ユニコーンの雫と魔女の口づけ

1

 くつくつと、湯が煮えていた。

 緑深い森の中、ぽっかりと開けた空間に、ぽつんと一軒のログハウスが建っている。一体いつ建てられたのか判別ができない程に黒ずみ、苔むしたそのログハウスから少し離れた場所に焚き木が組まれ、火が熾されているのである。

 ぱちぱちと、炭のはぜる音が聞こえる。

 赤々と燃える火の上には大ぶりの鍋がかけられ、たっぷりと入った湯が煮え、蒸気を燻らせている。


「ねえ~。お師匠~。これ、いつまでかかるんですか~?」


 焚火の前には丸太を平らに削っただけの椅子が置かれており、それに座る少女が退屈そうな表情を取り繕いもせずに頬を膨らませていた。

 肩口に切りそろえられた髪は黒のストレート。

 ピンク色の花弁を模した髪飾りで前髪を留めている。

 農奴が着るような白いウールのワンピースは、清潔に洗濯がされていた。


「さて。そろそろだとは思うが」


 少女の視線の先には、紫色の女がいた。

 緩く波打ち長く伸ばされた髪も、少し垂れ気味で物憂げに細められた目に覗く瞳も、アメジストのように淡い紫色をしている。

 全身を包むローブと手袋、そして薄い唇に塗られた口紅は、それよりも深く濃い紫色だった。

 大きなロッキングチェアにゆったりと腰かけた女は、読みかけていた本を閉じると、緩慢な仕草で首の向きを変え、焚火へと目をやった。


 火の勢いは、それほど強くはない。炎の先が触れるか否かという場所に高さを合わされた鍋が静かに湯を熱し、ただゆるゆると蒸気を上らせていく。 

 奇妙なことは、鍋の中には湯以外に何も入ってはおらず、その代わり蒸気が昇るその先に、吊るされているモノがあることだった。

 焚き火の横に、長い二本の木の枝が突き立てられ、その先端に紐が括られ、を吊るしているのである。


 それは、なんとも奇怪な見た目をしていた。

 形としてはジャガイモに近いようで、大きさとしては人の握りこぶし程度だが、その色味が複雑だった。青いような、緑色なような、見る場所によっては黄色っぽかったり茶色っぽかったりするのだが、それが僅かに動くのである。


 静かに立ち上る蒸気が空気に溶け、消えてしまう僅かの合間に、に触れる。

 そうすると、もぞりもぞりと身じろぎをするように、まだら模様が僅かに動く。

 つるりとした表面を撫でるように湯気の端が触れると、緑色であった箇所が僅かに青くなったり、黄色かった場所が僅かに緑がかったりする。注意して見なければ分からないような、微妙な変化だった。


「ハナ。湯の量はどれくらい減った?」

「もうラインにかかるくらいです」

「では、もうじきだろう」

「だからぁ、それがいつかって聞いてるんですよぅ」

「忙しないやつだな。だ。ドリの実の抽出には時間がかかると言っただろう」


 火にかけられた鍋の内側をよく見れば、縁よりも親指の長さ程下に溝が彫られている。

 沸かされた湯が蒸気となって空気に溶け、少しずつ量を減らし、それが今、鍋につけられた印のラインまで届いたということのようだった。


「そら、色の変化が大きくなったぞ」

「ええ? そうですか?」

「そうだ。見たまえ、天辺に汗をかいている」

「え、どこです、お師匠?」


 お師匠、と呼ばれた女は濃い紫色の唇の端をほんの少し持ち上げ、椅子に深く腰掛けたまま言葉だけを寄こす。

 ハナと呼ばれた少女は、それを聞いても違いが分からぬようで、湯気に晒され続ける奇怪な何かを矯めつ眇めつしながら、その両手に鶏卵の殻で作った小さな容器を持ち、そわそわとを待った。


「あ。お? おお?」


 やがて、その奇怪な物体の、それまで青かった部分が緑色に、緑色であった部分が黄色に、黄色であった部分が茶色に、今までよりもはっきりと変わり始めた。

 先ほどまでは往ったり来たりしていた色の変化が明確に方向性を持ち、青かった部分が徐々になくなっていく。次には緑の部分がなくなり、やがて黄色い部分がなくなると、全体が枯れ葉のような茶色に染まり切った。

