九
私が自分は野暮な人間であるにも
が、そうは言うものの、
ナオミの手だって、しなやかで
「お前の手は実にきれいだ、まるで西洋人の手のように白いね」
と、よくそう言って褒めたものですが、こうして見ると、残念ながらやっぱり違います。白いようでもナオミの白さは
ナオミは私と並んで立つと一寸ぐらい低かったことは、前に記した通りですが、夫人は西洋人としては小柄のように見えながら、それでも私よりは上背があり、
“Walk with me!”
と言いつつ、私の背中へ腕を
それのみならず夫人の体には一種の甘い匂がありました。
「あの女アひでえ
と、例のマンドリン
「ああ、これが夫人の白い体から放たれる香気か」
と、私は
私のようなぶきッちょな、ダンスなどという花やかな空気には最も不適当であるべき男が、ナオミのためとは言いながら、どうしてその後飽きもしないで、一と月も二た月も
「譲治さんは思いの外熱心ね、直きイヤになるかと思ったら。───」
「どうして?」
「だって、僕にダンスが出来るかななんて言ったアじゃないの」
ですから私は、そんな話が出るたびに、何だかナオミに済まないような気がしました。
「やれそうもないと思ったけれど、やってみると愉快なもんだね。それにドクトルの言い草じゃないが、非常に体の運動になる」
「それ御覧なさいな、だから何でも考えていないで、やって見るもんだわ」
と、ナオミは私の心の秘密には気がつかないで、そう言って笑うのでした。
さて、大分稽古を積んだからもうそろそろよかろうというので、始めて私たちが銀座のカフェエ・エルドラドオへ出かけたのは、その年の冬のことでした。まだその時分、東京にはダンス・ホールがそう沢山なかったので、
「駄目よ、譲治さんは!」
と、ナオミは私を
「そんな気の弱いことを言っているから駄目なのよ。ダンスなんていうものは、稽古ばかりじゃいくらやったって上手になりッこありゃしないわよ。人中へ出てずうずうしく踊っているうちに
「そりゃあたしかにそうだろうけれども、僕にはその、ずうずうしさがないもんだから………」
「じゃいいわよ、あたし独りでも出かけるから。………浜さんでもまアちゃんでも誘って行って、踊ってやるから」
「まアちゃんていうのはこの間のマンドリン俱楽部の男だろう?」
「ええ、そうよ、あの人なんか一度も稽古しないくせにどこへでも出かけて行って相手構わず踊るもんだから、もうこの頃じゃすっかり巧くなっちゃったわ。譲治さんよりずっと上手だわ。だからずうずうしくしなけりゃ損よ。………ね、いらっしゃいよ、あたし譲治さんと踊って上げるわ。………ね、後生だから一緒に来て!………
それで結局出かけることに話が
「ちょっと譲治さん、どれがいいこと?」
と、彼女は出かける四五日も前から大騒ぎをして、有るだけのものを引っ張り出して、それに一々手を通して見るのです。
「ああ、それがいいだろう」
と、私もしまいには面倒になって好い加減な返辞をすると、
「そうかしら? これでおかしかないかしら?」
と鏡の前をぐるぐる
「変だわ、何だか。あたしこんなのじゃ気に入らないわ」
と、すぐ脱ぎ捨てて、
「ねえ、譲治さん、新しいのを
となるのでした。
「ダンスに行くにはもっと思いきり派手なのでなけりゃ、こんな着物じゃ引き立ちはしないわ。よう! 拵えてよう! どうせこれからちょいちょい出かけるんだから、
その時分、私の月々の収入はもはや到底彼女の
それもそのはずで、子供の頃には一品料理のビフテキで満足していたナオミでしたが、いつの間にやらだんだん口が
「あーあ、何か
と、退屈するとナオミの言い草はきっとそれでした。そして以前は洋食ばかり好きでしたけれど、この頃ではそうでもなく、三度に一度は「何屋のお
「ナオミちゃん、お前又何か取ったんだね! お前のようにてんや物ばかり
そう言われてもナオミは一向平気なもので、
「だって、一人だからあたし取ったんだわ、おかず拵えるのが面倒なんだもの」
と、わざとふてくされて、ソォファの上にふん反り返っているのです。
この調子だから
喰い物の次に
「あたし女中じゃないことよ」
と言います。
「そんな、洗濯なんかすりゃあ、指が太くなっちゃって、ピアノが弾けなくなるじゃないの、譲治さんはあたしの事を何と言って? 自分の宝物だって言ったじゃないの? だのにこの手が太くなったらどうするのよ」
と、そう言います。
最初のうちこそナオミは家事向きの用をしてくれ、勝手元の方を働きもしましたが、それが続いたのはほんの一年か半年ぐらいだったでしょう。ですから洗濯物などはまだいいとして、何より困ったのは家の中が日増しに乱雑に、不潔になって行くことでした。脱いだものは脱ぎッ放し、喰べた物は喰べッ放しという有様で、喰い荒した皿小鉢だの、飲みかけの
私もこれには閉口して、
「さあさあ、僕が掃除をしてやるから、お前は庭へ出ておいで」
と、掃いたりハタいたりして見たこともありますけれど、ハタけばハタくほどごみが出て来るばかりでなく、余り散らかり過ぎているので、片附けたくとも手の附けようがないのでした。
これでは仕方がないというので、二三度女中を雇ったこともありましたが、来る女中も来る女中もみんな
