十四
その夜の二人の寝物語は、別にくだくだしく書くまでもありません。ナオミは私から精養軒での話を聞くと、「まあ、失敬な! 何ていう物を知らない奴等だろう!」と口汚く
「それにあたしは、譲治さんより外の男と二人ッきりでいたことなんか一度もないのよ。───ねえ、そうじゃなくって?」
ダンスに行く時も私と一緒、内で遊ぶ時も私と一緒、万一私が留守であっても、客は一人ということはない。一人で来ても「今日はこっちも一人だから」と言えば、大概遠慮して帰ってしまう。彼女の友達にはそんな不作法な男はいない。───ナオミはそう言って、
「あたしがいくら
と、言うのでした。
「それは僕だって分っているんだよ。ただあんな事を言われたのが、気持が悪かったと言うだけなんだよ」
「悪かったら、どうするって言うの? もうダンスなんか止めるって言うの?」
「止めなくってもいいけれど、なるべく誤解されないように、用心した方がいいと言うのさ」
「あたし、今も言うように用心して附き合っているじゃないの」
「だから、僕は誤解していやあしないよ」
「譲治さんさえ誤解していなけりゃ、世間の奴等が何て言おうと、恐くもないわ。どうせあたしは、乱暴で口が悪くって、みんなに憎まれるんだから。───」
そして彼女は、ただ私が信じてくれ、愛してくれれば沢山だとか、自分は女のようでないから自然男の友達が出来、男の方がサッパリしていて自分も好きだものだから、彼等とばかり遊ぶのだけれど、色の恋のというようなイヤらしい気持は少しもないとか、センチメンタルな、甘ったるい口調で繰り返して、最後には例の「十五の歳から育てて
が、そんなに長く話をしながら浜田と熊谷の名前だけは、故意にか偶然にか、不思議に彼女は言いませんでした。私も実はこの二つの名を言って、彼女の顔に現われる反応を見たいと思っていたのに、とうとう言いそびれてしまいました。
こんな事があってから後、私はそれとなくナオミの様子に気をつけましたが、彼女は少しずつ、あまり不自然でない程度に、在来の態度を改めつつあるようでした。ダンスにも行くことは行きますけれど、今までのように頻繁ではなく、行っても余り沢山は踊らずに、程よい処で切り上げて来る。客もうるさくはやって来ない。私が会社から帰って来ると、独りでおとなしく留守番して、小説を読むとか、編物をするとか、静かに蓄音器を聴いているとか、花壇に花を植えるとかしている。
「今日も独りで留守番かね?」
「ええ、独りよ、誰も遊びに来なかったわ」
「じゃ、
「始めから独りときまっていれば、淋しいことなんかありゃしないわ、あたし平気よ」
そう言って、
「あたし、
「ああ、そう言えばそんな風だったね。ダイヤモンド・カフェエにいた時分なんか、仲間の者ともあんまり口を利かないで、少し
「ええ、そう、あたしはお
「大人しいのは結構だけれど、陰鬱になられても困るなア」
「でもこの間じゅうのように、暴れるよりはよくはなくって?」
「そりゃいくらいいかも知れないよ」
「あたし、
そしていきなり私に飛び着いて、両手で首ッ玉を抱きしめながら、眼が
「どうだね、
と、私の方から誘いをかけても、
「どうでも───譲治さんが行きたいなら、───」
と、浮かぬ顔つきで生返辞をしたり、
「それより活動へ行きましょうよ、今夜はダンスは気が進まないわ」
というようなこともよくありました。
又あの、四五年前の、純な楽しい生活が、二人の間に戻って来ました。私とナオミとは水入らずの二人きりで、毎晩のように浅草へ出かけ、活動小屋を
「そう言えばパパさんは、この頃あたしをお湯に入れてくれないのね、あの時分にはあたしの体を始終洗ってくれたじゃないの」
「ああそうそう、そんな事もあったっけね」
「あったっけじゃないわ、もう洗ってくれないの? こんなにあたしが大きくなっちゃ、洗うのは
「厭なことがあるもんか、今でも洗ってやりたいんだけれど、実は遠慮していたんだよ」
「そう? じゃ、洗って
こんな会話があってから、ちょうど幸い行水の季節になって来たので、私は再び、物置きの隅に捨ててあった西洋
「譲治さん、あたしいくらかせいが伸びた?」
「ああ、伸びたとも。もうこの頃じゃ僕とあんまり違わないようだね」
「今にあたし、譲治さんより高くなるわよ。この間目方を計ったら十四貫二百あったわ」
「驚いたね、僕だってやっと十六貫足らずだよ」
「でも譲治さんはあたしより重いの? ちびの癖に」
「そりゃ重いさ、いくらちびでも男は骨組が頑丈だからな」
「じゃ、今でも譲治さんは馬になって、あたしを乗せる勇気がある?───来たての時分にはよくそんなことをやったじゃないの。ほら、あたしが背中へ
「うん、あの時分には軽かったね、十二貫ぐらいなもんだったろうよ」
「今だったらば譲治さんは
「潰れるもんかよ。譃だと思うなら乗ってごらん」
二人は冗談を言った末に、昔のように又馬ごっこをやったことがありました。
「さ、馬になったよ」
と、そう言って、私が四つん
「まあ、何ていう小さなよたよた馬だろう! もっとしっかり! ハイハイ、ドウドウ!」
