私が自分は野暮な人間であるにもかかわらず、趣味としてはハイカラを好み、万事につけて西洋流を真似したことは、既に読者も御承知のはずです。しも私に十分な金があって、ずいままな事が出来たら、私はあるいは西洋に行って生活をし、西洋の女を妻にしたかも知れませんが、それは境遇が許さなかったので、日本人のうちではとにかく西洋人くさいナオミを妻としたような訳です。それにもう一つは、たとい私に金があったとしたところで、男振りに就いての自信がない。何しろ背が五尺二寸という小男で、色が黒くて、歯並びが悪くて、あの堂々たる体格の西洋人を女房に持とうなどとは、身の程を知らな過ぎる。やはり日本人には日本人同士がよく、ナオミのようなのが一番自分の注文にまっているのだと、そう考えて結局私は満足していたのです。

 が、そうは言うものの、はくせき人種の婦人に接近し得ることは、私に取って一つの喜び、───いや、喜び以上の光栄でした。有体に言うと、私は私の交際下手と語学の才の乏しいのにあいを尽かして、そんな機会は一生めぐって来ないものとあきらめを附け、たまに外人団のオペラを見るとか、活動写真の女優の顔にむとかして、わずかに彼等の美しさを夢のように慕っていました。しかるに図らずもダンスの稽古は、西洋の女───おまけにそれも伯爵の夫人───と接近する機会を作ったのです。ハリソン嬢のようなお婆さんは別として、私が西洋の婦人と握手する「光栄」に浴したのは、その時が生まれて始めてでした。私はシュレムスカヤ夫人がその「白い手」を私の方へさし出したとき、覚えず胸をどとさせて、それを握っていいものかどうか、ちょっとちゆうちよしたくらいでした。

 ナオミの手だって、しなやかでつやがあって、指が長々とほっそりしている、もちろん優雅でないことはない。が、その「白い手」はナオミのそれのように過ぎないで、たなごごろが厚くたっぷりと肉を持ち、指もなよなよと伸びていながら、弱々しい薄っぺらな感じがなく、「太い」と同時に「美しい手」だ。───と、私はそんな印象を受けました。そこに篏めている眼玉のようにギラギラした大きなゆびも、日本人ならきっといやになるでしょうに、かえって指を繊麗に見せ、気品の高い、ごうしやな趣を添えています。そして何よりもナオミと違っていたところは、その皮膚の色の異常な白さです。白い下にうすい紫の血管が、大理石のはんもんを想わせるように、ほんのり透いて見えるせいえんさです。私は今までナオミの手をにしながら、

「お前の手は実にきれいだ、まるで西洋人の手のように白いね」

と、よくそう言って褒めたものですが、こうして見ると、残念ながらやっぱり違います。白いようでもナオミの白さはえていない、いや、いつたんこの手を見たあとでは黒くさえ思われます。それからもう一つ私の注意をいたのは、その爪でした。十本の指頭のことごとくが、同じ貝殻を集めたように、どれも鮮かに小爪が揃って、桜色に光っていたばかりでなく、大方これが西洋の流行はやりなのでもありましょうか、爪の先が三角形に、ぴんととがらせて切ってあったのです。

 ナオミは私と並んで立つと一寸ぐらい低かったことは、前に記した通りですが、夫人は西洋人としては小柄のように見えながら、それでも私よりは上背があり、かかとの高い靴を穿いているせいか、一緒に踊るとちょうど私の頭とすれすれに、彼女のあらわな胸がありました。夫人が始めて、

“Walk with me!”

と言いつつ、私の背中へ腕をまわしてワン・ステップの歩み方を教えたとき、私はどんなにこの真っ黒な私の顔が彼女の肌に触れないように、遠慮したことでしょう。その滑かなせいな皮膚は、私に取ってはただ遠くから眺めるだけで十分でした。握手してさえ済まないように思われたのに、その柔らかな羅衣うすものを隔てて彼女の胸に抱きかかえられてしまっては、私は全くしてはならないことをしたようで、自分の息が臭くはなかろうか、このした脂ッ手が不快を与えはしなかろうかと、そんな事ばかり気にかかって、たまたま彼女の髪の毛一と筋が落ちて来ても、ヒヤリとしないではいられませんでした。

