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 夕日が差していた。

 森の国の中心街の、民家がぽつぽつと立ち並んだ通り。

 魔女とハナ、二人の影が長く伸び、その後ろに従うように、一匹のトンボがゆっくりと飛んでいる。

 六本の肢の中に、金色のハエが一匹、がっしりと捕らえられていた。


「ブブの祈念は、森の妖異による災いではない。人為的な呪詛だ」


 少し前、あれだけ大量に飛び交っていたエメラルドグリーンのハエが綺麗さっぱり消え失せたギルドの建物の中、恐縮し、どうか礼を受け取ってくれと頼み込む傭兵から、魔女はどうでもよさそうな顔で適当な額面を告げ、金貨を受け取った。

 呪詛を祓ったところで失われた力が戻るわけではなく、一番症状の酷かった二人を含め、今日この場にいた傭兵たちは全員しばらく安静にしているようにと言い含めた魔女は、それきりハナを伴ってギルドを辞したのだ。

 その頭の後ろには、いつの間にどこから現れたのか、金色のハエを抱えたトンボが飛んでいたのである。


「ええっと、お師匠。ひょっとして、これからその呪詛を仕掛けた相手のとこに殴り込みに行くんですか?」

「違う」

「え?」

「そんなことをする必要もない。一体なんの恨みをギルドに持ったか知らんが、どの道、術者はもう死んでいるだろう。私は魔女だぞ。犯人が誰かなんぞどうでもいいさ」

「ええ? じゃあ私たち、どこに向かってるんです?」

「着けば分かる。もうじきだ」


 やがて、なんの変哲もない石造りの家の前で、魔女の足が止まった。

 うげ、とハナが顔を顰める。

 その視線の先、家の壁面に、人の掌ほどはありそうなサイズの大蜘蛛が張り付いていたのだ。


 魔女の頭の後ろを飛んでいたトンボがそれに近づくと、蜘蛛はするすると壁を上り、四角く切り取られた窓から、中に入って行った。

 すると、程なくして家の玄関の向こうからぱたぱたと足音が聞こえ、扉が開いた。

 現れたのは、質素なウール地の服の上からエプロンを身に着けた、中年の女だった。

 顔立ちにこれといった特徴もなく、化粧もしておらず、鳶色の髪は雑に一つに纏められている。人込みに紛れてしまえば、すぐに見失ってしまいそうな女だった。


「あら、シロトじゃない。どうしたの、急に」

「久しぶりだな。ノウェ」


 ノウェ、と呼ばれたその女に、金色のハエを抱えたトンボが近づいていく。

 ぶ、ぶ、と、急にハエが羽を震わせて暴れ出した。

 それを見たノウェの口元が、歪に吊り上がった。


「ああ、なんだ。そういうこと。すっかり忘れてたわ」

「そんなことだろうと思ったよ」

「悪かったわね。ま、いいわ。どうぞ、おあがんなさい。そっちの子は?」

「弟子だ」

「あらま」


 目をぱちくりとさせたノウェは、ハナの顔を覗き込むようにして見つめ、ふっと顔を綻ばせた。


「初めまして。あなたもいらっしゃい」

「は、はあ。どうも……」


 事情がさっぱり分からないハナは、困惑しながらも、先を往く魔女の後に続き、その民家にあがって行った。

 その後ろで、トンボの肢から暴れるハエを受け取った大蜘蛛が、その金色の頭を噛み千切っていた。


 家の中は、何の変哲もない一般家庭のように見えた。

 質素ながらも趣味のよい調度品。軒先に干された野菜。ハーブの香り。

 小さな竈には火が入れられ、鍋がかけられている。


「ちょっと待ってね。お夕飯、食べてくでしょ?」

 そう言って、作りかけだったのだろうその鍋に棚から具材を取り出して放り込む中年の女は、どう見ても普通の主婦にしか見えなかった。


「ええっと、お師匠、この方は……?」


 勧められるままにテーブルにつき、気まずそうに座るハナの横で、魔女は長い足を組んで横向きに座り、頬杖をついてそれに応えた。


「この人は、私の姉弟子だ」

「え?」

「先代の魔女には二人の弟子がいたんだ。そのうち一人が後を継ぎ、一人は森を出て呪術師になった。それがこの人だ」

「はあ。そうだったんですね」

「『ブブの祈念』を何処どこぞの何某なにがしに売りつけたんだよ、この人は」

「え」


 思わず、竈の前でバゲットを切っている女と、今まさに湯気を挙げて煮られる鍋を見つめてしまったハナの視線に気づき、呪術師・ノウェが苦笑した。


「やあね。そんな紹介の仕方したらこの子が怖がっちゃうでしょ。大丈夫よ。これは普通のスープです。ちょうど鹿肉の良いのが余ってたの」

「なぜこんな真似を?」

「んー、なにが?」


 魔女の目が、剣呑な光を帯びていた。


「『ブブの祈念』は本来寝たきりの人間を呪殺するための術だろう。傭兵ギルドの建物にかけてどうなると思ったんだ」


 例えば、家の中に年老いた親がいたとしよう。

 夫が外に働きに出ている間、妻は舅なり姑なりの世話をしなければならない。

 義理の親との関係が上手くいっていればいい。

 だが、そうでなければ?

 奴隷のような扱い。浴びせられる暴言。夫は頼りにならない。

 あと少しすればこの人は死ぬだろう。

 そうすれば私は自由だ。

 あと少し。

 その少しが、待てない。


 そんな家の中に、一匹のハエが湧く。

 一匹、二匹と、次第にハエは数が増えていく。

 義理の親は嫁を詰る。

 だが、ハエは消えない。

 いつまでも寝たきりの老人の頭上を飛んでいる。

 次第に、嫁を罵倒する声に力がなくなっていく。

 ハエは数を増やす。

 五匹、六匹。

 その度に、年老いた体から力が抜けていく。

 そして、とうとう、嫁の祈りが届く時が来る。


 それが、『ブブの祈念』の使い方なのだという。


「区切られた建物の中で、敷地内の生物の生命力を少しずつ奪っていくのがこの呪術の効果だ。だが、あれだけ多くの人間が出入りする建物にそれを仕掛けたって、ハエがどれだけ増えようが一人一人に対する影響なんぞ高が知れている。それが顕著に出る頃には、ハエの量は誰がどう見ても異常な量になる。そうなれば、術者への負担は図り知れない」


 ギルドの床下に見つかった大鼠の死体は、この術の最初の犠牲者だったのだ。

 そして、建物の中にいる時間が最も多い二人が、次の犠牲者になるところだった。

 だが、そこに至るまでに発動した呪いの効果は、術者一人分が受け止め得る反動を優に超えているはずなのだという。


「苦痛に脳が焼き崩れるのが先か、耐えきれずに自刃するのが先か、いずれ碌な死に方はしていないだろう」

「あら。それが何か問題?」


 ミトンを嵌めた両手で鍋を抱えたノウェが、なんの邪気も感じさせない穏やかな笑みを浮かべ、二人の前に立った。

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