二十
彼女の俥が行ってしまうと、私はどういう積りだったか直ぐに懐中時計を出して、時間を見ました。ちょうど午後零時三十六分、………ああそうか、さっき彼女が曙楼を出て来たのが十一時、それからあんな
「まずほッとした! 重荷が下りた!」
何しろ私はこの間じゅうの暗闘に疲れ切っていた際だったので、そう思うと同時にぐったり椅子に腰かけたままぼんやりしてしまいました。咄嗟の感じは、「ああ有難い、やっとのことで解放された」というような、せいせいとした気分でした。それというのが私は単に精神的に疲労していたばかりでなく、生理的にも疲労していたので、一度ゆっくり休養したいということは、むしろ私の肉体の方が痛切に要求していたのです。たとえばナオミというものは非常に強い酒であって、あまりその酒を飲み過ぎると体に毒だと知りながら、毎日々々、その
が、今も言うようにそれは全く咄嗟の感じで、正直のところ、そのせいせいした心持が続いたのは、一時間ぐらいなものだったでしょう。まさか私の肉体がいくら頑健だからといって、ほんの一時間やそこらの間に疲労が
「お前は馬鹿だぞ、大変なことをしちまったんだぞ、ちっとやそっとの不都合があっても、それと『あの顔』と引き換えになると思っているのか。あれだけの美はこの後決して、二度と世間にありはしないぞ」
私は誰かにそう言われているような気がし始め、ああ、そうだった、自分は実に詰まらないことをしてしまった。彼女を怒らせないように、とあんなに不断から用心していながら、こういう結末になったというのは魔がさしたのに違いないんだと、そんな考えがどこからともなく頭を
たった一時間前まではあれほど彼女を荷厄介にし、その存在を呪った私が、今は反対に自分を呪い、その軽率を悔いるようになったというのは? あんな憎らしかった女が、こんなにも恋しくなって来るとは? この急激な心の変化は私自身にも説明の出来ないことで、恐らく恋の神様ばかりが知っている謎でありましょう。私はいつの間に立ち上がって、部屋を
この物語を最初から読んでおられる読者は、多分覚えておられるでしょうが、私は「ナオミの成長」と題する一冊の記念
「ああ飛んでもない! 己はほんとに大変な女を逃がしてしまった」
私は心も狂おしくなり、
私のナオミを恋うる心は加速度を
しかしナオミが何と言っても、事件が事件であるから、早速誰かが飛んで来なければならないはずだが、………もし当人が「詑りになんか行かない」と言うなら、姉か兄貴が代りにやって来るところだが、………それともナオミの親兄弟は誰も親身にナオミのことを案じてなんぞいないのだろうか? ちょうどナオミが彼等に対して冷淡なように、彼等も昔からナオミに就いては何の責任も負わなかった。「あの
けれどもその晩、待てど暮らせどナオミの使いは来ませんでした。私はあたりが真っ暗になるまで電灯をつけずに置いたので、もしも空家と間違えられたら大変だと思って、慌てて家じゅうの部屋という部屋へ明りを
私はほとんどまんじりともしないで一と夜を明かし、明くる日の午後六時頃まで待ちましたけれど、それでも何の沙汰もないので、もう
花屋敷のうしろの方の、入り組んだ路次の中にある千束町の家へ着いたのは大方七時頃でしたろう。さすがに極まりが悪いので私はそっと格子をあけ、
「あの、大森から来たんですが、ナオミは参っておりましょうか?」
と、土間に立ったまま小声で言いました。
「おや、河合さん」
と、姉は私の言葉を聞きつけて次の間の方から首を出しましたが、
「へえ、ナオミちゃんが?───いいえ、参ってはおりませんが」
「そりゃ
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