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「俺もよう、一昨日の晩だったんだけどな」
そう言って語ったのは、いつの間にか話に加わっていた、通りがかりの傭兵の男だった。
魔物の討伐依頼の帰りだったのだという。
雪の国で、毎年晩冬の候になると姿を現すという魔物の群を、どうにか片付けてきたところであった。
男の棲家があるのはまた別の町だが、流石に日もとっぷりと暮れた時分に急ぎ帰るほどのことでもない。今日は傭兵組合の屯所にでも泊まろうと、月明りの下で大通りを歩いていた。
そして、件の小路に差し掛かったとき、鼻になにやら香しい薫りを嗅いだのだという。
「ありゃあ酒の匂いだった。間違いない」
こんな時間に誰ぞが酒盛りでもしているのか。
よく見れば、とうに廃屋となった屋敷の方に、ぼんやりと明かりが点っているようだった。
どうしたものか、しばし逡巡した。
この町の住人とは大概顔見知りだ。酒宴でも開いているのなら顔くらい見せてもいい。時間が時間だ、適当な所でお開きにせよと小言の一つくらい言ってもいいだろう。
ただ、そうでなければ?
他所から来た不埒者が一夜の宿に廃屋を使っているというのなら、それはそれで町の治安のために様子を窺っておくというのも自分の業の一つだろう。
もし、そうでもなければ?
森の怪異が、何か良からぬことを為しているのだとしたら?
あるいは、自分がそれを見に行くことで良からぬことが起きたとしたら?
正直な所、体に疲労も溜まっている。
なにかことが起きたとき、平時と同じ動きができるとは思えない。
けれど。しかし。いや。
結局、男は十分注意を払いつつ、様子を確かめるだけ確かめようと、小路へと足を踏み入れた――。
「で、まあ後はみんなと同じさ」
やはり、小路に踏み込んだ途端に、いつの間にか体が反転し、大通りに向かっていたのだという。何度繰り返しても結果は同じ。
これはいよいよ怪異の仕業に違いないと、今朝がた仲間を連れて件の小路に挑んでみれば、なんのことはなく全員が小路に入れたし、周囲に変事もなく、廃屋にはなんの手がかりも残ってはいなかった。
仲間たちからすれば、男が酒にでも酔ってありもしない怪異譚ができあがったのか、本当に森の怪異に化かされたのか判断がつかない。取りあえずその日の夜――つまり昨夜――にもう一度試してみようと、暇なもの幾人かで集まってはみたものの、やはり件の小路にも、廃屋にも、変事は起きなかったのだという。
男はすっかり赤面し、仲間にそれぞれ酒の一杯を奢って償いをしたところ、この井戸端会議の話題が耳に入り、話に加わったとのことだった。
聞いてみれば、他にも幾人か、同じような体験をした人たちがいるらしい。
ただ、件の小路は町の中で特になにか大事な場所に繋がっているわけでもない。何もないということはないが、真夜中にどうしてもそこを通らねばならない用事があるわけでもない。ましてや、それが毎夜毎夜起こるというわけでもないのは先の傭兵の証言の通り。
住民にとって、困っているかと言われれば、そこまでのことでもないと、そんなところなのであった。
強いていうのなら、その変事にあったもので、その時になにがしかの酒類を携行していたものは、みな少しずつそれを持っていかれるのだという。
「おれの場合は薬酒さ。強壮剤と、場合によっちゃ傷の消毒とかにな。仕事で使うもんだから」
とは、やはり傭兵の男の弁。
「どうだろうねえ、ハナちゃん。魔女様に取り次いではもらえないかねえ」
「いや、でもよ。何か問題が起きてるわけでもなし、そんなことで魔女様を頼るのもなあ」
「それはそうだけど、何か大きな災いの前触れだったりしたら」
「酒好きの妖物が通行人からくすね取ってるだけだろう」
「ううん」
困ってしまったのはハナである。
頼るなら頼るではっきり言って貰えればシロトに話を継ぐくらいはできる。
あのお人好しの師匠のことだ、なんだかんだと悪いようにはしないだろう。
ただ、あんまり曖昧な状態で話を持って行っても、じゃあそれを解決したとして、報酬は、と聞かれたら困るのは住民のみんなの方だろう。
誰が依頼主でどこに責任があるのかもよく分からない。
――まあ、取りあえず。
ハナは手に持った籠を抱え直し、しかつめらしく腕を組んで顎に手を当てた。
「ちょっと聞きたいんですけど」
「ハナちゃん?」
「それが起きたのはいつからか、分からないって言ってましたよね?」
「ん? ああ、そうだなあ」
「真冬の時期ってことはなかったですかね?」
「分からんよ。そもそも冬場は真夜中に外に出んし。ただ、冬より前ってことはないだろう」
「その廃屋っていうのは、前は誰が住んでたんです?」
「商売で財をなした流れもんさ。流行り病で逝っちまって、所縁のもんはみな他所の国だから、あそこはほったらかしさ」
「みなさん、体調に変化があったりは?」
「そういう話は聞かんなあ」
「お酒以外になにか失くしてたり……」
「しないね」
「ふむふむ。あとは、ええっと……何を、聞けば……」
「……ハナちゃん。それ、魔女様の真似かい?」
「それっぽくないですか?」
「ちょっとね」
まあ、結局なに聞いたって分かるわけないんですけど、とハナは愛想笑いで誤魔化して、取りあえずその場はお開きとなった。
そもそも買い物の途中であったハナはそのまま用事を済ませ、帰途についた。
町を出て、森の奥へ奥へと。
『私は今日から少し難しい製薬の実験に入る。お前は今日失敗したレシピを練習しておけ』
『町に行くのはいいが、森の採取はやめておけ』
『よく分からないものには近づくなよ』
木々のざわめきに紛れ、魔女の言葉がハナの脳裏に蘇る。
『いいか、くれぐれも――』
誰とすれ違うわけでもない森の小径。
ハナの瞳が思案気に細められ、やがて――。
「ふふん♪」
口元が、笑み作った。
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