十三
当時、私のこんなふしだらな有様は、会社の者は誰も知らないはずでした。家にいる時と会社にいる時と、私の生活は
ところが
「おい、河合君、まあかけ給え」
と、ニヤニヤ笑いながら呼び止めたのは、Sという男でした。Sはほんのり
「まあ、そう逃げんでもいいじゃないか、これからどこかへお出かけかね、この雨の降るのに。───」
と、Sはそう言って、どっちつかずに
「いや、そういう訳じゃないけれど、………」
「じゃ、真っ直ぐにお帰りかね」
そう言ったのはHでした。
「ああ、済まないけど、失敬させてくれ給え。僕の所は大森だから、こんな天気には
「あははは、
と、今度はTが言いました。
「おい、河合君、種はすっかり上がってるんだぜ」
「何が?………」
「種」とはどういう意味なのか、Tの言葉を判じかねて、私は少し
「驚いたなアどうも、君子とばかり思っていたのになア………」
と、次にはKが無闇と感心したように首をひねって、
「河合君がダンスをするというに至っちゃあ、何しろ時勢は進歩したもんだよ」
「おい、河合君」
と、Sはあたりに遠慮しながら、私の耳に口をつけるようにしました。
「その、君が連れて歩いている素晴らしい美人というのは何者かね? 一遍僕等にも紹介し給え」
「いや紹介するような女じゃないよ」
「だって、帝劇の女優だっていう話じゃないか。………え、そうじゃないのか、活動の女優だという噂もあるし、混血児だという説もあるんだが、その女の巣を言い給え。言わなけりゃ帰さんよ」
私が明らかに不愉快な顔をして、口を
「え、君、その女はダンスでなけりゃあ呼べないのか?」
私はもう少しで「馬鹿ッ」と言ったかも知れませんでした。まだ会社では恐らく誰も気がつくまいと思っていたのは、
「馬鹿ッ、人の細君を
この堪え難い侮辱に対して、私は当然、血相を変えてこう怒鳴りつけるところでした。いや、たしかにほんの一瞬間、私はさッと顔色を変えました。
「おい、河合々々、教えろよ、ほんとに!」
と、奴等は私の人の好いのを見込んでいるので、どこまでもずうずうしく、Hがそう言ってKの方を振り向きながら、
「なあ、K、君はどこから聞いたんだって言ったけな。───」
「僕ア慶応の学生から聞いたよ」
「ふん、何だって?」
「僕の
「おい、名前は何て言うんだ?」
と、Tが横合から首を出しました。
「名前は………ええと、………妙な名だったよ、………ナオミ、………ナオミと言うんじゃなかったかな」
「ナオミ?………じゃあやっぱり混血児かな」
そう云ってSは、冷やかすように私の顔を
「混血児だとすると、女優じゃないな」
「何でも偉い発展家だそうだぜ、その女は。盛んに慶応の学生なんかを荒らし
私は変な、
「ふん、ふん、そいつあ頼もしいや!」
とSはすっかり恐悦しながら言うのでした。
「君の親戚の学生と言うのも、その女と何かあったのかい?」
「いや、そりゃどうだか知らないが、友達のうちに二三人はあるそうだよ」
「
Tがそう言うと、みんな一度に私を見上げて笑いました。
「なあに、ちっとぐらい心配させたって構わんさ。われわれに内証でそんな美人を専有しようとするなんて心がけが
「あはははは、どうだ河合君、君子もたまにはイキな心配をするのもよかろう?」
「あはははは」
もはや私は、怒るどころではありませんでした。誰が何と言ったのかまるで聞こえませんでした。ただどっという笑い声が、両方の耳にがんがん響いただけでした。
とにかく私は、何が何やら上の空で喫煙室を飛び出しました。そしてぬかるみの往来へ立って冷めたい雨に打たれるまでは、足が大地に着きませんでした。いまだに後から何かが追い駆けて来るような心地で、私はどんどん銀座の方へ逃げ伸びました。
………ナオミが非常な発展家だ。学生たちを荒らし廻る?………そんな事が有り得るだろうか? 有り得る、たしかに有り得る、近頃のナオミの様子を見れば、そう思わないのが不思議なくらいだ。実は
けれどもまさか、………まさか事実じゃないのじゃなかろうか? ナオミは生意気にはなったが、でも品性は気高い女だ。己はその事をよく知っている。うわべは己を
私はいつの間にか新橋を渡り、芝口の通りを真っ直ぐにぴちゃぴちゃ泥を
「そうだ。己はぐずぐずしている場合じゃないんだ」
