十
エルドラドオのダンスの当夜は土曜日の晩でした。午後の七時半からというので、五時頃会社から帰って来ると、ナオミは既に湯上がりの肌を脱ぎながら、せっせと顔を作っていました。
「あ、譲治さん、出来て来たわよ」
と、鏡の中から私の姿を見るなり言って、片手をうしろの方へ伸ばして、彼女が指し示すソォファの上には、三越へ頼んで大急ぎで作らせた着物と丸帯とが、包みを解かれて長々と並べてあります。着物には口綿のはいっている
「どう? あたしの見立ては
ナオミは両手にお
が、正直のところ、肩の厚い、
ナオミは衣裳をつけてしまうと、
「さ、譲治さん、あなたは紺の背広を着るのよ」
と、珍しくも私の服を出して来てくれ、
「僕は紺より茶の方がいいがな」
「馬鹿ねえ! 譲治さんは!」
と、彼女は例の、叱るような口調で一と
「夜の宴会は紺の背広かタキシードに
「へえ、そう言うもんかね」
「そう言うもんよ、ハイカラがっている癖にそれを知らないでどうするのよ。この紺背広は随分汚れているけれど、でも洋服はぴんと
それからネクタイは紺か黒無地で、
向こうへ着いたのは七時半を過ぎていたので、ダンスは既に始まっていました。騒々しいジャズ・バンドの音を聞きながら
「おい、おい、あすこにあんな女が来たぞ」
「あの連れの男は何者だろう!」
と、私は彼等に言われているような気がしました。彼等の視線が、ナオミばかりか、彼女のうしろに小さくなって立っている私の上にも注がれていることを、はっきりと感じました。私の耳にはオーケストラの音楽がガンガン鳴り響き、私の眼の前には踊りの群衆が、………みんな私より
「こんな所に立っていたって仕様がないわ。………どこかあっちの………テーブルの方へ行こうじゃないの」
ナオミもさすがに
「でも何かしら、この踊っている連中の間を突ッ切ってもいいのかしら?」
「いいのよ、きっと、………」
「だってお前、
「衝きあたらないように行けばいいのよ、………ほら、御覧なさい、あの人だってあすこを突ッ切って行ったじゃないの。だからいいのよ。行って見ましょうよ」
私はナオミのあとに附いて広場の群衆を横切って行きましたが、足が
「チョッ」
と、ナオミに睨みつけられ、しかめッ面をされたことを覚えています。
「あ、あすこが一つ空いているようだわ、あのテーブルにしようじゃないの」
と、ナオミはそれでも私よりは
「ネクタイが左へ曲がっているわよ」
と
「ナオミちゃん、浜田君が来ているじゃないか」
「ナオミちゃんなんて言うもんじゃないわよ、さんて
そう言ってナオミは、又むずかしいしかめッ面をして、
「浜さんも来てるし、まアちゃんも来ているのよ」
「どれ、どこに?」
「ほら、あすこに………」
そして慌てて声を落として「指さしをしちゃ失礼だわよ」と、そっと私をたしなめてから、
「ほら、あすこのあの、ピンク色の洋服を着たお嬢さんと一緒に踊っているでしょう、あれがまアちゃんよ」
「やあ」
と、言いながら、その時まアちゃんはわれわれの方へ寄って来て、相手の女の肩越しににやにや笑って見せました。ピンク色の洋服は、せいの高い、肉感的な長い両腕をムキ出しにした太った女で、豊かなというよりは
「おい、ナオミちゃん、………」
うっかり私はそう言ってしまって、急いでさんと言い直してから、
「あの女はあれでもお嬢さんなのかね?」
「ええ、そうよ、まるで
「お前あの女を知ってるのかい?」
「知っているんじゃないけれど、よくまアちゃんから話を聞いたわ。ほら、頭へリボンを巻いてるでしょう。あのお嬢さんは
「だけど顔だちはそんなに悪かないじゃないか。赤いものだの青いものだの、あんなにゴチャゴチャ塗り立ててるからおかしいんだよ」
「つまり馬鹿よ」
ナオミはだんだん自信を
「顔だちだっていい事なんかありゃしないわ。あんな女を譲治さんは美人だと思うの?」
「美人というほどじゃないけれども、鼻も高いし、体つきも悪くはないし、普通に作ったら見られるだろうが」
「まあ
「ところで浜田君と踊っているのは、どこかで見たような女じゃないか」
「そりゃ見たはずだわ、あれは帝劇の
