モナドの聖餐とシロトの研究
1
《魔女の弟子》
お師匠が私の前から姿を消して、もう何年経つだろう。
ある日突然いなくなったお師匠の代わりに、私は森のログハウスを訪れる人たちに薬を売っていた。
在庫があるうちはよかったけど、それがなくなりかけてからは、お師匠が残してくれた記録を読みながら森で材料を採取し、自分で薬を作るようになった。
傷薬、風邪薬、火の薬、氷の水、虫除け、獣除け……。
研究熱心な歴代の魔女たちのおかげで、どうにかこうにか売り物程度のものは作れるようになったけど、いつまで経っても自信は身に付かない。
『要領の悪いやつだな。初めに薬包を順に並べて置かないからそうなるんだ』
『阿呆。ただの風邪だ。ウチは薬屋だぞ。この程度で弟子を死なせる魔女がいるか』
『魔女とは知識の集積地。だが、こんなものでもないと生きていることの間が持たん。つまりこれは、弟子に対する歓迎の儀式だ』
『やれやれ、魔女の歴史も長くなったものだ。こんな変わり者の弟子を持った魔女も、私が最初だろうよ』
『よくやったな』
厳しくて、優しくて。
冷たくて、暖かくて。
短い時間の間に、お師匠と交わした会話が、今も記憶の底から泡のように浮かび上がってくる。
浮かんでは、消えて行く。
どこに行ってしまったのか。
今なにをしているのか。
どうして、私に何も言ってくれなかったのか。
そんなことを考えることも、最近はめっきり少なくなってきた。
お師匠が帰ってくる気配は一向になく、馴染みのお客たちの間でも、今代の魔女は代替わりをしたのだと認識されるようになっていった。
私が、魔女。
あの日、お師匠に命を救われて、なんとか頼み込んで弟子扱いを認めてもらって、見様見真似で店の手伝いを始めて……。
気づいたら、こうだ。
自覚なんかあるはずがない。
自信なんてあるはずがない。
それでも、一人ぼっちでこの世界に放り出された私には、このログハウスだけが生きるよすがだ。
もう何度目か分からない一人の冬に備えて、私は集めた薪を割り、棚に干していた。
空が白い。吐息も白い。手斧を握りしめる掌が、じんわりと痛い。
じきに、北の国から下ってきた雲が雪を降らせるだろう。
冬ごもりの支度ももうすぐ終わる。
さて、今年は何代目の魔女の研究記録を読もうか。
歴代の魔女たちは、みなそれぞれに専門分野をもって研究をしていた。
あるものは生物学を。
あるものは天文学を
あるものは医術を。
あるものは呪術を。
あるものは歴史を。
あるものは数学を。
ある代の魔女にとっては薬学がそれで、人と関わるにはそれがもっとも簡易で手っ取り早いということで、それ以降の魔女たちはみな彼女に倣って研究の片手間に薬屋を商い、生活の糧としていたのだ。
私のお師匠の専門は、マレビトについての研究だった。
こことは異なる世界からの旅人。
不可思議な放浪者。
この世界では、公的私的を問わず、様々な文献にその存在が散見される。
お師匠はそこに、何か特別な価値を見出しているようだった。
それが何かは分からない。
けれど、お師匠の残した研究資料を繙いているうちに、その存在はどうやら森の秘密とも結びついているらしいことが分かった。ただ、それより先のことは記録自体が暗号化されていて、まだ解読できていない。
もしかするとお師匠は、その秘密の奥に踏み込んでいったのかもしれない。
マレビトとは何なのか。
なぜこの世界に来るのか。
そんなこと、私が考えたところで分かるはずがない。
私にはなんの力もない。
なんの取柄もない。
ただの、魔女の紛い物なのだから。
がさり、と。
心ここにあらずで薪を割っていた私の意識を、枝葉を揺らす音が現実に引き戻した。
首を巡らせて音のした方を見れば、それはログハウスを囲む森の、更に奥地へと続く道からだった。
「ふう。ようやく、辿り着いたな」
久しぶりに聞く、声だった。
枝葉をかき分けるようにして、紫色のローブに身を包んだ魔女が、森の中から現れた。
その背中に、誰かを背負っている。
「お師、匠……?」
随分、やつれている。
それでも、見間違えるはずがない。忘れるはずがない。私のお師匠だ。
彼女が背負っているのは、小さな子供のようだった。
こちらには、見覚えがない。
遠目には分かりにくいが、お師匠の背の上で、すやすやと眠っているようだった。
一体誰?
なぜ、森の奥から?
今まで、一体何をしていたのだ?
あまりに突然の事態に、頭の中に疑問符が乱れ飛ぶ。
けれど――。
「ん? なんだ、お前、まだここにいたのか。物好きなやつだな」
そんな、とぼけた声が、心底憎らしくて。
懐かしくて。
嬉しくて。
私は精一杯の皮肉を込めて、言ってやった。
「ようこそ。魔女シロトの薬屋へ」
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