二
「ナオミちゃん、お前の顔はメリー・ピクフォードに似ているね」
と、いつのことでしたか、ちょうどその女優の映画を見てから、帰りにとある洋食屋へ寄った晩に、それが話題に上ったことがありました。
「そう」
と言って、彼女は別にうれしそうな表情もしないで、突然そんなことを言い出した私の顔を不思議そうに見ただけでしたが、
「お前はそうは思わないかね」
と、重ねて聞くと、
「似ているかどうか分らないけれど、でもみんなが私のことを
と、彼女は済まして答えるのです。
「そりゃそうだろう、第一お前の名前からして変っているもの、ナオミなんてハイカラな名前を、誰がつけたんだね」
「誰がつけたか知らないわ」
「お
「誰だか、───」
「じゃあ、ナオミちゃんのおとつあんは何の商売をしてるんだい」
「おとつあんはもういないの」
「おッ母さんは?」
「おッ母さんはいるけれど、───」
「じゃ、兄弟は?」
「兄弟は大勢あるわ、兄さんだの、姉さんだの、妹だの、───」
それから後もこんな話はたびたび出たことがありますけれど、いつも彼女は、自分の家庭の事情を聞かれると、ちょっと不愉快な顔つきをして、言葉を濁してしまうのでした。で、一緒に遊びに行くときは大概前の日に約束をして、きめた時間に公園のベンチとか、観音様のお堂の前とかで待ち合わせることにしたものですが、彼女は決して時間を
「御免よ、ナオミちゃん、大分長いこと待っただろう」
私がそう言うと、
「ええ、待ったわ」
と言うだけで、別に不平そうな様子もなく、怒っているらしくもないのでした。
そういう折の彼女の服装は、多分姉さんのお譲りらしい古ぼけた
「今夜はおそくなったから、家の前まで送って上げよう」
私は再々、そう言ったこともありましたが、
「いいわ、直き近所だから独りで帰れるわ」
と言って、
そうです、───あの頃のことを余りくどくど記す必要はありませんが、一度私は、やや打ち解けて、彼女とゆっくり話をした折がありましたっけ。
それは何でもしとしとと春雨の降る、生暖かい四月の末の宵だったでしょう。ちょうどその晩はカフェエが暇で、大そう静かだったので、私は長いことテーブルに構えて、ちびちび酒を飲んでいました。───こういうとひどく酒飲みのようですけれど、実は私は甚だ下戸の方なので、時間つぶしに、女の飲むような甘いコクテルを
「ナオミちゃん、まあちょっとそこへおかけ」
と、いくらか酔った勢いでそう言いました。
「なあに」
と言って、ナオミはおとなしく私の側へ腰をおろし、私がポケットから
「まあ、いいだろう、ここで少うししゃべって行っても。───今夜はあまり忙しくもなさそうだから」
「ええ、こんなことはめったにありはしないのよ」
「いつもそんなに忙しいかい?」
「忙しいわ、朝から晩まで、───本を読む暇もありゃしないわ」
「じゃあナオミちゃんは、本を読むのが好きなんだね」
「ええ、すきだわ」
「一体どんな物を読むのさ」
「いろいろな雑誌を見るわ、読む物なら何でもいいの」
「そりゃ感心だ、そんなに本が読みたかったら、女学校へでも行けばいいのに」
私はわざとそう言って、ナオミの顔を
「どうだね、ナオミちゃん、ほんとうにお前、学問をしたい気があるかね。あるなら僕が習わせて上げてもいいけれど」
それでも彼女が黙っていますから、私は今度は慰めるような口調で言いました。
「え? ナオミちゃん、黙っていないで何とかお言いよ。お前は何をやりたいんだい。何が習って見たいんだい?」
「あたし、英語が習いたいわ」
「ふん、英語と、───それだけ?」
「それから音楽もやってみたいの」
「じゃ、僕が月謝を出してやるから、習いに行ったらいいじゃないか」
「だって女学校へ上がるのには遅過ぎるわ。もう十五なんですもの」
「なあに、男と違って女は十五でも遅くはないさ。それとも英語と音楽だけなら、女学校へ行かないだって、別に教師を頼んだらいいさ。どうだい、お前真面目にやる気があるかい?」
「あるにはあるけれど、───じゃ、ほんとうにやらしてくれる?」
そう言ってナオミは、私の眼の中を
「ああ、ほんとうとも。だがナオミちゃん、もしそうなればここに奉公している訳には行かなくなるが、お前の方はそれで差支えないのかね。お前が奉公を止めていいなら、僕はお前を引取って世話をしてみてもいいんだけれど。………そうしてどこまでも責任を
「ええ、いいわ、そうしてくれれば」
何の
「じゃ、奉公を止めるというのかい?」
「ええ、止めるわ」
「だけどナオミちゃん、お前はそれでいいにしたって、おッ母さんや兄さんが何と言うか、家の都合を聞いて見なけりゃならないだろうが」
「家の都合なんか、聞いて見ないでも大丈夫だわ。誰も何とも言う者はありゃしないの」
と、口ではそう言っていたものの、その実彼女がそれを案外気にしていたことは確かでした。つまり彼女のいつもの癖で、自分の家庭の内幕を私に知られるのが嫌さに、わざと何でもないような素振りを見せていたのです。私もそんなに嫌がるものを無理に知りたくはないのでしたが、しかし彼女の希望を実現させるためには、やはりどうしても家庭を訪れて彼女の母なり兄なりに
「いいのよ、会ってくれないでも。あたし自分で話をするわ」
と、そう言うのが
私はここで、今では私の妻となっている彼女のために、「河合夫人」の名誉のために、強いて彼女の不機嫌を買ってまで、当時のナオミの
世の中には随分無責任な親や兄弟もあるものだと、私はその時つくづくと感じましたが、それだけ一層ナオミがいじらしく、哀れに思えてなりませんでした。何でも母親の言葉に
が、ナオミの家庭がそういう風であったことは、ナオミに取っても私に取っても非情に幸いだった訳で、話が極まると直きに彼女はカフェエから暇を貰い、毎日々々私と二人で適当な借家を捜しに歩きました。私の勤め先が大井町でしたから、成るべくそれに便利な所を
もしあの時分、
「まあ
と、さも
「じゃ、ナオミちゃんは何の花が一番好きだね」
と、尋ねてみたとき、
「あたし、チューリップが一番好きよ」
と、彼女はそう言ったことがあります。
浅草の千束町のような、あんなゴミゴミした路次の中に育ったので、かえってナオミは反動的にひろびろとした田園を慕い、花を愛する習慣になったのでありましょうか。
「もうその花はみんな
そう言っても彼女はなかなか承知しないで、
「大丈夫よ、水をやったら又すぐ生きッ返るから、河合さんの机の上に置いたらいいわ」
と、別れるときにその花束をいつも私にくれるのでした。
こうして方々捜し廻っても容易にいい家が見つからないで、散々迷い抜いた揚句、結局私たちが借りることになったのは、大森の駅から十二三町行ったところの省線電車の線路に近い、とある一軒の甚だお粗末な洋館でした。
ナオミは最初この家の「風景」を見ると、
「まあ、ハイカラだこと! あたしこういう家がいいわ」
と、大そう気に入った様子でした。そして私も、彼女がそんなに喜んだのですぐ借りることに賛成したのです。
多分ナオミは、その子供らしい考えで、間取りの工合など実用的でなくっても、お
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