 それのみならず夫人の体には一種の甘い匂がありました。

「あの女アひでえ腋臭わきがだ、とてもくせえや!」

と、例のマンドリンの学生たちがそんな悪口を言っているのを、私は後で聞いたことがありますし、西洋人には腋臭が多いそうですから、夫人も多分そうだったに違いなく、それを消すために始終注意して香水をつけていたのでしょうが、しかし私にはその香水と腋臭との交じった、甘酸ッぱいようなほのかな匂が、決して厭でなかったばかりか、常に言い知れぬわくでした。それは私に、まだ見たこともない海の彼方かなたの国々や、世にもたえなる異国の花園を思い出させました。

「ああ、これが夫人の白い体から放たれる香気か」

と、私はこうこつとなりながら、いつもその匂をむさぼるようにいだものです。

 私のようなな、ダンスなどという花やかな空気には最も不適当であるべき男が、ナオミのためとは言いながら、どうしてその後飽きもしないで、一と月も二た月もけいに通う気になったか。───私はあえて白状しますが、それは確かにシュレムスカヤ夫人というものがあったからです。毎月曜日と金曜日の午後、夫人の腕に抱かれて踊ること。そのの一時間が、いつの間にか私の何よりの楽しみとなっていたのです。私は夫人の前に出ると、全くナオミの存在を忘れました。その一時間はたとえば芳烈な酒のように、私を酔わせずには置きませんでした。

「譲治さんは思いの外熱心ね、直きイヤになるかと思ったら。───」

「どうして?」

「だって、僕にダンスが出来るかななんて言ったアじゃないの」

 ですから私は、そんな話が出るたびに、何だかナオミに済まないような気がしました。

「やれそうもないと思ったけれど、やってみると愉快なもんだね。それにドクトルの言い草じゃないが、非常に体の運動になる」

「それ御覧なさいな、だから何でも考えていないで、やって見るもんだわ」

と、ナオミは私の心の秘密には気がつかないで、そう言って笑うのでした。

 さて、大分稽古を積んだからもうそろそろよかろうというので、始めて私たちが銀座のカフェエ・エルドラドオへ出かけたのは、その年の冬のことでした。まだその時分、東京にはダンス・ホールがそう沢山なかったので、ていこくホテルやげつえんを除いたら、そのカフェエがその頃ようやくやり出したくらいのものだったでしょう。で、ホテルや花月園は外国人が主であって、服装や礼儀がやかましいそうだから、まず手初めにはエルドラドオがよかろう、と、そういうことになったのでした。もつともそれはナオミがどこからか噂を聞いて来て「是非行って見よう」と発議したので、まだ私にはおおびらな場所で踊るだけの度胸はなかったのですが、

「駄目よ、譲治さんは!」

と、ナオミは私をにらみつけて、

「そんな気の弱いことを言っているから駄目なのよ。ダンスなんていうものは、稽古ばかりじゃいくらやったって上手になりッこありゃしないわよ。人中へ出てずうずうしく踊っているうちにうまくなるものよ」

「そりゃあたしかにそうだろうけれども、僕にはその、ずうずうしさがないもんだから………」

「じゃいいわよ、あたし独りでも出かけるから。………浜さんでもでも誘って行って、踊ってやるから」

ていうのはこの間のマンドリン俱楽部の男だろう?」

「ええ、そうよ、あの人なんか一度も稽古しないくせにどこへでも出かけて行って相手構わず踊るもんだから、もうこの頃じゃすっかり巧くなっちゃったわ。譲治さんよりずっと上手だわ。だからずうずうしくしなけりゃ損よ。………ね、いらっしゃいよ、あたし譲治さんと踊って上げるわ。………ね、後生だから一緒に来て!………、好い児、譲治さんはほんとに好い児!」

 それで結局出かけることに話がまると、今度は「何を着て行こう」でまた長いこと相談が始まりました。

「ちょっと譲治さん、どれがいいこと?」

と、彼女は出かける四五日も前から大騒ぎをして、有るだけのものを引っ張り出して、それに一々手を通して見るのです。

「ああ、それがいいだろう」

と、私もしまいには面倒になって好い加減な返辞をすると、

「そうかしら? これでおかしかないかしら?」

と鏡の前をぐるぐるまわって、

「変だわ、何だか。あたしこんなのじゃ気に入らないわ」

と、すぐ脱ぎ捨てて、かみくずのように足でしわばして、又次の奴を引っかけて見ます。が、あの着物もいや、この着物もいやで、

「ねえ、譲治さん、新しいのをこしらえてよ!」

となるのでした。

「ダンスに行くにはもっと思いきり派手なのでなけりゃ、こんな着物じゃ引き立ちはしないわ。よう! 拵えてよう! どうせこれからちょいちょい出かけるんだから、しようがなけりゃ駄目じゃないの」

