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「実はこの度、家を出ることになりまして」


 来客用の椅子を用意し、三人でテーブルを囲んでいる。

 ネモは折り目正しい所作で新たに淹れられた茶を口に運びながら、自身の近況を話し始めた。


「私、実は元々病弱でもなんでもないのです。父が対外的にはそういうことにして、なるべく部屋から外に出さないようにしていたもので。むしろ、しかるべき時には私を外に出すつもりだったようですから、室内でできる鍛錬などをして、体が弱らないようにしていたのです」

 

 そう言って微笑むネモの顔は、年頃の少女のようにしか見えない。声も意識しているのか、それが地なのか、少しハスキーな女声としか思われなかった。


「春の一件の後、改めて父と兄と話し合いを設けました。あのまま家の中で女のふりをし続けるのに無理があることは明白でしたから。問題は、父の言う『しかるべき時』というのがいつなのか、ということだけでした。そして、それは恐らく、今なのだろうという結論になったのです」


 今現在、ネモは苗字を隠し、ただの『ネモ』として、森の国の傭兵ギルドに所属しているのだという。

 ジオ家が生業としている守り人は、その職務上、人手が足りないときには傭兵の手を借りることも珍しくない。ネモの父親であるダントは、日頃懇意にしているギルド長に事情を言い含め、ネモを傭兵見習いとして育てさせることにしたのだ。


「みなさん、良い人たちばかりで助かっています。実家にいた頃は甘やかされてばかりでしたが、きちんと厳しく接してくださって。特に、メロさんにはお世話になってばかりでして。ここのことも、メロさんから聞いたんですよ。前々から是非一度お礼を言いたかったのですけれど、お父様が頑なに教えてくださらなかったもので……」


 その理由に大いに心当たりがあったハナと魔女は顔を見合わせ、笑みを交わし合った。


「それじゃあ、今日はわざわざお礼を言いに来てくれたんですか?」


 一通りの身の上話を聞き終えたハナがそう問いかけると、ネモはその口元を可憐に綻ばせた。

「いえ、もちろんそれも大事な要件だったのですけれど、流石にそれだけでお邪魔するのも申し訳ないですから。一つお使いを頼まれているのです」

「お使い?」

「虫除けを頂きたくて。なにか良いものはありますでしょうか」


 詳しく聞いてみると、それは大体こんな話であった。



 最初にそれに気づいたのは、傭兵ギルドの建物の管理を任されている、元傭兵の老爺だった。

 ハエが出るのだという。

 傭兵たちの装備品を保管している倉庫で、ふと気づいた時には、そのハエが飛んでいた。

 エメラルドのような光沢を放つハエだ。

 

 ぶん。

 ぶん。


 微かな羽音と共に、小さな影が頭上を飛び回っている。

 鬱陶しくはあったが、まあ、それはそれだけのものだ。

 老爺は特に気にすることもなく倉庫の整理を続けていたが、しばらくすると開け放していた扉から外に出たのか、そのハエはいなくなっていた。


 そしてその日から、建物の中のそこかしこで、そのハエを見るようになったのだという。

 床の修繕をしているときや、油の補充をしているとき、やることもなく椅子に座ってうたた寝をしているとき、ふと気づくと、頭上をエメラルドグリーンのハエが飛び回っているのである。


 最初は一匹限りであったそれは、日を追うごとに数を増やし、ギルドに出入りしている傭兵たちも気にするようになった。

 日頃、この元傭兵の老爺が建物の管理をきっちりとこなしていることはみなが知っている。彼の仕事に手抜かりがあって虫が湧いたなどと考えるものはいなかったが、それにしても気分がいいものではない。


「どこぞで野良犬の死骸でも腐れているのではないか」


 手の空いていた傭兵たち数人で建物の中や周りを検めたところ、はたして、床下から二匹の大鼠の死骸が見つかった。

 冷たく暗い場所で死んでいたせいか腐乱していたわけではなかったが、悪臭を放ち、蛆も集っていたため、恐らくはこれが原因だろうと考えられ、二匹の死骸は藁に包んで焼かれ、棄てられた。


 しかし、その後もエメレルドグリーンのハエが消えることはなく、いつまでも、ギルドの中を飛び回っているのだという。


「よほど見つけにくい場所にハエの湧く何かが隠れているのかとは思うのですが、みなさんお忙しい身の上ですから、それにばかり構ってもいられないということで、当座の凌ぎに虫除けの薬を使おうという話になったのです」


 一通りの話を終えたネモの、その端整な顔が僅かに顰められ、話を聞いただけのハナも渋面を作っている。魔女だけが一人、変わらず気だるげな表情で茶を啜っていた。


「それは大変ですねぇ。ええっと、虫除けだと簡単なのと強力なのとあって、強力な方だと二時間くらいは建物使えなくなっちゃうんですけど」

「ううん。ちょっと判断がつかないので、両方頂いていきます」

「了解です。お師匠、テラリア使ってるやつの方がいいですかね?」

「ん。そうだな。作り置きのもので十分だろう。包んでやってくれ」


 立ち上がったハナが部屋の奥に入り、棚を漁り始める。

 ネモはそれを見て、恐縮したように両手を膝に揃えた。


「すみません、こんな要件で」

「構わん。原因不明の虫の増殖も、たまにある話だ。気になることがないでもないが……」

「そうなんですね。私、あんなにたくさんのハエを見たのは初めてで……。そういえば一匹だけ色違いのハエもいたんですよ。他の傭兵のみなさまはご覧になってないそうなんですけど」

「ん?」


 ぴくり、と、魔女の眉が僅かに動いた。


「色違いのハエだと?」


 急に剣呑な声を出した魔女に、ネモが当惑しながら答えた。


「え、ええ。普通に飛んでいるハエはエメラルドのような緑色なのですが、私、一匹だけ黄金色のハエを見たんです」

「ネモ」

「はい?」

「傭兵ギルドというのは、人の出入りが多いんだな?」

「そうですね。みなさま、お忙しい方たちばかりですから、依頼を受けたり、鍛錬をしたりと」

「建物の中に常駐しているものは?」

「ギルド長様と、管理人のおじいさまのお二人でしょうか」

「その二人に、ここのところ変わった様子はないか」

「実は、シバさん――管理人のおじいさまが、数日前から体調を崩されているのです。体が怠く、熱があるようだと。風邪でもお召しになられたのかと、みなさま心配されているのですが」

「ギルド長の方は?」

「いえ、特には……。あ、でも言われてみれば、今朝は少し顔色が優れないようでした」

「ふむ。では最後に一つ聞くが、件のハエは、食糧庫には湧くか?」

「それが、不思議なことに全く」

「なるほど」


 そこで質問の手を止めた魔女は、長い足を組んで口元に手をやり、しばし黙り込んだ。

 矢継ぎ早に問われ続けたネモは、すっかり困惑してしまった様子である。


「あ。あのう、私、なにか変なことを申しましたでしょうか」

「お師匠? どうかしました?」

 どうも様子がおかしいことに気づいたハナが、部屋の奥から顔を出したところで、魔女は緩慢な動きで立ち上がった。


「少々、まずいことになっているかもしれん」

「まずいこと?」

「『ブブの祈念』だ」

「えっと、それはどういう……」


「このままでは、人死にが出る」

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