3

 ぶん。


 ぶん。


 ハエが飛んでいるのである。


 ハエという虫は、小さく、速い。

 目の前を飛んでいれば、今、ハエが飛んでいたことには気づく。だが、次の一瞬でその姿は見失われてしまう。一度視界から消えたハエを直ぐに探し出すのは難しい。ふとした拍子に再度目に入り、また見失う。そして、耳元を通過されたとき――。


 ぶん、


 と。小さな羽音がかろうじて聞こえるのである。

 ……一匹二匹程度であれば。


 ぶん。ぶん。

 ぶん――。


 ハエが飛んでいる。

 エメラルドのような光沢を持つハエが。

 石造りの建物の、高い天井いっぱいに、テーブルに、椅子に、窓に、床に、とても数え切れぬほどのハエの大軍が、蠢き、飛び回り、暴れ回っている。


『おい。今日はまた一段と多くないか』


 傭兵の一人がそんなことを口にしたときは、それでもまだここまでの数ではなかった。


『ああ……。ネモのやつに、除虫剤買いに行かせてるよ。午過ぎには戻るだろ……』

『それまではこのままってことか……。あれ、おやっさん。顔色悪いぞ』

『いや、ああ。なんだろうな……』


 ギルド長の皺の寄った顔には脂汗が滲み、唇が青い。

 流石に様子がおかしいと、歩み寄ったよった壮年の傭兵の膝が、崩れた。


『え?』

『おい、どうした』

『なん――あ』

『おい!』

『うぐぇ』


 傭兵組合というのは、人の出入りが多い。

 受けた任務の内容によって出発の時間も帰還の時間もまちまちであるし、仕事の相談事や、仕事がない時間の待機場所とするためのスペースもある。仕事がない日に何となく時間を潰すために屯する者もいる。

 その中でも、その日朝から組合に居た者たちが、次々とその異常に襲われた。ある者は眩暈を起こし、膝をつき、ある者は吐瀉し、そして――。


『誰か来てくれ! シバのじいさんが!』


 ついには、建物に常駐している管理人の老兵が倒れた。

 顔面は蒼白で、白目を剥き、体は痙攣し、ぶくぶくと口の端から泡を吹いている。


『しっかりしろ、じいさん!』

『おい……。なんだ、こりゃ……?』


 ぶん。

 ぶん。ぶん――。


 ハエが、その頭上を飛び回った。


 十匹? 二十匹? いや、もっと――。


 うぅぅううぅぅうぅうううんんん。


 重なる羽音が、いつしか一塊の音となって響き渡り始めた。

 気づいた時には、建物全体を埋め尽くす勢いで、ハエは大増殖していたのである。


『全員、外に出ろ!!』


 組合内の歴戦の傭兵にとっても、一体何が起きているのかは分からない。だが、ハエの増殖と、傭兵たちに起きた異常。因果関係はあまりにも明確だった。既に動けなくなっていた者を扶けながら全員が建物から脱出した、その時だった。



『なんとか間に合ったようだ』



 人々の悲鳴と喧噪に紛れ、消え入りそうなほど小さな呟きが、紫色の影と共に現れたのだった。


 そして、今。


「なるほど。このような環境下で放置するとこうなるのか。これはこれで貴重なデータだな。ふむ」


 開け放たれた建物の扉の前で、魔女が口元に手をやり、しげしげと内部の様子を観察していた。

 そうはいっても、壁も、窓も、天井も、何もかもを覆い尽くすハエの大軍で、中の様子などほとんど何も見えない。

 ハエたちの羽音が作る静かな重低音が、入口の外まで聞こえていた。


「おい、魔女さんよぉ! あんた、これ、なんとかできんのか!?」

「いや、それより、おやっさんとじいさんを助けてくれ! このままじゃ死んじまう!」


 体に異常が現れていた傭兵たちの中でも、組合長と管理人の老兵の症状は深刻だった。

 既に二人とも意識を失っており、肌は土気色となっている。

 そこへ駆け寄ったのは、ハナとネモの二人だった。

 二人で協力して体を起こし、竹筒から薬液を口に含ませていく。


「ふむ。まあ、このまま放置しても一日二日で消えるだろうが、それまでに二人の命が持つ保証もない。ただ、そうだな。一応聞くが、を解決するのに建物内の薬品やら食料品がいくつか駄目になるとして、問題はあるか?」

「そんなことは構わねえ。やってくれ!!」


 壮年の傭兵――自らも顔色を悪くしている――が懇願するように叫び、魔女は顔を背けてしゃがみ込んだ。


「いいだろう」


 懐から取り出したのは、木筒だった。

 長さは掌を二つ広げた程度、太さは親指と中指で輪を作れる程度で、地面に立てて置けるよう、足が取り付けられている。その反対側、つまり上端には紙縒りが延びていた。

 魔女はそれを建物の入り口の前に置き、紙縒りを指で摘まみ、擦った。


 ち、と小さく火花が起こり、燃えた紙縒りの端が木筒に迫る。

 それが吸い込まれるようにして木筒の中に消え、やがて、その先端から白い煙が立ち上がった。


 糸のように細い煙。

 真っ直ぐ伸びあがる。

 その頼りない勢いに、それを見ていた全員の顔に不安の色が宿った。


 ゆら。

 と、風も吹いていないのに、煙の先端が向きを変えた。

 何かに導かれるようにして、建物の中へと入っていく。

 ゆら。ゆら。

 不思議なことに、入口を潜って中に入った途端、煙が揺らめき、膨らんだ。

 ゆら。ゆら。

 も。も。も。

 延びていく。膨らんでいく。

 木筒の先から延びる煙は変わらず糸のような太さであるにも関わらず、それが建物の中に入ると、膨らみ、広がり、散っていくのだ。


 やがて、外からは内部が見えぬほど白い煙で建物が満たされたとき、その変化は起きた。


 も。も。も。


 留まることなく立ち昇り、建物の中に侵入していく煙の色が変わった。

 真っ白であったそれが、徐々に淡く緑色に染まっていったのだ。

 初めは新芽のような淡い色だったが、徐々にその色を濃くしていき、ついには森の奥地のような濃い深緑色に染まり切った。


「ハエの天敵など枚挙にいとまがないが、名に負うほどにその役目を宿命づけられているものといえば、こいつしかあるまい」


 ぼう。


 魔女のセリフに呼応するように、建物から煙が噴き出た。

 深緑色の煙が建物のあらゆる隙間から噴き出し、左右に広がった。

 それは自然と集まり、二枚の扇状の形を為していく。

 その煙の中に、目を覆いたくなるほど大量のハエが絡めとられているのが確かに見えた。

 巨大な煙の扇が二枚、建物全てに被さり――いや、食らいつくように、閉じていく。


「すなわち、『蠅取草ダイオニア』だ」


 ばくん。


 そんな擬音が聞こえてきそうな動きで、煙で出来た巨大な二枚の葉が、閉じた。

 やがて、虚空に溶けるように深緑の煙が消え去ったときには、あれほど煩かったハエの羽音は、ふっつりと止んでいたのだった。

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