「へえ、浜田君は綺羅子を知っているのかい?」
「ええ知っているのよ、あの人はダンスが
浜田は茶っぽい背広を着て、チョコレート色のボックスの靴にスパットを
「譲治さん、あの踊り方を知っている?」
「何だか知らないが、あんまり見っともいいもんじゃないね」
「ほんとうよ、実際下品よ」
ナオミはペッペッと
「あれはチーク・ダンスって言って、真面目な場所でやれるものじゃないんだって。アメリカあたりであれをやったら、退場して下さいって言われるんだって。浜さんもいいけれど、全く
「だが女の方も女の方だね」
「そりゃそうよ、どうせ女優なんて者はあんな者よ、全体ここへ女優を入れるのが悪いんだわ、そんなことをしたらほんとうのレディーは来なくなるわ」
「男にしたって、お前はひどくやかましいことを言ったけれど、紺の背広を着ている者は少ないじゃないか。浜田君だってあんななりをしているし、………」
これは私が最初から気がついていた事でした。知ったか振りをしたがるナオミは、
「そりゃそうだけれど、あれは浜さんが間違ってるのよ、紺を着るのが正式なのよ」
「そう言ったって………ほら、あの西洋人を御覧、あれもホームスパンじゃないか。だから何だっていいんだろう」
「そうじゃないわよ、人はどうでも自分だけは正式ななりをして来るもんよ。西洋人がああいうなりをして来るのは、日本人が悪いからなのよ。それに何だわ。浜さんのように場数を
広場の方のダンスの流れが一時に停まって、盛んな拍手が起こりました。オーケストラが止んだので、彼等はみんな少しでも長く踊りたそうに、熱心なのは口笛を吹き、地団太を蹈んでアンコールをしているのです。すると音楽が又始まる、停まっていた流れが再びぐるぐると動き出す。一としきり立つと又止んでしまう。又アンコール、………二度も三度も繰り返して、とうとういくら手を
「やあ、今晩は。大分ゆっくりでしたね」
そう言ったのは浜田でした。
「どうしたんだい、踊らねえのかい?」
まアちゃんは例のぞんざいな口調で、ナオミのうしろに突っ立ったまま、
「約束がなけりゃあ、この次に
「いやだよ、まアちゃんは、下手くそだもの?」
「馬鹿言いねえ、月謝は出さねえが、これでもちゃんと踊れるから不思議だ」
と、大きな団子ッ鼻の
「根が御器用でいらっしゃるからね」
「ふん威張るなよ! あのピンク色の洋服と踊ってる恰好なんざあ、あんまりいい図じゃなかったよ」
驚いたことには、ナオミはこの男に向かうと、
「や、こいつアいけねえ」
と、まアちゃんは首をちぢめて頭を
「己もずうずうしい方じゃ
「何だいありゃあ、まるで猿だよ」
「あははは、猿か、猿たぁうめえことを言ったな、全く猿にちげえねえや」
「巧く言ってらあ、自分が連れて来たんじゃないか。───ほんとうにまアちゃん、見っともないから注意しておやりよ。西洋人臭く見せようとしたって、あの御面相じゃ無理だわよ。どだい顔の造作が、ニッポンもニッポンも、純ニッポンと来てるんだから」
「要するに悲しき努力だね」
「あははは、そうよほんとに、要するに猿の悲しき努力よ。和服を着たって、西洋人臭く見える人は見えるんだからね」
「つまりお前のようにかね」
ナオミは「ふん」と鼻を高くして、得意のせせら笑いをしながら、
「そうさ、まだあたしの方が混血児のように見えるわよ」
「熊谷君」
と、浜田は私に気がねするらしく、もじもじしている様子でしたが、その名でまアちゃんを呼びかけました。
「そう言えば君、河合さんとは始めてなんじゃなかったかしら?」
「ああ、お顔はたびたび見たことがあるがね、───」
「熊谷」と呼ばれたまアちゃんはやはりナオミの背中越しに、椅子のうしろに
「僕は熊谷政太郎というもんです。───自己紹介をして置きます、どうか何分───」
「本名は熊谷政太郎、一名をまアちゃんと申します。───」
ナオミは下から熊谷の顔を見上げて、
「ねえ、まアちゃん、ついでにもう少し自己紹介をしたらどうなの?」
「いいや、いけねえ、あんまり言うとボロが出るから。───
「アラ、いやだ、委しい事なんかあたしが何を知っているのよ」
