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 男は挨拶もそこそこに、見るからに年季の入ったログハウスへと通された。

 まず目に入るのは、真正面に置かれたカウンターテーブル。その奥に火の消えた暖炉。壁面に打ち付けられた棚と、大量に置かれたボトルや箱。

 一呼吸で感じる、花とも果実ともつかない甘やかな匂い。そこに混じる煤と灰の匂い。微かに獣脂の臭み。


 しゃなりしゃなり、というには少々緩い動きで魔女がカウンターの奥に入り、暖炉の前のソファーにどっかりと腰を下ろす。

 黒髪の少女は手馴れた手つきで壁に立てかけていた組み立て式の椅子を開き、客人の男へと勧めた。


 男は魔女と少女を不安そうな目で交互に見やり、一度目を瞑ってごくりと唾を飲むと、折り目正しく着座した。

 髪は白銀。肌は浅黒く、頬に古傷。丁寧に手入れされた口髭。顔に刻まれた皺は、老いと威厳を同時に表している。複雑な織り目のついたベストと、シルエットの整ったコートは、彼がいずれ身分卑しからぬ紳士であることを証していた。


「ダント・ジオと申します」

 

 芯の通った張りのある声で、男は名乗った。


「ジオというと、西の守り人の一族だな」

「はい」

 間髪入れずに問うた魔女に、男――ダントは短く答えた。

 二人の間で、黒髪の少女――ハナが首を傾げる。


「有名なんですか?」

「さあな。少なくとも私は知ってる。当代のジオ家当主といえば、確か三年程前に発生した首長鬼を退治したのじゃなかったか」

「仰る通りで」


 守り人、というのは、文字通りに森の脅威から人々を守る役目を持った人々のことである。

 森の国の領土のほぼ全ては周辺国から魔の森と呼ばれる深い樹海を拓いた土地であり、その森に棲まう様々なを退け、時には折衝を務めたりもする。

 戦士でもあり、神官のような役目も負っていた。


「守り人の当主が魔女に何の用だ。大概の薬なら自前で用意できるだろう」

「お師匠。お客さんにそんな言い方しちゃダメですよ」

「ハナ。客の前で師匠にダメ出しをするんじゃない」


 二人の女のやりとりに一瞬不安そうに顔を顰めたダントは、しかし、膝についた両手を握りしめ、静かに頭を下げた。


「娘を救って頂きたいのです」

 その言葉を受けて、魔女の目が細められる。

「娘?」

「私の娘です」

「まあ、話を聞こうか」

「眠ったまま、目を覚まさぬのです」

「ほう」


 それは、大体こんな話であった。


 ダントには子供が二人いる。

 兄のダリオは十五歳、妹のネモは十三歳。

 ジオ家の伝統により、守り人の業とお役目は父から長男への一子相伝と定められている。ダリオはジオ家の次期当主として幼い頃より守り人としての教育を受けていたが、ネモは生まれつき体が弱く、あまり屋敷の外には出さぬようにしていた。菓子、楽、読み物など、望むものはできうる限りに与えていたが、それにも限りはある。

 ネモにとっては、ダリオが訓練から帰ってきた際に聞く森の話が、退屈な生活の慰めの一つとなっていたのである。


 巌のように動かない巨大なカメ。

 尾が三本生えたリス。

 花と見紛うほどに美しい姿のカマキリ。

 色鮮やかだが、触れると手が溶ける猛毒をもったキノコ。

 人を食らう大樹。

 春の森の香り。

 秋の森の実り。

 朝の森の静けさ。

 夜の森の恐ろしさ。


『わたくしも森に行きとうございます』

『ダメだ。森はお前には危険すぎる』


 ダントは決してネモを屋敷から出そうとせず、ネモの森への憧れは日に日に膨れて行った。

 そして、ついに――。


『お兄様。わたくしを森へ連れて行ってくださいませ』

『仕方がない。今日だけだぞ』


 ダントが所用で屋敷を開けた日、兄妹はこっそりと屋敷を抜け出し、二人で森へ入ってしまった。

 無論、ダリオとて分別のつかない歳ではない。人に害をなす獣や怪物などと遭遇することが決してないよう、妹を宥めつつ、いつも薬草などの採取を行う森の浅い箇所を適当に散策し、それより奥へは決して行かぬつもりであった。


『お兄様。これはなに?』

『頭痛に効く薬草だ』

『お兄様。誰かの声が聞こえるわ』

『ヒコサルの鳴き声だ。ああやって番のヒメサルと連絡を取っている』

『お兄様――』


 己の目を離れぬようつきっきりで森の案内をしていたが、当然妹からは次から次へと問いが投げかけられる。

 初めはたまのことと丁寧に答えていたダリオだったが――。


『お兄様。さっき青いお花が見えたのですけど』

『この辺りに青い花は咲かない。蝶かなにかと見間違えたのだろう』

『もう一度見たいわ』

『ダメだ。もう帰るぞ』

『でも、もう一度見たいのです』

『……ここで待っている』


 ついに、目を離してしまった。

 なに、ちょっと戻るだけだ。すぐに帰ってくるだろうと高を括っていたのだが、一分待っても三分待っても妹が帰ってこない。

 流石におかしいとダリオが道を引き返して見れば、小径から少し分け入った木の根元に、ネモが倒れ伏していた。

 慌てて駆け寄ったが、ネモは気を失っているようで、こちらがいくら呼びかけ、体を揺すっても反応しない。最悪の想像が頭を過ったが、脈はあるし、息もある。目立った外傷も見受けられず、周辺になにかの痕跡もない。


 ダリオはネモを担ぎ上げ、急いで屋敷へと帰った。

 使用人たちにことの次第を告げ、屋敷が大騒ぎとなったところでダントが帰宅し、それを聞かされたのだという。

 毒か、呪いか、ダントは自分の知りうる限りの対処法を試してみたが、いずれも効果はなかった。

 何をしてもネモは目を覚まそうとせず、今も滾々と眠り続けているのだという。

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