そういう訳で、月々の暮らしがそれだけはかかるとして、あとの百円か百五十円のうちから、月に十円か二十円ずつでも貯金をしたいと思ったのですが、ナオミの銭遣いが激しいので、そんな余裕はありませんでした。彼女は必ず一と月に一枚は着物を作ります。いくらめりんすや銘仙でも裏と表とを買って、しかも自分で縫う事はせず、仕立て賃をかけますから、五十円や六十円は消えてなくなる。そうして出来上った品物は、気に入らなければ押入れの奥へ突っ込んだ
「こう下駄を
と言って見ても、昔は女学生らしく
「あたしこう見えても江戸ッ
と、こちらを田舎者扱いにします。
小遣いなども、音楽会だ、電車賃だ、教科書だ、雑誌だ、小説だと、三円五円くらいずつ三日に上げず持って行きます。この外に又英語と音楽の授業料が二十五円、これは毎月規則的に払わなければなりません。と、四百円の収入で以上の負担に堪えるのは容易でなく、貯金どころかあべこべに貯金を引き出すようになり、独身時代にいくらか用意して置いたものもチビチビ成し崩しに崩れて行きます。そして、金というものは手を付け出したら誠に早いものですから、この三四年間にすっかり蓄えを使い果して、今では一文もないのでした。
因果な事には私のような男の常として、借金の断りを言うのは不得手、従って勘定はキチンキチンと払わなければどうも落ち着いておられないので、
「越せなければ、待って貰えばいいわよ」
と言います。
「───三年も四年も一つ所に住んでいながら、晦日の勘定が延ばせないなんて法はないわよ。半期々々にはきっと払うからって言えば、どこでも待つにきまっているわ。譲治さんは気が小さくって融通が利かないからいけないのよ」
そう言った調子で、彼女は自分の買いたいものは
「あたしそんなこと言うのは
と、月末になればフイとどこかへ飛び出して行きます。
ですから私は、ナオミのために自分の収入を全部
「男のくせに台所なんぞ働かなくってもいいことよ、見ッともないわよ」
と、そう言うのです。
「譲治さんはまあ、年が年中同じ服ばかり着ていないで、もう少し気の利いたなりをしたらどうなの? あたし、自分ばかり良くったって譲治さんがそんな風じゃあやっぱり厭だわ。それじゃ一緒に歩けやしないわ」
彼女と一緒に歩けなければ何の楽しみもありませんから、私にしても
そんな事情で
「だってお前、今この金を出しちまったら、すぐに晦日に差支えるのが分っていそうなもんじゃないか」
「差支えたってどうにかなるわよ」
「どうにかなるって、どうなるのさ。どうにもなりようはありゃしないよ」
「じゃあ何のためにダンスなんか習ったのよ。───いいわ、そんなら、もう明日からどこにも行かないから」
そう言って彼女は、その大きな眼に露を
「ナオミちゃん、お前怒っているのかい、………え、ナオミちゃん、ちょっと、………こっちを向いておくれ」
その晩、私は床の中にはいってから、背中を向けて寝たふりをしている彼女の肩を揺す振りながらそう言いました。
「よう、ナオミちゃん、ちょっとこっちをお向きッてば。………」
そして優しく手をかけて、魚の骨つきを裏返すように、ぐるりとこちらへ引っくり
「どうしたの? まだ怒ってるの?」
「………」
「え、おい、………怒らないでもいいじゃないか、どうにかするから、………」
「………」
「おい、眼をお開きよ、眼を………」
言いながら、
「あの金で買って上げるよ、ね、いいだろう、………」
「だって、そうしたら困りゃしない?………」
「困ってもいいよ、どうにかするから」
「じゃあ、どうする?」
「国へそう言って、金を送って
「送ってくれる?」
「ああ、それあ送ってくれるとも。僕は今まで一度も国へ迷惑をかけたことはないんだし、二人で一軒持っていればいろいろ物がかかるだろうぐらいなことは、おふくろだって分っているに違いないから。………」
「そう? でもおかあさんに悪くはない?」
ナオミは気にしているような口ぶりでしたが、その実彼女の腹の中には、「田舎へ言ってやればいいのに」と、とうからそんな考えがあったことは、うすうす私にも読めていました。私がそれを言い出したのは彼女の思う
「なあに、悪い事なんかなんにもないよ。けれども僕の主義として、そういう事は厭だったからしなかったんだよ」
「じゃ、どういう訳で主義を変えたの?」
「お前がさっき泣いたのを見たら可哀そうになっちゃったからさ」
「そう?」
と言って、波が寄せて来るような工合に胸をうねらせて、
「あたし、ほんとに泣いたかしら?」
「もうどッこへも行かないッて、眼に一杯涙をためていたじゃないか。いつまでたってもお前はまるでだだッ
「私のパパちゃん! 可愛いパパちゃん!」
ナオミはいきなり私の
「どうしたの、ナオミちゃん、お前はまるで気違いのようだね」
「ああ、気違いよ。………あたし今夜は気違いになるほど譲治さんが可愛いんだもの。………それともうるさい?」
「うるさいことなんかあるものか、僕も
「ありがとよ、パパさん、あたしパパさんに感謝してるのよ、だからひとりでに涙が出るの。………ね、分った? 泣いちゃいけない? いけなけりゃ
ナオミは懐から紙を出して、自分では拭かずに、それを私の手の中へ握らせましたが、
「さ、
と、そう言うと、彼女は「チーン」と鼻を鳴らして、幾度も私に洟をかませました。
その明くる日、ナオミは私から二百円貰って、一人で三越へ行き、私は会社で
「………何分
と、そう書いたのを覚えていますが、親に向かってこんな上手な
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます