5
ずず。
ずおう。
おおおおおおう。
ハナの周りを漂う黒靄は、一向にハナの体に触れることができずにいた。
「ナ・ンダ。ナゼ、憑依デキナイ。我ガキミ!」
耳障りな眷属の悲鳴に、黒靄がざわめく。
渦を巻き、ハナの体に襲いかかる。
しかし、結果は変わらない。
「知らないのか。この森ではな、眠った人間が目を覚まさないだなんてことは、ざらにあるんだ」
「馬鹿ナ! 眠ッテイルダケトイウナラ、何故憑依ガデキナイ!」
ず。
ぞぞ。
ぞぞぞぞぞぞ。
「『幽世のモナド』。お前はこの世界の空間を渡ることにかけては無敵だ。物理的、魔術的、どんな障壁もお前の本質を捉えることはできない。そもそも、この世に存在していないのだからな。しかし、そんなお前にも決して冒せないものがある。それが、『時間』だ」
私の声が、聞こえているのか、いないのか。
黒靄が暴れまわり、周囲の眷属が喚き立つ。
もしもモナドがこの世界で融通無碍に存在できるのであれば、お師匠に送り返されたあの時、七年後などという期間が必要なわけはなかった。
モナドの中に時間の流れは存在しており、それは奴を律する数少ない理なのだ。
ハナが寝かされている魔法陣は、名を『クロックラビットの寝台』という。
「適切な処置を施し、この陣の上に置かれたものは、時間の流れが止まる。今、ハナの体は、この世界に在りながら、この世界の時間から切り離されている」
時を操る魔物と、魔物の術を模倣する陣術。
魔物の知識に秀でた魔女と、古今の紋章学を極めた魔女の研究を組み合わせたものだ。
当然ながら、この陣の外に出れば効果は消える。
ならば、モナドの次の手は、外の眷属たちに結界を破らせること。
黒い靄が拡散し、再び森の闇の中に吸い込まれていく。
「オノレ」「オノレ」「アケヨ」「ココヲアケヨ」「マジョメ」「アケヨ」「ココヲ」
妖物どものざわめきが増していく。
「アアアアア」「ケケケケケ」「ロロロロロロ」「マアアアアア」「ジョオオオオオ」
影が膨らみ、波打ち、ぎらぎらと明滅する。
黄金色、翠色、銅色の眼。帯電する角。飛沫を散らす唾液。
禍々しい気が膨れ上がっていく。
「ナ・ナンダ。オカシ・イ。ナニ・カ」
鼠を模った眷属のみが、その異変に気付いたらしい。
だが、もう手遅れだ。
げぎっ。
ぎららら。
ばおおおう。
咆哮が止まない。
それどころか、その猛りが増していく。
当然だろう。
魔女の本分。薬学の神秘のなせる
魔物を昂らせ、奮わせ、狂わせる秘薬が、敷地を囲む木々のそこかしこに摺りこまれているのだから。
そして、ついに――。
ぼん。
魔物の一体が、その罠を踏み抜いた。
黄色い炎が爆ぜ、黒い飛沫が散る。
薬種の中でも、とりわけ火薬の研究に心血を注いだ魔女の研究成果。そして、機械工学を専門とした魔女の研究との併せ技――対魔地雷。
それを皮切りに、魔物たちが互いを攻撃し始めた。
「ナンジャ」「キサマ」「オノレ」「キサマガ」「オノレ」「ヤメヨ」「ナニヲスル」「オノレ」「ヤメヨ」「クロウテヤル」
牙を剥き、爪を立て、炎を散らし、酸を飛ばす。
狂気が飛び火していく。
「ナ・ナニヲシテ・イル。コレ。キサマラ。ヤメヨ」
急に同士討ちを始めた魔物たちの中で、鼠の怪異が狼狽えていた。
これは、呪術だ。
魔女の歴史が産み落とした異端児。最凶にして最狂の逸脱者。
呪術師ノウェの発明品――『サタノファニの宴』。
