八
ちょうどナオミが十八の歳の秋、残暑のきびしい九月初旬の
少年の歳はやはりナオミと同じくらい、上だとしてもせいぜい十九を超えてはいまいと思えました。
男は私に気がつくと、帽子を取って会釈をして、
「じゃあ、又」
と、ナオミの方を振り向いて言いながら、すぐすたすたと門の方へ歩いて来ました。
「じゃあ、さよなら」
と、ナオミもつづいて立ち上がりましたが、「さよなら」と男は、後向きのままそう言い捨てて、私の前を通る時帽子の縁へちょっと手をかけて、顔を隠すようにしながら出て行きました。
「誰だね、あの男は?」
と、私は
「あれ? あれはあたしのお友達よ、
「いつ友達になったんだい?」
「もう
言わないでもいい顔の悪口を言ったので、私はふいと疑いを起こして彼女の眼の中を見ましたけれど、ナオミの素振りは落ち着いたもので、少しも平素と異なった所はなかったのです。
「ちょいちょい遊びにやって来るのかい」
「いいえ、今日が始めてよ、近所へ来たから寄ったんだって。───今度ソシアル・ダンスの
私は多少不愉快だったのは事実ですが、しかしだんだん聞いて見ると、その少年が全くそれだけの話をしに来たのであることは、
「それでお前は、ダンスをやるって言ったのかい」
「考えて置くって言っといたんだけれど、………」
と、彼女は急に甘ったれた
「ねえ、やっちゃいけない? よう! やらしてよう! 譲治さんも俱楽部へはいって、一緒に習えばいいじゃないの」
「僕も俱楽部へはいれるのかい?」
「ええ、誰だってはいれるわ。伊皿子の杉崎先生の知っている
「お前はいいが、僕が覚えられるかなア」
「大丈夫よ、直きに覚えられるわよ」
「だけど、僕には音楽の素養がないからなア」
「音楽なんか、やってるうちに自然と分るようになるわよ。………ねえ、譲治さんもやらなきゃ駄目。あたし一人でやったって踊りに行けやしないもの。よう、そうして時々二人でダンスに行こうじゃないの。毎日々々内で遊んでばかりいたって詰まりゃしないわ」
───ナオミがこの頃、少し今までの生活に退屈を感じているらしいことは、うすうす私にも分っていました。考えてみれば私たちが大森へ巣を構えてから、既に足かけ四年になります。そしてその間私たちは、夏の休みを除く外はこの「お
「あーあ、詰まらないなア、何か面白い事はないかなア」
と、ソォファの上に反り返って読みかけの小説本をおッぽり出して、彼女が大きく
前にも言うように、私には学校時代から格別親密な友達もなく、これまで出来るだけ無駄な附合いを避けて暮らしてはいましたけれど、しかし決して社交界へ出るのが嫌ではなかったのです。田舎者で、お世辞が下手で、人との応対が我ながら無細工なので、そのために引っ込み思案になっていたものの、それだけに又、かえって一層華やかな社会を慕う心がありました。もともとナオミを妻にしたのも彼女をうんと美しい夫人にして、毎日方々へ連れ歩いて、世間の奴等に何とか
ナオミの話では、その露西亜人の舞踊の教師はアレキサンドラ・シュレムスカヤという名前の、或る伯爵夫人だということでした。夫の伯爵は革命騒ぎで行くえ不明になってしまい、子供も二人あったのだそうですが、それも今では居所が分らず、やっと自分の身一つを日本へ落ちのびて、ひどく生活に窮していたので、今度いよいよダンスの教授を始めることになったのだそうです。で、ナオミの音楽の先生である杉崎春枝女史が夫人のために俱楽部を組織し、そして幹事になったのがあの浜田という、慶応義塾の学生でした。
「第一何だわ、そのシュレムスカヤっていう人を助けてやらないじゃ気の毒だわ。昔は伯爵の夫人だったのがそんなに落ちぶれてしまうなんて、ほんとに可哀そうじゃないの。浜田さんに聞いたんだけれど、ダンスは非常に
と、まだ見たこともないその夫人に、彼女は
そういう訳で私とナオミとは、とにかく入会することになり、毎月曜日と金曜日に、ナオミは音楽の稽古を済ませ、私は会社の方が
「ナオミさん」
と、その時
「今日はア」