そう思うと私は、急いで田町の停車場へ駆けつけました、一分、二分、三分………と、やっと三分目に電車が来ましたが、私は
ナオミ、ナオミ! 己はどうして今夜彼女を置き去りにして来たのだろう。ナオミが傍にいないからいけないんだ、それが一番悪い事なんだ。───私はナオミの顔さえ見れば、このイライラした心持が幾らか救われる気がしました。彼女の
が、それにしても、もしも彼女が再び雑魚寝をしようなどと言い出したら、自分は何と言うべきだろうか? この後自分は、彼女に対し、彼女に寄りつく浜田や熊谷や、その他の有象無象に対し、どんな態度を執るべきだろうか? 自分は彼女の怒りを犯しても、敢然として監督を厳にするべきであろうか? それで彼女が大人しく自分に承服すればいいが、反抗したらどうなるだろう? いや、そんなことはない。「自分は今夜会社の奴等に甚だしい侮辱を受けた。だからお前も世間から誤解されないように、少し行動を慎しんでおくれ」と言えば、外の場合とは違うから、彼女自身の名誉のためにでも、恐らく言うことを聴くであろう。もしその名誉も誤解も顧みないようなら、正しく彼女は怪しいのだ。Kの話は事実なのだ。もし、………ああ、そんな事があったら………
私は努めて冷静に、出来るだけ心を落ち着けて、この最後の場合を想像しました。彼女が私を欺いていたことが明らかになったとしたら、私は彼女を許せるだろうか?───正直のところ、既に私は彼女なしには一日も生きて行かれません。彼女が堕落した罪の一半は
露骨に言えば彼女の貞操その物よりも、ずっとこの方が頭痛の種でした。彼女を糾明し、
しかし私は、この点になるとナオミの方にも同じ弱点があることを知っていました。なぜなら彼女は、私と一緒に暮らしてこそ思う存分の
そうだ、そう言えばいつか英語の時間にナオミがノートを引き裂いた時、己が怒って「出て行け」と言ったら、彼女は降参したじゃないか。あの時彼女に出て行かれたらどんなに困ったか知れないのだが、己が困るより彼女の方がもっと困るのだ。己があっての彼女であって、己の傍を離れたが最後、再び社会のどん底へ落ちてこの世の下積みになってしまう。それが彼女には余程恐ろしいに違いないのだ。その恐ろしさは今もあの時と変わりはあるまい。もはや彼女も
私は大森の駅へ着くまでに、いくらか勇気を取り返しました。どんな事があってもナオミと私とは別れるような運命にはならない、もうそれだけはきっと確かだと思えました。
家の前までやって来ると、私の忌まわしい想像はすっかり外れて、アトリエの中は真っ暗になっており、一人の客もないらしく、しーんと静かで、ただ屋根裏の四畳半に明りが
「ああ、一人で留守番をしているんだな、───」
私はほっと胸を
締まりのしてある玄関の扉を
「ナオミちゃん、
そう言っても返事がないので、
「この女が己を欺いている? そんな事があるだろうか?………この、現在己の眼の前で平和な呼吸をつづけている女が?………」
私は
ナオミは一体、その肌の色が日によって黄色く見えたり白く見えたりするのでしたが、ぐっすり寝込んでいる時や起きたばかりの時などは、いつも非常に
私は
「いつ帰ったの?」
すう、すう、すう、と、安らかに繰り返されていた寝息が少し乱れたかと思うと、やがて彼女は眼を開きました。その憂鬱な表情をまだどこやらに残しながら、………
「今、………もう少し前」
「なぜあたしを起こさなかった?」
「呼んだんだけれど起きなかったから、そうッとして置いたんだよ」
「そこにすわって、何をしてたの?───寝顔を見ていた?」
「ああ」
「ふッ、おかしな人!」
そう言って彼女は、子供のようにあどけなく笑って、伸ばしていた手を私の膝に載せました。
「あたし今夜は独りぽっちで詰まらなかったわ。誰か来るかと思ったら、誰も遊びに来ないんだもの。………ねえ、パパさん、もう寝ない?」
「寝てもいいけれど、………」
「よう、寝てよう!………ごろ寝しちゃったもんだから、方々蚊に
言われるままに、私は彼女の腕だの背中だのを暫く搔いてやりました。
「ああ、ありがと、
私はガウンを持って来て、大の字なりに倒れている彼女の体を抱き
「
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