 その時分、私の月々の収入はもはや到底彼女のぜいたくには追いつかなくなっていました。元来私は金銭上の事にかけてはなかなかちようめんな方で、独身時代にはちゃんと毎月の小遣いを定め、残りはたといわずかでも貯金するようにしていましたから、ナオミと家を持った当座はかなりの余裕があったものです。そして私はナオミの愛におぼれていましたけれど、会社の仕事は決しておろそかにしたことはなく、依然としてせいれいかくごんな模範的社員だったので、重役の信用も次第に厚くなり、月給の額も上って来て、半期半期のボーナスを加えれば、平均月に四百円になりました。だから普通に暮らすのなら二人で楽な訳であるのに、それがどうしても足りませんでした。細かいことを言うようですが、まず月々の生活費が、いくら内輪に見積もっても二百五十円以上、場合によっては三百円もかかります。このうち家賃が三十五円、───これは二十円だったのが四年間に十五円上がりました。───それから瓦斯ガス代、電灯代、水道代、しんたん代、西洋洗濯代等の諸雑費を差し引き、残りの二百円内外から二百三四十円というものを、何に使ってしまうかというと、その大部分はものでした。

 それもそのはずで、子供の頃には一品料理のビフテキで満足していたナオミでしたが、いつの間にやらだんだん口がおごって来て、三度の食事のたびごとに「何がたべたい」「かにがたべたい」と、歳に似合わぬ贅沢を言います。おまけにそれも材料を仕入れて、自分で料理するなどという面倒臭いことは嫌いなので、大概近所の料理屋へ注文します。

「あーあ、何かうまい物がたべたいなア」

と、退屈するとナオミの言い草はきっとそれでした。そして以前は洋食ばかり好きでしたけれど、この頃ではそうでもなく、三度に一度は「何屋のおわんがたべて見たい」とか、「どこそこの刺身を取って見よう」とか、生意気なことを言います。

 ひるは私は会社にいますから、ナオミ一人でたべるのですが、かえってそういう折の方がその贅沢は激しいのでした。夕方、会社から帰って来ると、台所の隅に仕出し屋のや、洋食屋のいれものなどが置いてあるのを、私はしばしば見ることがありました。

「ナオミちゃん、お前又何か取ったんだね! お前のように物ばかりべていた日にゃお金がかかって仕様がないよ。第一女一人でもってそんな真似をするなんて、少しはもつたいないという事を考えてごらん」

 そう言われてもナオミは一向平気なもので、

「だって、一人だからあたし取ったんだわ、拵えるのが面倒なんだもの」

と、わざとて、ソォファの上にふん反り返っているのです。

 この調子だからたまったものではありません。だけならまだしもですが、時には御飯を炊くのさえおつくうがって、飯まで仕出し屋から運ばせるという始末でした。で、月末になると、鳥屋、牛肉屋、日本料理屋、西洋料理屋、すしうなぎ屋、菓子屋、果物屋と、方々から持って来る請求書の締め高が、よくもこんなに喰べられたものだと、驚くほど多額に上ったのです。

 喰い物の次にかさんだのは西洋洗濯の代でした。これはナオミが足袋たび一足でも決して自分で洗おうとせず、汚れ物はべてクリーニングに出したからです。そしてたまたま叱言こごとを言えば、二た言目には、

「あたし女中じゃないことよ」

と言います。

「そんな、洗濯なんかすりゃあ、指が太くなっちゃって、ピアノが弾けなくなるじゃないの、譲治さんはあたしの事を何と言って? 自分の宝物だって言ったじゃないの? だのにこの手が太くなったらどうするのよ」