 そして、そのつるりとした表面に、明らかに蒸気のものではない雫が浮き始めた。


「お師匠!」

「うむ。零さぬように注意しろよ」


 次から次へと生まれていく雫は、やがて自身の重さに耐えきれずに茶色の表面を伝い、降りていく。その奇怪な物体の下端に届いた雫が落ち、その下で待ち構えられていた容器の中に消えた。

 ぽたり。ぽたりと、一粒ずつ垂れていく雫を、少女は慎重に受け止めていく。


「お師匠!」

「なんだ」

「腕が熱いです!」

「そうだろう」

「お師匠!」

「なんだ」

「この姿勢、地味に辛いです!」

「そうだろう」

「あとどのくらいですか!」

「半分ほど溜まればいいだろうよ」

「ひぃ~」



 しばらくして。


「うう。腕がひりひりします……」

「ほら。これでも塗っておけ」


 地面にへたり込み、すっかり赤くなった両腕をさするハナに、紫色の魔女が木の実の殻に入った軟膏を差し出した。

 ハナが薄緑色をしたその粘液をぺたぺたと腕に塗りたくる傍らで、魔女は先ほどハナが集めた雫を見定め、ほんの僅かに唇の端を持ち上げた。

 卵の殻の上三分の一ほどを切り取って作ったその容器に、切り取られた残りの殻と思われる蓋をし、細い紐で結わえていく。


「ねええお師匠。なんでこんな面倒なことしなきゃなんないんですか? 絶対もっと簡単なやり方ありますって」

「ああ。私もそう思う」

「えええ。じゃあ何でですか。魔女の伝統的なやり方ってやつですか?」

「そうだ。だが、お前の想像している意味とは違う」

「はい?」


 魔女はふっと微笑むと、緩慢な仕草でロッキングチェアに腰かけた。

 二、三度体を揺らして位置を整え、紐で封した容器を宙に掲げると、どこからともなく飛来したトンボがそれを受け取り、ログハウスの窓に消えて行った。


「ハナ。伝統とは歴史であり、堆積だ」

「はあ」

「このドリの実の抽出はとにかく面倒くさい。お前がそう感じたように私や私の師匠も同じことを考えた。私たちを含め、記録上、過去七人の魔女がこの抽出の簡略化を研究したが、いずれも失敗した。あれこれと試行錯誤を繰り返したが、結局この方法以上に効率的かつ確実にドリのエキスを取り出す方法を見つけられなかったんだ」

「ふうん」


「伝統に倣うというのは歴史に敬意を払えという意味ではない。先人たちの知恵を上手いこと利用するということだ。実際、この抽出法が確立されたのは十六代前の魔女の時代だが、それ以前にはもっと危険で成功率の低い方法が採られていた」

「へえ」


「魔女の歴史は長く、人の歴史も長い。現代に残っている伝統というものは、須らく時の流れの中で淘汰され、磨かれてきたものだ。例えば、ここより北の雪の国では、国教の戒律により晴れの日には必ず決められた時間太陽を拝まなければならない」

「ほほう」


「これは一般に太陽を崇拝する教えによるものと理解されているが、五代前の魔女がこの手の伝統の研究に熱心でね。雪の国では他の土地と比べ日照時間が少ない。太陽光を十分に浴びた子供とそうでない子供とでは成育に有意な差が認められるらしいことが分かった。この伝統は恐らく、それを体験的に知っていた為政者による国策の一環なのだろう」

「ああ。ビタミンDが足りなくなっちゃうんですよね」

「……ハナ。師匠の講義中に師匠の知らぬ知識を披露するんじゃない」


 常に薄っすらと浮かんでいた魔女の笑みがすっと消え、ハナがきょとんと首を傾げた、その時だった。


 する。

 する。


 会話の途切れた沈黙の時でなければ聞き逃してしまいそうな幽かな音が地面を這い、魔女の足元に一匹のヘビが現れた。

 鎌首をもたげ、ちろちろと赤い舌を覗かせる。

 それを見た魔女の瞳が細められ、溜息が漏らされた。


「お師匠?」

「どうやら、客のようだ」


 ほどなくして、深く暗い森の道から、一人の男が現れた。

 男からすれば、不可思議な空間が不意に現れたように見えたのだろう。二人の女の姿にぎょっとした顔を見せたその男に、ハナは白いワンピースを翻して立ち上がり、その名の通り、花の咲くような笑顔を浮かべた。


「ようこそ。魔女シロトの薬屋へ!」

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