と、ナオミも女らしくない、書生ッぽのような口調で応じて、
「どうしたのまアちゃんは? あんたダンスやらないの?」
「やあだア、
と、そのまアちゃんと呼ばれた男は、ニヤニヤ笑ってマンドリンを棚の上に置きながら、
「あんなもなあ己あ真っ平御免だ。第一お
「だって始めて習うんなら仕方がないわよ」
「なあに、いずれそのうちみんなが覚えるだろうから、そうしたら奴等を取っ
「ずるいわまアちゃんは! あんまり要領がよ過ぎるわよ。───ところで『浜さん』は二階にいる?」
「うん、いる、行ってごらん」
この楽器屋はこの近辺の学生たちの「
「ナオミちゃん、今下にいた学生たちは、ありゃ何だね?」
と、私は彼女に導かれて梯子段を上りながら尋ねました。
「あれは慶応のマンドリン
「みんなお前の友達なのかい」
「友達っていうほどじゃないけれど、時々ここへ買い物に来るとあの人たちに会うもんだから、それで知り合いになっちゃったの」
「ダンスをやるのは、ああいう連中が主なのかなあ」
「さあ、どうだか、───そうじゃないでしょ、学生よりはもっと年を取った人が多いんじゃない?───今行って見れば分るわよ」
二階へ上ると、廊下の取っ突きに稽古場があって、「ワン、トゥウ、スリー」と言いながら足拍子を
夫人は片手に
「No!」
と、鋭く
「No good!」
と叫びながら、鞭でぴしりッと床を
「教え方が実に熱心でいらっしゃいますのね、あれでなければいけませんわ」
「ほんとうにね、シュレムスカヤ先生はそりゃ熱心でいらっしゃいますの、日本人の先生方だとどうしてもああは参りませんけれど、西洋の方はたとい御婦人でも、そこはキチンとしていらしって、全く気持がようございますのよ。そしてあの通り授業の間は一時間でも二時間でも、ちっともお休みにならないで稽古をおつづけになるのですから、この暑いのにお大抵ではあるまいと思って、アイスクリームでも差し上げようかと申すのですけれど、時間の間は何も要らないと
「まあ、よくそれでもおくたびれになりませんのね」
「西洋の方は体が出来ていらっしゃるから、わたくし共とは違いますのね。───でも考えるとお気の毒な方でございますわ。もとは伯爵の奥様で、何不自由なくお暮らしになっていらしったのが、革命のためにこういう事までなさるようになったのですから。───」
待合室になっている次の間のソォファに腰かけて、
この婦人連を取り巻いて、つつましやかに自分の番を待ち受けている人々もあり、中には既に一と通りの練習を積んだらしく、てんでに腕を組み合わせて、稽古場の隅を踊り
ああいう男が、いい歳をしてどういうつもりでダンスをやる気になったものか? いや、考えると自分もやはりあの男と同じ仲間じゃないのだろうか? それでなくても晴れがましい場所へ出たことのない私は、この婦人たちの眼の前で、あの西洋人にどやしつけられる
「やあ、いらっしゃい」
と、浜田は二三番踊りつづけて、ハンケチでにきびだらけの額の汗を
「や、この間は失礼しました」
と今日はいささか得意そうに、改めて私に
「この暑いのによく来てくれたね、───君、済まないが扇子を持ってたら貸してくれないか、何しろどうも、アッシスタントもなかなか楽な仕事じゃないよ」
ナオミは帯の間から扇子を出して渡してやって、
「でも浜さんはなかなか上手ね、アッシスタントの資格があるわ。いつから稽古し出したのよ」
「僕かい? 僕はもう
「あの、ここにいる男の連中はどういう人たちが多いんでしょうか?」
私がそう言うと、
「はあ、これですか」
と、浜田は丁寧な言葉になって、
「この人たちは大概あの、東洋石油株式会社の社員の方が多いんです。杉崎先生の
東洋石油の会社員とソシアル・ダンス!───随分妙な取り合わせだと思いながら、私は重ねて尋ねました。
「じゃあ何ですか、あのあすこにいる髭の生えた紳士も、やっぱり社員なんですか」
「いや、あれは違います、あの方はドクトルなんです」
「ドクトル?」
「ええ、やはりその会社の衛生顧問をしておられるドクトルなんです。ダンスぐらい体の運動になるものはないと言うんで、あの方は