と、そう言います。

 最初のうちこそナオミは家事向きの用をしてくれ、勝手元の方を働きもしましたが、それが続いたのはほんの一年か半年ぐらいだったでしょう。ですから洗濯物などはまだいいとして、何より困ったのは家の中が日増しに乱雑に、不潔になって行くことでした。脱いだものは脱ぎッ放し、喰べた物は喰べッ放しという有様で、喰い荒した皿小鉢だの、飲みかけのちやわんみだの、あかじみた肌着や湯文字だのが、いつ行って見てもそこらに放り出してある。床はもちろん椅子でもテーブルでもほこりが溜っていないことはなく、あのせつかく印度インドさらの窓かけも最早や昔日のおもかげとどめずすすけてしまい、あんなに晴れやかな「小鳥のかご」であったはずのお伽噺とぎの家の気分は、すっかり趣を変えてしまって、部屋へはいるとそういう場所に特有な、むうッと鼻をくような臭いがする。

 私もこれには閉口して、

「さあさあ、僕が掃除をしてやるから、お前は庭へ出ておいで」

と、掃いたりハタいたりして見たこともありますけれど、ハタけばハタくほどが出て来るばかりでなく、余り散らかり過ぎているので、片附けたくとも手の附けようがないのでした。

 これでは仕方がないというので、二三度女中を雇ったこともありましたが、来る女中も来る女中もみんなあきれて帰ってしまって、五日と辛抱しているものはありませんでした。第一初めからそういう積りはなかったので、女中が来ても寝るところがありません。そこへ持って来て私たちの方でも不遠慮なが出来なくなって、ちょっと二人でふざけるのにも何だか窮屈な思いをする。ナオミは人手が殖えたとなると、いよいよ横着を発揮して、横のものを縦にもしないで、一々女中をコキ使います。そして相変わらず「何屋へ行って何を注文して来い」と、かえって前より便利になっただけ、余計贅沢を並べます。結局女中というものは非常に不経済でもあり、われわれの「遊び」の生活に取って邪魔でもあるので、向こうも恐れをなしたでしょうが、こちらもたつていてもらいたくはなかったのです。

 そういう訳で、月々の暮らしがそれだけはかかるとして、あとの百円か百五十円のうちから、月に十円か二十円ずつでも貯金をしたいと思ったのですが、ナオミの銭遣いが激しいので、そんな余裕はありませんでした。彼女は必ず一と月に一枚は着物を作ります。いくらや銘仙でも裏と表とを買って、しかも自分で縫う事はせず、仕立て賃をかけますから、五十円や六十円は消えてなくなる。そうして出来上った品物は、気に入らなければ押入れの奥へ突っ込んだまままるで着ないし、気に入ったとなるとひざが抜けるまで着殺してしまう。ですから彼女の戸棚の中には、ぼろぼろになった古着が一杯詰まっていました。それからの贅沢を言います。草履、駒下駄、あし、日和下駄、雨ぐり、余所よそ行きの下駄、不断の下駄───これ等が一足七八円から二三円どまりで、十日間に一遍ぐらいは買うのですから、積もって見ると安いものではありません。

「こう下駄を穿いちゃ溜らないから、靴にしたらいいじゃないか」

と言って見ても、昔は女学生らしくはかまをつけて靴で歩くのを喜んだ癖に、もうこの頃では、けいに行くにも着流しのままと出かけるという風で、

「あたしこう見えても江戸ッよ、はどうでも穿きものだけはチャンとしないじゃ気が済まないわ」

と、こちらを田舎者扱いにします。

 小遣いなども、音楽会だ、電車賃だ、教科書だ、雑誌だ、小説だと、三円五円くらいずつ三日に上げず持って行きます。この外に又英語と音楽の授業料が二十五円、これは毎月規則的に払わなければなりません。と、四百円の収入で以上の負担に堪えるのは容易でなく、貯金どころかあべこべに貯金を引き出すようになり、独身時代にいくらか用意して置いたものもチビチビ成し崩しに崩れて行きます。そして、金というものは手を付け出したら誠に早いものですから、この三四年間にすっかり蓄えを使い果して、今では一文もないのでした。

 因果な事には私のような男の常として、借金の断りを言うのは不得手、従って勘定はキチンキチンと払わなければどうも落ち着いておられないので、晦日みそかが来ると言うに言われない苦労をしました。「そう使っちゃ晦日が越せなくなるじゃないか」とたしなめても、