「あははは」
この連中に取り巻かれるのは不愉快だとは思いながら、ナオミが機嫌よくはしゃぎ出したので、私も仕方なく笑って言いました。
「さ、いかがです。浜田君も熊谷君も、これへお掛けになりませんか」
「譲治さん、あたし
「え、僕は何でも結構だけれど、………」
「まアちゃん、あんたは?」
「どうせ
「まあ、
「臭くってもいいよ、臭い所が捨てられないッて言うんだから」
「あの猿がかい?」
「あ、いけねえ、そいつを言われると
「あははは」
と、ナオミは辺り
「じゃ、譲治さん、ボーイを呼んで頂戴、───ウイスキー・タンサンが一つ、それからレモンスクォッシュが三つ。………あ、待って、待って! レモン・スクォッシュは止めにするわ、フルーツ・カクテルの方がいいわ」
「フルーツ・カクテル?」
私は聞いたこともないそんな飲み物を、どうしてナオミが知ってるのか不思議でした。
「カクテルならばお酒じゃないか」
「うそよ、譲治さんは知らないのよ、───まあ、浜ちゃんもまアちゃんも聞いて頂戴、この人はこの通り野暮なんだから」
ナオミは「この人」と言う時に人差指で私の肩を軽く叩いて、
「だからほんとに、ダンスに来たってこの人と二人じゃ間が抜けていて仕様がないわ。ぼんやりしているもんだから、さっきも滑って転びそうになったのよ」
「床がつるつるしてますからね」
と、浜田は私を弁護するように、
「初めのうちは誰でも間が抜けるもんですよ、
「じゃ、あたしはどう? あたしもやっぱり板につかない?」
「いや、君は別さ、ナオミ君は度胸がいいから、………まあ社交術の天才だね」
「浜さんだって天才でない方でもないわ」
「へえ、僕が?」
「そうさ、春野綺羅子といつの間にかお友達になったりして! ねえ、まアちゃん、そう思わない?」
「うん、うん」
と、熊谷は下唇を突き出して、
「浜田、お前綺羅子にモーションをかけたのかい?」
「ふざけちゃいかんよ、僕あそんなことをするもんかよ」
「でも浜さんは真っ赤になって言い訳するだけ可愛いわ。どこか正直な所があるわ。───ねえ、浜さん、綺羅子さんをここへ呼んで来ない? よう! 呼んでらッしゃいよ! あたしに紹介して頂戴」
「なんかんて、又、冷やかそうッて言うんだろう? 君の毒舌にかかった日にゃ
「大丈夫よ、冷やかさないから呼んでらッしゃいよ、
「じゃあ、己もあの猿を呼んで来るかな」
「あ、それがいい、それがいい」
と、ナオミは熊谷を振り返って、
「まアちゃんも猿を呼んどいでよ、みんな一緒になろうじゃないの」
「うん、よかろう、だがもうダンスが始まったぜ、一つお前と踊ってからにしようじゃないか」
「あたしまアちゃんじゃ
「言うな言うな、習いたての癖にしやがって」
「じゃ、譲治さん、あたし一遍踊って来るから見てらっしゃい。後であなたと踊って上げるから」
私は定めし悲しそうな、変な表情をしていたろうと思いますが、ナオミはフイと立ち上がって、熊谷と腕を組みながら、再び盛んに動き出した群集の流れの中へはいって行ってしまいました。
「や、今度は七番のフォックス・トロットか、───」
と、浜田も私と二人になると何となく話題に困るらしく、ポケットからプログラムを出して見て、こそこそ
「あの、僕ちょっと失礼します、今度の番は綺羅子さんと約束がありますから。───」
「さあ、どうぞ、お構いなく、───」
私は独り、三人が消えてなくなった跡へ、ボーイが持って来たウイスキー・タンサンと、
「ウム、なかなかよく踊る!………あれなら見っともない事はない………ああいう事をやらせるとやっぱりあの
可愛いダンスの草履を
「ああ、暑、暑! どうだった、譲治さん、あたしの踊るのを見ていた?」
踊りが済むと彼女はテーブルへ戻って来て、急いでフルーツ・カクテルのコップを前へ引き寄せました。
「ああ、見ていたよ、あれならどうして、とても始めてとは思えないよ」
「そう! じゃ今度、ワン・ステップの時に譲治さんと踊って上げるわ、ね、いいでしょう?………ワン・ステップなら易しいから」
「あの連中はどうしたんだい、浜田君と熊谷君は?」