効果自体は、対象を凶暴化させ、近くにいるものを見境なく攻撃させるだけのものだが、須らく呪術とは、術者と被術者で等しいリスクを負う。
これだけ大量の魔物を一斉に呪おうと思ったら、その代償は到底人間一人が負えるものではない。
しかし、『サタノファニの宴』はその矛盾をすり抜ける。最初に呪いを発動した者が術者となり、次の対象を攻撃することで呪いを移す。呪いを移されたものは無意識に新たな術者となり、次の犠牲者へ呪いを移す。連鎖する呪いは、際限なく伝播していく。
一度発動させてしまえば、理論上、街一つ、国一つを壊滅させうる禁呪だ。この術の前では、敵の数などなんの問題にもならない。
『お師匠の敵討ちでしょ。私の分までお願い。私はもう、魔女じゃないから』
そう言って、ノウェは私にこの呪術の核を託した。
「オノレ・マジョ! オノレ! オノ――ア。アア。ナニヲ。ワガキミ・ナ・ニヲナサイマス。アレ。ア。ヤメ――」
ぐじゅり。
ざわめく闇の一点。
そこに向かって、殺し合いを演じていた魔物たちが吸い込まれた。
潰され。
捏ねられ。
混ぜ合わされて。
魔術が発動する。
陣の上のハナには干渉できない。
手下たちは結界を突破できない。
ならば、モナドの次の手は、これだ。
「お。おお。「お・お・お。おお「お」「「おお」お」」」お」
それは、界渡りを強制的に発動する秘術だ。
ハナの体が使えないのなら、新たなマレビトを召喚し、代わりの器とする。
無数の魔物たちを生贄に魔力が練られ、時と間の理を超える。
現れたものは、果たして一匹のヒキガエルであった。
「お。ご。げ。ぐえ。げ。げ」
失敗?
いや、これが限界なのだ。
この世の摂理を捻じ曲げるほどの魔術が、そうそう容易に使えるはずはない。ハナがこの世界に再訪し、まだ一年。そして、今回モナドが顕れるため、さらに界渡りは発動している。
魔術は万能ではない。限られた
それでも、確かにこの世界の『窓』を得たモナドが、その本来の力を顕し始める。
宙に浮いたヒキガエルの体が闇色に塗り潰され、そこから触手が生えてくる。
焦げ臭い匂いが風に乗る。
「ミゴトダ、マジョヨ」
闇の触手とヒキガエルの喉を使い、無理やり人の言葉を発する怪異の王に、私は一歩踏み出して近づいた。
「久しぶりだな、モナド」
ばりん。
そんな音を立てて、結界が破られた。
闇の触手が溢れかえる。
炎が燃え盛る。
「ヨクネバッタ。ホメテヤロウ」
「くふっ」
私の口から、思わず笑いが漏れた。
「ナニガオカシイ」
「魔女の歴史は古く、長い。かつてお前が喝破したように、私たちはみな、基本的に引き籠りの根暗女だ。だが、二十一代前の魔女は例外中の例外でね。彼女は他国の戦争に加担し、軍師として活躍した。そんな彼女の専門は、当然『兵法』。調べ上げるのに苦労したが、今回お前を出迎えるにあたっては重宝したよ」
「ナラバワカルダロウ。ワタシノカチダ」
結界は破られ、モナドは顕現した。
かつて、歴史を焼失させるほどの暴虐を繰り返した怪異の王。
対してここにいるのは、何の力も持たない女一人。
だが――。
「分からないか? 聞こえないか?」
りぃん。
るるぅぅらら。
甲高い声――歌。
りんりるるらら。
やんぬいばぼう。
らんららるるら。
おーどろぼぼう。
低い音がそれに加わり、合唱が始まる。
そして。
ずぅん。
ずぅん。
ずぅん。
木々が揺れ、大地が揺れ、天が揺れる。
碧い闇が灯り、モナドの触手に絡みつく。
「ナンダ。オマエハ。ナンダ、コノオトハ」
そして、現れる。