「越せなければ、待って貰えばいいわよ」

と言います。

「───三年も四年も一つ所に住んでいながら、晦日の勘定が延ばせないなんて法はないわよ。半期々々にはきっと払うからって言えば、どこでも待つにきまっているわ。譲治さんは気が小さくって融通が利かないからいけないのよ」

 そう言った調子で、彼女は自分の買いたいものはべて現金、月々の払いはボーナスがはいるまであとまわしというやり方。そのくせやはり借金の言訳をするのは嫌いで、

「あたしそんなこと言うのはいやだわ、それは男の役目じゃないの」

と、月末になればフイとどこかへ飛び出して行きます。

 ですから私は、ナオミのために自分の収入を全部ささげていたと言ってもいいのでした。彼女を少しでもよくれいにさせて置くこと、不自由な思いや、ケチ臭いことはさせないで、のんびりと成長させていること、───それはもとより私の本懐でしたから、困る困ると愚痴りながらも彼女のぜいたくを許してしまいます。するとそれだけ他の方面を切り詰めなければならない訳で、幸い私は自分自身の交際費はちっともかかりませんでしたが、それでもに会社関係の会合などがあった場合、義理を欠いても逃げられるだけ逃げるようにする。その外自分の小遣い、被服費、弁当代などを、思い切って節約する。毎日通う省線電車もナオミは二等の定期を買うのに、私は三等で我慢をする。飯を炊くのが面倒なので、物を取られては大変だから、私が御飯を炊いてやり、こしらえてやることもある、が、そういう風になって来るとそれが又ナオミには気に入りません。

「男のくせに台所なんぞ働かなくってもいいことよ、見ッともないわよ」

と、そう言うのです。

「譲治さんはまあ、年が年中同じ服ばかり着ていないで、もう少し気の利いたをしたらどうなの? あたし、自分ばかり良くったって譲治さんがそんな風じゃあやっぱり厭だわ。それじゃ一緒に歩けやしないわ」

 彼女と一緒に歩けなければ何の楽しみもありませんから、私にしても所謂いわゆる「気の利いた」服の一つも拵えなければならなくなる。そして彼女と出かける時は電車も二等に乗らなければならない。つまり彼女の虚栄心を傷つけないようにするためには、彼女一人の贅沢では済まない結果になるのでした。

 そんな事情でりに困っていたところへ、この頃又シュレムスカヤ夫人の方へ四十円ずつ取られますから、この上ダンスのしようを買ってやったりしたらも行かなくなります。けれどもそれを聴き分けるようなナオミではなく、ちょうど月末のことなので、私のふところに現金があったものですから、なおさらそれを出せといって承知しません。

「だってお前、今この金を出しちまったら、すぐに晦日に差支えるのが分っていそうなもんじゃないか」

「差支えたってどうにかなるわよ」

「どうにかなるって、どうなるのさ。どうにもなりようはありゃしないよ」

「じゃあ何のためにダンスなんか習ったのよ。───いいわ、そんなら、もう明日からどこにも行かないから」

 そう言って彼女は、その大きな眼に露をたたえて、恨めしそうに私をにらんで、と黙ってしまうのでした。

「ナオミちゃん、お前怒っているのかい、………え、ナオミちゃん、ちょっと、………こっちを向いておくれ」

 その晩、私は床の中にはいってから、背中を向けて寝たふりをしている彼女の肩を揺す振りながらそう言いました。

「よう、ナオミちゃん、ちょっとこっちをお向きッてば。………」

 そして優しく手をかけて、魚の骨つきを裏返すように、ぐるりとこちらへ引っくりかえすと、抵抗のないしなやかな体は、うっすらと半眼を閉じたまま、素直に私の方を向きました。

「どうしたの? まだ怒ってるの?」

「………」

「え、おい、………怒らないでもいいじゃないか、どうにかするから、………」

「………」

「おい、眼をお開きよ、眼を………」

 言いながら、まつがぶるぶるふるえている眼瞼まぶたの肉をりあげると、貝の実のように中からそっとのぞいているとした眼の玉は、寝ているどころか真正面に私の顔を視ているのです。

「あの金で買って上げるよ、ね、いいだろう、………」

「だって、そうしたら困りゃしない?………」

「困ってもいいよ、どうにかするから」

「じゃあ、どうする?」

「国へそう言って、金を送ってもらうからいいよ」

「送ってくれる?」

「ああ、それあ送ってくれるとも。僕は今まで一度も国へ迷惑をかけたことはないんだし、二人で一軒持っていればいろいろ物がかかるだろうぐらいなことは、おふくろだって分っているに違いないから。………」

