第二幕
春野菜のポトフと酒妖の宴
1
日差しが穏やかな昼下がりのことだった。
つい数日前までは、この時間でも刺すような寒風が吹いていたものだったが、今は日が差せば差した分だけ空気が緩み、緑の匂いが濃くなっていく。
ひらり、ひらり、と。白い蝶の羽ばたきが時折は目に入るようにもなった。
花の香が、ほのかに運ばれてくる。
春である。
人々の顔つきも心なしか明るく見えるような町並みを、白いワンピースをふわりと身に纏った少女がてくてくと歩いていた。
手には籠。二本のバゲットがはみ出しているのが見える。
黒髪に挿された花飾りを、柔らかな風が擽っていた――。
「あぁあ~。川の流れのよ~ぅにぃ~」
「あら、ハナちゃん。今日もご機嫌だねえ」
軽やかに鼻唄を歌っていた少女――ハナを、道端から女性の声が呼び止めた。
露店が並ぶ通りには、青果、乾物、雑貨、金物、日用品、生薬、その他なにやら怪しげな
真白い髪の中年の女性の前には、笊に盛られた瑞々しい野菜や果実が並んでいた。
「どうも~。毎度です」
「今日はお野菜買ってかないのかい?」
ハナは眉根を下げて笑みを浮かべ、頬をかいた。
「いやぁ、すみません。ちょうどウチでも春野菜が採れ始めてて」
「おや、残念」
「私が調子に乗って植えすぎちゃったせいで消費するのに手いっぱいなんです。お師匠にも怒られるし」
「そりゃ大変だ。魔女様は小食だものねえ」
「なんだ、それならウチの干し肉はどうだね」
「ちょっと、なんだいアンタ」
「おう、ハナちゃん。この間研いだ包丁どうだったね」
「あ。どうもです~。調子いいですよ~」
いつの間にか近くの店の人間たちも加わって、しばし井戸端会議が繰り広げられた。
「そういえば、ハナちゃんがこっちに来て、もうずいぶん経つわよねえ」
「はい~。おかげさまで元気に過ごしてます」
「すっかり慣れちまって、もう」
「今の魔女様なんて、昔っから町まで来ることもなかったからさあ」
「ああ~。お師匠、出不精ですもんねえ」
魔女が薬屋を構えている森の奥から一番近いのは、此処――雪の国との境町である。
日頃なにかと買い出しに来たり、時には薬の配達をしたりと行き来するだけでなく、客の方から薬屋に出向く時の応対も任されているハナは、すっかり町の住人と顔見知りになっていた。
「どうだね、魔女様の修行の方は」
「え?」
「んん? 弟子入りしているんだろう?」
「あ。ああ~。そう、そうなんですけどねえ」
ハナの視線が泳ぎ始めた。
数日前のやり取りを思い出したのである。
『おい。なんだこの色は』
『え? 言われたとおりに混ぜ混ぜしてたらこの色になりましたけど』
『そんなわけがあるか。雑に混ぜすぎなんだ、私が手本を見せただろう』
『ええ? ホントにあのカタツムリみたいなスピードでやらなきゃいけないんですか?』
『手本通りにやれと言ったはずだ』
『えええ、だってお師匠の動き普段から超のったりしてるじゃないですか。わかんないですよ』
『…………』
『あ。ごめんなさい、お師匠! 怒んないで~!』
溜息と共に、小さな肩を落とす。
「ううん。私、どうやら薬師の才能がないらしくって……」
「あはは。まだ若いのに、なに言ってんだい。これからさ、これから」
「そうですかねえ。体動かすのは得意なんですけど」
「あ、そうだ、魔女様といえば」
「はい?」
「ねえあんたたち。あのこと、魔女様を頼ってみたらどうかね」
「ああ、ううん。そうさなあ」
「??」
なにやら歯切れの悪い住人たちの話を聞いてみると、それは大体こんな話であった。
夜に、通れなくなる道があるのだという。
最初にそれに気づいたものが誰だったのか、もう判然としない。
ただ、何人かの証言を集めて、どうやら各々自分たちが体験したことが夢幻ではなかったのかもしれぬと気づきはしたものの、ではそれがいつからかと言われると、どうにもはっきりしない。
例えば、研ぎ師を生業とする男は、二週間ほど前の晩にそれに遭った。
ようやく降る雨に雪も混じらなくなったかという頃のことで、夜ともなればまだまだ寒い。男はたまさか親戚筋の家に仕事をしに行き、そのまま歓待を受けて夕飯の相伴に預かったものの、次の日の仕事の約束を思い出していそいそと夜道を歩いていたのだ。
吐息は白く煙り、ランタンの明かりも温もりというには心許ない。
逸る足取りに、土産にと持たされた、果実を醸した酒の入った水袋が、ちゃぷりと懐で揺れている。
少しでも近道をしようと、男は大通りから外れた小路に足を踏み入れた。
もう住むものもいなくなって久しい廃屋の敷地を通ると、いくらかは早く自宅へ帰れるのである。
しかしその晩は、そうはならなかった。
小路に足を踏み入れたと思ったら、大通りに体が向いていたのである。
一瞬、頭が混乱した。
後ろを振り返れば、今しがた自分が足を向けていたはずの小路が黒々とした闇を湛えている。少し目を凝らせば、月明りに照らされて目的とする廃屋の屋根が見える。
――酔ったか。
そんなに飲み過ぎた覚えはなかったが、と、男は訝しみながらももう一度足を踏み出した。
そして、やはり気づくと体が反転していた。
もう一度同じことを試し、やはり同じことが起きた。
男とて、いやしくも魔の森と共存して生きる森の国の民の一人である。
こういう常ならぬことが起きたときの対処法ももちろん心得ていた。
――あやうきに近寄らず。
男はそのまま大通りを進み、月明りの明るい道を通って自分の家へと向かった。
そして、何事もなく辿りついた自宅で、すっかり冷え切った体を寝る前に温めようと、土産にもらった酒を取り出そうとしたところで、水袋の中身が半分ほどに減っていることに気づいたのだった。
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