ぉぉぉおおおおおん。
天を衝く角。
山そのものが起き上がったかのような巨躯。
「曰く、『借刀殺人』。お前を斃すのに、私が一人で立ち向かう道理があるか? ここは名にし負う魔の森。いつも静かで、賑わしい」
それは、森の主。その二柱。
「お前は森にとっても異物だ。誇るといい。『怠惰の鬼神』が動き出すのは、実に千年ぶりだそうだぞ」
ぼう。ぼう。ぼう。
碧い炎が揺らめく。
モナドの闇の触手がそれを振り払う。
二つの炎がせめぎ合う。
その混沌の闘いに、大きな影が覆い被さる。
それが何なのか、巨大すぎて人の視界では判別できない。
「ヤメヨ。ハナセ。キサマ。ア――」
づむん。
音が絶え、地が震え。
闇の飛沫が、飛散した。
しばらくして。
碧い炎は二三度明滅すると、幾分見晴らしの良くなった森の闇の中へ溶けていった。
巨大な影は地響きと共に横になり、森の大地の中へと溶けていった。
空は白く、冷たい風を吹き下ろす。カラスの鳴き声が、遠くそこに混じった。
静寂を取り戻した森。びちゃびちゃと飛び散った闇色の飛沫の中に、もぞもぞと一匹のヒキガエルが蠢いていた。
片目が潰れ、前足を一本失い、それでも、残りの手足を懸命に動かして、這いずっている。
「ぐ。げ。げお」
すっかり疲れ果てた私は、芝の上にどっかりと座り込み、それを眺めた。
「なあ、モナド。私はお前を“悪”とは思わないよ」
その言葉に反応したのか、ヒキガエルの体から闇が噴き出し、いや、ちょろちょろと零れ、直ぐに霧消した。二柱の森の主により、魔力を根こそぎ奪われたのだ。
七百年前にモナドが顕現したときには、殺戮の限りを尽くして森の命を焦がし、やつの魔力は無尽蔵に膨れ上がった。多くの魔物がその贄となり、森の主といえど迂闊に手を出せぬ状態になった。
私は森の自浄作用を利用したのだ。
私は、シスとホホロの眷属に働きかけ、此度の顕現に際して災禍を防げるよう、警告を促した。恐らく、私の策が失敗し、ハナが依り代として奪われてしまっていれば、彼らは何の躊躇いもなくハナを殺しただろう。
かといって、依り代を得ていないモナドはこの世のどんなものも干渉できない。
私がやらなければならなかったのは、ハナの体を守ることと、モナドの力を削った上で顕現させることだった。
「ぐげ。げ。げ」
闇の触手がなければ、もう人の言葉も発せないのだろう。
懸命にカエルの手足を操るモナドが、苦し気に声を漏らす。
「モナド。お前はお前の在り様を全うしただけだ。お前は森にとって異物だが、それはお前が間違っているだとか、邪悪だとか、そういった意味ではない。ただ、我らと折り合いがつかなかっただけだ」
そう。
私たち魔女が、人の世では暮らしていけぬように。
「ノウェは敵討ちと言っていたがな。まあ、私もそんな風に考えたこともあったが、今はそうは思っていない。お師匠だって、私にそんなことは望むまいよ。魔女とは知識の集積地。過去とは尊重するものであって、憎むものじゃない。だから、私がお前に言うべきことは、一つだけだ」
ヒキガエルの体が、のそり、のそりと、眠り続けるハナの体に近づいていく。
僅かな闇が沸き立つ。
その背後から、私の使い魔が音もなく這い寄って――。
「私の弟子に、触るんじゃない」
ばくん、と。
頭から丸呑みにした。
それで、全てが終わった。
第四話 了
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