「そう? でもおかあさんに悪くはない?」

 ナオミは気にしているような口ぶりでしたが、その実彼女の腹の中には、「田舎へ言ってやればいいのに」と、とうからそんな考えがあったことは、うすうす私にも読めていました。私がそれを言い出したのは彼女の思うつぼだったのです。

「なあに、悪い事なんかなんにもないよ。けれども僕の主義として、そういう事は厭だったからしなかったんだよ」

「じゃ、どういう訳で主義を変えたの?」

「お前がさっき泣いたのを見たら可哀そうになっちゃったからさ」

「そう?」

と言って、波が寄せて来るような工合に胸をうねらせて、はずかしそうにほほ笑みを浮かべながら、

「あたし、ほんとに泣いたかしら?」

「もうへも行かないッて、眼に一杯涙をためていたじゃないか。いつまでたってもお前はまるでだね、大きなベビちゃん………」

「私のパパちゃん! 可愛いパパちゃん!」

 ナオミはいきなり私のくびにしがみつき、その唇の朱のなついんを繁忙な郵便局のスタンプ掛りがすように、額や、鼻や、眼瞼の上や、みみたぶの裏や、私の顔のあらゆる部分へ、寸分の隙間もなくぺたぺたと捺しました。それは私に、何か、椿の花のような、と重い、そして露けく軟かい無数の花びらが降って来るような快さを感じさせ、その花びらの薫りの中に、自分の首がすっかり埋まってしまったような夢見心地を覚えさせました。

「どうしたの、ナオミちゃん、お前はまるで気違いのようだね」

「ああ、気違いよ。………あたし今夜は気違いになるほど譲治さんが可愛いんだもの。………それともうるさい?」

「うるさいことなんかあるものか、僕もうれしいよ、気違いになるほど嬉しいよ、お前のためならどんな犠牲を払ったって構やしないよ。………おや、どうしたの? 又泣いてるの?」

「ありがとよ、パパさん、あたしパパさんに感謝してるのよ、だからひとりでに涙が出るの。………ね、分った? 泣いちゃいけない? いけなけりゃいてちようだい

 ナオミは懐から紙を出して、自分では拭かずに、それを私の手の中へ握らせましたが、ひとみはじッと私の方へ注がれたまま、今拭いて貰うその前に、一層涙をこんこんと睫毛の縁まであふれさせているのでした。ああ何という潤いを持った、れいな眼だろう。この美しい涙の玉をそうッとこのまま結晶させて、取って置く訳には行かないものかと思いながら、私は最初に彼女の頰を拭いてやり、その円々と盛り上がった涙の玉に触れないようにがんの周りをぬぐうてやると、皮がたるんだり引っ張れたりするたびごとに、玉はいろいろな形にまれて、凸面レンズのようになったり、凹面レンズのようになったり、しまいにははらはらと崩れてせっかく拭いた頰の上に再び光の糸をきながら流れて行きます。すると私はもう一度その頰を拭いてやり、まだいくらかはれている眼玉の上をでてやり、それからその紙で、かすかなえつをつづけている彼女の鼻のあなをおさえ、

「さ、はなをおかみ」

と、そう言うと、彼女は「チーン」と鼻を鳴らして、幾度も私に洟をかませました。

 その明くる日、ナオミは私から二百円貰って、一人で三越へ行き、私は会社でひるの休みに、母親へ宛てて始めて無心状を書いたものです。

「………何分の頃は物価高く、二三年前とは驚くほどの相違にて、さしたるぜいたくを致さざるにも不拘かかわらず、月々の経費に追われ、都会生活もなかなか容易に無之これなく、………」

と、そう書いたのを覚えていますが、親に向かってこんな上手なうそを言うほど、それほど自分が大胆になってしまったかと思うと、私は我ながら恐ろしい気がしました。が、母は私を信じている上に、せがれの大事な嫁としてナオミに対しても慈愛を持っていたことは、二三日してからもとに届いた返辞を見ても分りました。手紙の中には「なおみに着物でも買っておやり」と私が言ってやったよりも百円余計為替かわせが封入してあったのです。

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