と叫びながら、面白そうに脚で私の腹を締めつけ、手綱をグイグイとしごきます。私は彼女に潰されまいと一生懸命に力み返って、汗を
「譲治さん、今年の夏は久振りで鎌倉へ行かない?」
八月になると、彼女は言いました。
「あたし、あれッきり行かないんだから行って見たいわ」
「なるほど、そう言えばあれッきりだったかね」
「そうよ、だから今年は鎌倉にしましょうよ、あたしたちの記念の土地じゃないの」
ナオミのこの言葉は、どんなに私を喜ばしたことでしょう。ナオミの言う通り、私たちが新婚旅行?───まあ言って見れば新婚旅行に出かけたのは鎌倉でした。鎌倉ぐらいわれわれに取って記念になる土地はないはずでした。あれから後も毎年どこかへ避暑に行きながら、すっかり鎌倉を忘れていたのに、ナオミがそれを言い出してくれたのは、全く素晴らしい思いつきでした。
「行こう、是非行こう!」
私はそう言って、一も二もなく賛成しました。
相談が
私は最初、今度はまさか金波楼でもあるまいから、少し気の利いた旅館へ泊まるつもりでしたが、それが図らずも間借りをするようになったのは、「大変都合のいいことを杉崎女史から聞いた」と言って、この植木屋の離れの話をナオミが持って来たからでした。ナオミの言うには、旅館は不経済でもあり、あたり近所に気がねもあるから、間借りが出来れば一番いい。で、仕合わせなことに、女史の
「ね、こんな
と、ナオミは言いました。
「だってお前、会社があるからそんなに長くは遊べないよ」
「だけど鎌倉なら、毎日汽車で通えるじゃないの、ね、そうしない?」
「しかし、そこがお前の気に入るかどうか見て来ないじゃあ、………」
「ええ、あたし明日でも行って見て来るわ、そしてあたしの気に入ったら極めてもいい?」
「極めてもいいけれど、ただというのも気持が悪いから、そこを何とか話をつけて置かなけりゃあ、………」
「そりゃ分ってるわ。譲治さんは忙しいだろうから、いいとなったら杉崎先生の所へ行って、お金を取ってくれるように頼んで来るわ。まあ百円か百五十円は払わなくっちゃ。………」
こんな調子で、ナオミは独りでぱたぱたと進行させて、家賃は百円ということに折れ合い、金の取引も彼女がすっかり済ませて来ました。
私はどうかと案じていましたが、行って見ると思ったより好い家でした。貸間とはいうものの、
「や、これはいい、非常に気分がゆったりするね」
「いい家でしょう? 大森とどっちがよくって?」
「ずっとこの方が落ち着くね、これなら幾らでもいられそうだよ」
「それ御覧なさい、だからあたしがここにしようって言ったんだわ」
そう言ってナオミは得意でした。
「ナオミさん?」
と、不意に私たちの顔の上で、そう呼んだ者がありました。
見ると、それは熊谷でした。たった今海から上がったらしく、
「おや、まアちゃん、いつ来たの?」
「今日来たんだよ、───てっきりお前にちげえねえと思ったら、やっぱりそうだった」
そして熊谷は海に向って手を挙げながら、
「おーい」
と呼ぶと、沖の方でも、
「おーい」
と誰かが返辞をしました。
「誰? あそこに泳いでいるのは?」
「浜田だよ、───浜田と関と中村と、四人で今日やって来たんだ」
「まあ、そりゃ大分
「ヘッ、そんな景気のいいんじゃねえんだ。あんまり暑くって仕様がねえから、ちょっと日帰りでやって来たのよ」
ナオミと彼とがしゃべっている所へ、やがて浜田が上がって来ました。
「やあ、
「そういう訳でもないんですが、ナオミが飽きたと言うもんだから」
「そうですか、そりゃ
「つい二三日前からですよ。長谷の植木屋の離れ座敷を借りているんです」
「そりゃほんとにいい所よ、杉崎先生のお世話でもって今月一杯の約束で借りたの」
「
と、熊谷が言いました。
「じゃ、当分ここにいるんですか」
と浜田は言って、
「だけど鎌倉にもダンスはありますよ。今夜も実は海浜ホテルにあるんだけれど、相手があれば行きたいところなんだがなア」
「いやだわ、あたし」
と、ナオミはにべもなく言いました。
「この暑いのにダンスなんか禁物だわ、又そのうちに涼しくなったら出かけるわよ」
「それもそうだね、ダンスは夏のものじゃないね」
そう言って浜田は、つかぬ様子でモジモジしながら、
「おい、どうするいまアちゃん───もう一遍泳いで来ようか?」
「やあだア、
「これから行くって、どこへ行くのよ?」
と、ナオミは浜田に尋ねました。
「何か面白い事でもあるの?」
「なあに、
「そう? そんなに窮屈なの?」
「窮屈も窮屈も、女中が出て来て三つ指を
そう言いながら、熊谷はすぐに立とうとはしないで脚を伸ばして、どっかと浜へ腰を据えたまま、砂を
「ではどうです、僕等と一緒に晩飯をたべませんか。
ナオミも浜田も熊谷も、一としきり黙り込んでしまったので、私はどうもそう言わなければ、バツが悪いような気がしました。
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