「そう? 浜さん」
と、ナオミが口を
「そんなに運動になるのか知ら?」
「ああ、なるとも。ダンスをやったら冬でも一杯汗を
「あの夫人は日本語が分るのでしょうか?」
私がそう言って尋ねたのは、実はさっきからそれが気になっていたからでした。
「いや、日本語はほとんど分りません、大概英語でやっていますよ」
「英語はどうも、………スピーキングの方になると、僕は不得手だもんだから、………」
「なあに、みんな御同様でさあ。シュレムスカヤ夫人だって、非常なブロークン・イングリッシュで、僕等よりひどいくらいですから、ちっとも心配はありませんよ。それにダンスの稽古なんか、言葉はなんにも要りゃしません。ワン、トゥウ、スリーで、あとは身振りで分るんですから。………」
「おや、ナオミさん、いつお見えになりまして?」
と、その時彼女に声をかけたのは、あの白鼈甲の簪を挿した、支那金魚の婦人でした。
「ああ、先生、───ちょいと、杉崎先生よ」
ナオミはそう言って、私の手を執って、その婦人のいるソォファの方へ引っ張って行きました。
「あの、先生、御紹介いたします、───河合譲治───」
「ああ、そう、───」
と、杉崎女史はナオミが
「───お初にお目にかかります、わたくし、杉崎でございます。ようこそお越し下さいました。───ナオミさん、その椅子をこちらへ持っていらっしゃい」
そして再び私の方を振り返って、
「さあ、どうぞおかけ遊ばして。もう直きでございますけれど、そうして立ってお待ちになっていらしっちゃ、おくたびれになりますわ」
「………」
私は何と挨拶したかハッキリ覚えていませんが、多分口の中でもぐもぐやらせただけだったでしょう。この「わたくし」というような切口上でやって来られる婦人連が、私には最も苦手でした。そればかりでなく、私とナオミとの関係をどういう風に女史が解釈しているのか、ナオミがそれをどの点までほのめかしてあるのか、ついうっかりして
「あの御紹介いたしますが」
と、女史は私のもじもじするのに
「この方は横浜のジェームズ・ブラウンさんの奥さんでいらっしゃいます。───この方は大井町の電気会社に出ていらっしゃる河合譲治さん、───」
なるほど、するとこの女は外国人の細君だったのか、そう言われれば看護婦よりも
「あなた、失礼でございますけれど、ダンスのお
その縮れ毛はすぐに私を
「は?」
と言いながら私がへどもどしていると、
「ええ、お始めてなのでございますの」
と、杉崎女史が傍から引き取ってくれました。
「まあ、そうでいらっしゃいますか、でもねえ、何でございますわ、そりゃジェンルマンはレディーよりもモー・モー・ディフィカルトでございますけれど、お始めになれば直きに何でございますわ。………」
この「モー・モー」と言う奴が、又私には分りませんでしたが、よく聞いて見ると“more more”という意味なのです、「ジェントルマン」を「ジェンルマン」「リットル」を「リルル」、
それから再びシュレムスカヤ夫人の話、ダンスの話、語学の話、音楽の話、………ベトオヴェンのソナタが何だとか、第三シンフォニーがどうしたとか、何々会社のレコードは何々会社のレコードより良いとか悪いとか、私がすっかりしょげて黙ってしまったので、今度は女史を相手にしてぺらぺらやり出すその口ぶりから推察すると、このブラウン氏の夫人というのは杉崎女史のピアノの弟子ででもありましょうか。そして私はこんな場合に、「ちょっと失礼いたします」と、いい潮時を見計らって席を外すというような、器用な真似が出来ないので、この
やがて、髭のドクトルを始めとして石油会社の一団の稽古が終わると、女史は私とナオミとをシュレムスカヤ夫人の前へ連れて行って、最初にナオミ、次に私を、───これは多分レディーを先にするという西洋流の作法に従ったのでしょう、───極めて
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