「え、今来るわよ、綺羅子と猿を引っ張って。───フルーツ・カクテルをもう二つ言ったらいいわ」
「そう言えば何だね、今ピンク色は西洋人と踊っていたようだね」
「ええ、そうなのよ、それが
と、ナオミはコップの底を視つめ、ゴクゴクと
「あの西洋人は友達でも何でもないのよ、それがいきなり猿の所へやって来て、踊って下さいッて言ったんだって。つまりこっちを馬鹿にしているのよ、紹介もなしにそんな事を言うなんて、きっと
「じゃ、断わればよかったじゃないか」
「だからさ、それが滑稽じゃないの。あの猿が又、相手が西洋人だもんだから、断わり切れないで踊ったところが! ほんとうにいい馬鹿だわ、恥ッ
「だけどお前、そうツケツケと悪口を言うもんじゃないよ。傍で聞いていてハラハラするから」
「大丈夫よ、あたしにはあたしで考えがあるわよ。───なあに、あんな女にはそのくらいのことを言ってやった方がいいのよ、でないとこっちまで迷惑するから。まアちゃんだって、あれじゃ困るから注意してやるって言っていたわ」
「そりゃ、男が言うのはいいだろうけれど、………」
「ちょいと! 浜ちゃんが綺羅子を連れて来たわよ、レディーが来たら直ぐに椅子から立つもんよ。───」
「あの、御紹介します、───」
と、浜田は私たち二人の前に、兵士の「気をつけ」のような姿勢で立ち止まりました。
「これが春野綺羅子嬢です。───」
こういう場合、「この女はナオミに比べて
「初めまして、………」
と、
ナオミは
私が引け目を感ずると同時に、ナオミも引け目を感じたに違いありません。綺羅子が席へ交じってから、ナオミはさっきの
「浜さん、黙っていないで何か
と、そんな風にぼつぼつ始めました。
「わたくし?」
と綺羅子は言って、
「ついこの間からですの」
「あたくし」
と、ナオミも相手の「わたくし」口調に釣り込まれながら、
「今拝見しておりましたけれど、随分お上手でいらっしゃいますのね、よっぽどお習いになりましたの?」
「いいえ、わたくし、やる事はあの、前からやっておりますけれど、ちっとも上手になりませんのよ、不器用だものですから、………」
「あら、そんなことはありませんわ。ねえ浜さん、あんたどう思う?」
「そりゃ
「まあ、あんなことを仰っしゃって」
と、綺羅子はぽうッとはにかんだような素振りを見せて、
「でもほんとうにお上手よ、見わたしたところ、男で一番巧いのは浜さん、女では綺羅子さん………」
「まあ」
「何だい、ダンスの品評会かい? 男で一番うめえのは何と言っても
と、そこへ熊谷がピンク色の洋服を連れて割り込んで来ました。
このピンク色は、熊谷の紹介に
「まアちゃん、あんた猿は嫌い?」
と、突然ナオミがそんな事を言いました。
「猿───」
そう言って熊谷は、ぷっと吹き出したくなるのを我慢しながら、
「何でえ、妙なことを聞くじゃねえか」
「あたしの家に猿が二匹飼ってあるのよ、だからまアちゃんが好きだったら、一匹分けて上げようと思うの。どう! まアちゃんは猿が好きじゃない?」
「あら、猿を飼っていらっしゃいますの?」
と真顔になって、菊子がそれを尋ねたので、ナオミはいよいよ図に乗りながらいたずら好きの眼を光らして、
「ええ、飼っておりますの、菊子さんは猿がお好き?」
「わたくし、動物は何でも好きでございますわ、犬でも猫でも───」
「そうして猿でも?」
「ええ、猿でも」
その問答があまりおかしいので、熊谷は
「ふん、あの女はよっぽど馬鹿だよ、少し血の
やがて八番目のワン・ステップが始まって、熊谷と菊子が踊り場の方へ行ってしまうと、ナオミは綺羅子のいる前をも
「ねえ、綺羅子さん、あなたそうお思いにならなかった?」
「まあ、何でございますか、………」
「いいえ、あの方が猿みたいな感じがするでしょ、だからあたし、わざと猿々ッて言ってやったんですよ」
「まあ」
「みんながあんなに笑っているのに、気が付かないなんてよっぽど馬鹿だわ」
綺羅子は半ば
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