3
「色違いのハエだと?」
急に剣呑な声を出した魔女に、ネモが当惑しながら答えた。
「え、ええ。普通に飛んでいるハエはエメラルドのような緑色なのですが、私、一匹だけ黄金色のハエを見たんです」
「ネモ」
「はい?」
「傭兵ギルドというのは、人の出入りが多いんだな?」
「そうですね。みなさま、お忙しい方たちばかりですから、依頼を受けたり、鍛錬をしたりと」
「建物の中に常駐しているものは?」
「ギルド長様と、管理人のおじいさまのお二人でしょうか」
「その二人に、ここのところ変わった様子はないか」
「実は、シバさん――管理人のおじいさまが、数日前から体調を崩されているのです。体が怠く、熱があるようだと。風邪でもお召しになられたのかと、みなさま心配されているのですが」
「ギルド長の方は?」
「いえ、特には……。あ、でも言われてみれば、今朝は少し顔色が優れないようでした」
「ふむ。では最後に一つ聞くが、件のハエは、食糧庫には湧くか?」
「それが、不思議なことに全く」
「なるほど」
そこで質問の手を止めた魔女は、長い足を組んで口元に手をやり、しばし黙り込んだ。
矢継ぎ早に問われ続けたネモは、すっかり困惑してしまった様子である。
「あ。あのう、私、なにか変なことを申しましたでしょうか」
「お師匠? どうかしました?」
どうも様子がおかしいことに気づいたハナが、部屋の奥から顔を出したところで、魔女は緩慢な動きで立ち上がった。
「少々、まずいことになっているかもしれん」
「まずいこと?」
「『ブブの祈念』だ」
「えっと、それはどういう……」
「このままでは、人死にが出る」
そして、数時間後。
あと少しで空に茜色が差そうかという時分。
場所は、森の国の中心街にある、傭兵ギルドの本部。
ぶん。
ぶん。
ハエが飛んでいた。
エメラルドのような光沢を放つハエだ。
石造りの建物の、高い天井いっぱいに、ハエが飛んでいるのである。
壁に、床に、テーブルに、窓に、数えることもできないほどのハエが止まり、飛び立ち、暴れ回っている。
建物の中に、既に人はいない。
ただ、正面入り口のすぐ外に魔女が座り込み、地面になにか不可思議な紋様が描かれた紙を敷き、木製の筒を立てている。
それを、建物の外に避難していた傭兵たちが、不安げな表情で見守っていた。
『こんな、今朝より酷い……』
数分前、魔女とハナを伴って傭兵ギルドへと帰ったネモは、建物の扉を開けるなり、その大量のハエに声を震わせた。
その頃、ギルド内は俄かに騒然としており、その原因は、やつれた顔で床に臥せた管理人の老爺とギルド長だった。
その様子を見た魔女は、すぐさま傭兵たち全員に建物から出ることを命じた。
二人の病人も運び出され、そのまま担架の上に寝かされている。
その間に話を聞けば、今日の午前中の内に、目に見えてハエの量が増え始め、それに伴い、老爺とギルド長、二人の顔色がどんどん悪くなっていったのだという。
今、二人の呼吸は浅く、手足は冷たい。意識も随分前から混濁しているとのことだった。
ハナとネモが協力して二人に緑色の薬液を飲ませている間に、魔女はログハウスから持参した木製の筒を正面入り口に設置した。
「今、話のできる責任者はいるか?」
「お、おう。一応、こういう時は俺が」
しゃがみ込んだまま、紫色の瞳を細めて問うた魔女に、中年の傭兵が応えた。見れば彼の顔色も悪く、肩が重荷を負ったように下がっている。彼以外にも、その場にいた傭兵たちのほとんどが、同じような状態だった。
「このままでは二人は死ぬ。一応聞くが、それを解決するのに建物内の食料品なり薬品なりがダメになるとして、問題はあるか」
「構わねえ。ケツは俺が持つ。やってくれ」
「いいだろう」
その答えを聞くや否や、魔女は木筒の端から延びていた紙縒りを親指と中指で摘まみ、一気に擦り合わせた。
ち、と小さく火花が起こり、燃えた紙縒りの端が木筒に迫る。
それが吸い込まれるようにして木筒の中に消え、やがて、その先端から白い煙が立ち上がった。
糸のように細い煙。
真っ直ぐ伸びあがる。
その頼りない勢いに、それを見ていた全員の顔に不安の色が宿った。
ゆら。
と、風も吹いていないのに、煙の先端が向きを変えた。
何かに導かれるようにして、建物の中へと入っていく。
ゆら。ゆら。
不思議なことに、入口を潜って中に入った途端、煙が揺らめき、膨らんだ。
ゆら。ゆら。
も。も。も。
延びていく。膨らんでいく。
木筒の先から延びる煙は変わらず糸のような太さであるにも関わらず、それが建物の中に入ると、膨らみ、広がり、散っていくのだ。
やがて、外からは内部が見えぬほど白い煙で建物が満たされたとき、その変化は起きた。
も。も。も。
留まることなく立ち昇り、建物の中に侵入していく煙の色が変わった。
真っ白であったそれが、徐々に淡く緑色に染まっていったのだ。
初めは新芽のような淡い色だったが、徐々にその色を濃くしていき、ついには森の奥地のような濃い深緑色に染まり切った。
「ハエの天敵など枚挙にいとまがないが、名に負うほどにその役目を宿命づけられているものといえば、こいつしかあるまい」
ぼう。
魔女のセリフに呼応するように、建物から煙が噴き出た。
深緑色の煙が建物のあらゆる隙間から噴き出し、左右に広がった。
それは自然と集まり、二枚の扇状の形を為していく。
その煙の中に、目を覆いたくなるほど大量のハエが絡めとられているのが確かに見えた。
巨大な煙の扇が二枚、建物全てに被さり――いや、食らいつくように、閉じていく。
「すなわち、『
ばくん。
そんな擬音が聞こえてきそうな動きで、煙で出来た巨大な二枚の葉が、閉じた。
やがて、虚空に溶けるように深緑の煙が消え去ったときには、あれほど煩かったハエの羽音は、ふっつりと止んでいたのだった。
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