七
その時分、私の胸には失望と愛慕と、互いに矛盾した二つのものが交る交る
「世の中の事は
───私は無理にそういう風に考えて、それで満足するように自分の気持を仕向けて行きました。
「譲治さんはこの頃英語の時間にも、あんまりあたしを馬鹿馬鹿ッて言わないようになったわね」
と、ナオミは早くも私の心の変化を
「ああ、あんまり言うとかえってお前が意地を突ッ張るようになって、結果がよくないと思ったから、方針を変えることにしたのさ」
「ふん」
と、彼女は鼻先で笑って、
「そりゃあそうよ、あんなに無闇に馬鹿々々ッて言われりゃ、あたし決して言う事なんか聴きゃしないわ、あたしほんとうはね、大概な問題はちゃんと考えられたんだけれど、わざと譲治さんを困らしてやろうと思って、出来ないふりをしてやったの、それが譲治さんには分らなかった?」
「へえ、ほんとうかね?」
私はナオミの言うことが空威張りの負け惜しみであるのを知っていながら、故意にそう言って驚いて見せました。
「当り前さ、あんな問題が出来ない奴はありゃしないわ。それを本気で出来ないと思っているんだから、譲治さんの方がよっぽど馬鹿だわ。あたし譲治さんが怒るたんびに、おかしくッておかしくッて仕様がなかったわ」
「
「どう? あたしの方が少し
「うん、悧巧だ、ナオミちゃんには
すると彼女は得意になって、腹を抱えて笑うのでした。
読者諸君よ。ここで私が突然妙な話をし出すのを、どうか笑わないで聞いて下さい。というのは、
「諸君」と、歴史の教師はその時私たちに言いました。
「このアントニーという男は女の
その言い方がおかしかったので、学生たちは教師の顔を眺めながら一度にどっと笑ったものです。そして私も、笑った仲間の一人であったことは言うまでもありません。
が、大切なのはここの処です。私は当時、アントニーともあろう者がどうしてそんな薄情な女に迷ったのか、不思議でなりませんでした。いや、アントニーばかりではない、すぐその前にもジュリアス・シーザーの如き英傑が、クレオパトラに引っかかって器量を下げている。そういう例はまだその外にいくらでもある。
私は今でもあの時の教師の言葉を胸に浮かべ、みんなと一緒にゲラゲラ笑った自分の姿を想い出すことがあるのです。そして想い出すたびごとに、もう今日では笑う資格がないことをつくづくと感じます。なぜなら私は、どういう訳で
よく世間では「女が男を欺す」と言います。しかし私の経験によると、これは決して最初から「欺す」のではありません。最初は男が自ら進んで「欺される」のを喜ぶのです。
「ははあ、
と、そんな風に男は
その証拠には私とナオミとがやはりそうでした。
「あたしの方が譲治さんより悧巧だわね」
と、そう言って、ナオミは私を欺し
一例を挙げると、私とナオミとはその頃しばしば兵隊将棋やトランプをして遊びましたが、本気でやれば私の方が勝てる訳だのに、なるべく彼女を勝たせるようにしてやったので、次第に彼女は「勝負事では自分の方がずっと強者だ」と思い上がって、
「さあ、譲治さん、一つ
などと、すっかり私を
「ふん、それじゃ一番
「まあいいわよ、勝ってから立派な口をおききなさいよ」
「よし来た! 今度こそほんとに勝ってやるから!」
そう言いながら、私はことさら下手な手を打って相変わらず負けてやります。
「どう? 譲治さん、子供に負けて
そして彼女は「やっぱり歳よりは頭だわね」とか、「自分の方が馬鹿なんだから、口惜しがったって仕方がないわよ」とか、いよいよ図に乗って、
「ふん」
と、例の鼻の先で生意気そうにせせら笑います。
が、恐ろしいのはこれから来る結果なのです。始めのうちは私がナオミの機嫌を取ってやっている。少なくとも私自身はそのつもりでいる。ところがだんだんそれが習慣になるに従って、ナオミは真に強い自信を持つようになり、今度はいくら私が本気で
人と人との勝ち負けは理智に
「ただでやったって詰まらないから、幾らか賭けてやりましょうよ」
と、もうしまいにはナオミはすっかり味をしめて、金を賭けなければ勝負をしないようになりました。すると賭ければ賭けるほど、私の負けは
「ああ、三十円あるとあの着物が買えるんだけれど。………又トランプで取ってやろうかな」
などと言いながら挑戦して来る。たまには彼女が負けることがありましたけれど、そういう時には又別の手を知っていて、是非その金が欲しいとなると、どんな真似をしても、勝たずには置きませんでした。
ナオミはいつでもその「手」を用いられるように、勝負の時は大概ゆるやかなガウンのようなものを、わざとぐずぐずにだらしなく
「ずるいよ、ナオミちゃん、そんなことをしちゃ………」
「ずるかないわよ、これだって一つの手だわよ」
ずーんと気が遠くなって、
「ずるいよ、ずるいよ、トランプにそんな手があるもんじゃない、………」
「ふん、ない事があるもんか、女と男と勝負事をすりゃ、いろんなおまじないをするもんだわ。あたし
私は思います。アントニーがクレオパトラに征服されたのも、つまりはこういう風にして、次第に抵抗力を奪われ、円め込まれてしまったのだろうと。愛する女に自信を持たせるのはいいが、その結果として今度はこちらが自信を失うようになる。もうそうなっては容易に女の優越感に打ち勝つことは出来なくなります。そして思わぬ
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