 その口には、やはり張り付けられたような笑みが浮かべられている。

 ぽたぽたと、闇色の雫が滴り落ちていた。


「大した力もないくせに、他人の知恵と知識を賢しらに振りかざし、自分たちが大層な人間だと思い込んでいる。くだらん魑魅魍魎の呪いを祓えば救い主か? ちんけな世界の秘密を暴けば賢者か? ああ、昔、お前たちによく似た女がいたよ。私の前で、四肢を焼かれて死んでいった哀れな女が」


 それは、恐らく、十七代前の魔女のことだ。

『幽世のモナド』と共に、魔女の歴史からも姿を消した謎の人物。

 そうか。彼女は、お師匠と同じように、森の秘密に迫り、モナドに挑み、そして――。


「人の世に交わることのできぬ半端者。人と分かり合えぬ異端者。それを誤魔化すための大層な隠れ蓑が、魔女などという肩書の正体だ。そうだろうよ、人の知らぬことを自分は知っているんだと自慢していれば、人の無知を一々あげつらってほくそ笑んでいれば、それで満足だったんだろう、ええ? それを一皮剝いてやれば、どうだ。本物の力あるものの前ではなにもできず、這い蹲って震えるだけの、弱く、哀れで、醜い女だ」

「黙れ!!」


 私の口から、悲鳴のような叫びが迸った。

 自分はこんな声が出せたのかと、心の片隅で驚いてしまうような。


「なんだ、小さきものよ」

「黙れ。黙れ。黙れ。お前に、お前なんかに、魔女わたしたちの何がわかる!?」

 

 許せなかった。

 何が許せないのかも分からないまま、赤々とした怒りが喉を焼いた。

 それでも、それは目の前の怪異の王に、一切の揺らぎを与えることはなかった。


「わからんさ。わからずとも良い。お前たちと一緒にするなよ。私は、自分の知らんことをいちいち無節操に知りたがったりはせん。そんなものは――」


 再び、少女の体から闇の御手が噴き出す。それが、めらめらと燃える炎を纏っている。

 肌が焼けた。


「焦がし尽くすだけだ」


 ああ。

 燃える。

 焼ける。

 ログハウスが。

 私の家が。

 私たちの家が。

 私たちの、森が。

 燃えて――。


「あ?」


 ――消えた。

 熱が消え、黒炭だけがその痕に残る。

 何が起きたのか分からぬように、モナドが少女の体を撫でまわす。

「なんだこれは。ひ、引っ張られる」


 胸を掻きむしるモナドの肩に、紫色の手袋に包まれた手が伸びた。


「私の弟子に、触るんじゃない」


 お師匠。

 ローブの袖が裂け、血に濡れた肌が露出している。

 皺に塗れた、灰色の肌。

 巻きつけられた、見たこともない革製の呪具。

 それが、少女の体を揺るがせている。


 なんだ、あれは?


「モナド。お前は窓を持たぬもの。何人たりともお前自身に干渉することは出来ない。だが、お前がこの世に定着しきる前なら、まだ方法はあるのさ」

「何をした」

「私はこの数年間、お前を信奉する森の妖異の元に紛れていたのだ。お前を呼び寄せる儀式の魔術。それを、反転させた」

「その代償がその体か。馬鹿なことだ」

「ああ、そうさ。馬鹿をやった。だが、これで……がはっ」


 お師匠の体が傾き、少女の体が、闇に包まれていく。


「時間稼ぎにしかならんぞ」

「時間稼ぎを、したかったんだ」

「いじまシイなあ、魔女よ。イイだろう。デハ、七年ノ猶予ヲクレテヤル」

「充分だ」


 再び少女の声が軋みだし、お師匠の声がか細くなっていった。

 全身を光を通さない闇に包まれた少女の体は、そのまま消えて行った。

 残されたのは、焼け焦げた床だけ。

 そこに、お師匠の体が倒れ込んだ。


 駆け寄り、助け起こす。

 その体が、異様なほどに軽い。

 まるで、中身がすかすかの人形を抱いているようだった。


「お師匠。しっかりしてください。お師匠!」

「……騒ぐな。私のことは、いい」

「いいって何ですか! なんの薬を持ってくればいいですか。教えてください。お師匠!」

「薬なんぞ、効くものか。私は、森に還る」

「でも、でも。私、ちゃんと、ちゃんと勉強して。アンダインの霊酒だって、ケルピーの涙だって、ちゃんと、作れるようになって……」


 あんなに難しいレシピだって。

 あんなに複雑な調合だって。

 お師匠が帰ってきたら、ちゃんと全部見てもらおうって。


「分かってる。お前は、誰より魔女らしい、魔女だ。私の、自慢の、弟子だ」

「やだ。いやです、お師匠!」

「いいか。私の研究資料の、暗号キーを教える。それを使って、七年後に備えろ」


 細く、節くれだった指が、私の手を握りしめた。

 冷たい手。

 暖かい手。

 私を救ってくれた手。

 私を育ててくれた手。

 私を導いてくれた手が。



「後は、頼んだ。魔女……シロト」



 私の名を呼ぶ、優しい声が。

 最後の力を失い、絶えた。

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