三
私がいよいよナオミを引取って、その「お伽噺の家」へ移ったのは、五月下旬のことでしたろう。はいって見ると思ったほどに不便でもなく、日あたりのいい屋根裏の部屋からは海が眺められ、南を向いた前の空地は花壇を造るのに都合がよく、家の近所をときどき省線の電車の通るのが
「ナオミちゃん、これからお前は私のことを『河合さん』と呼ばないで『譲治さん』とお呼び。そしてほんとに友達のように暮らそうじゃないか」
と、引っ越した日に私は彼女に言い聞かせました。勿論私の郷里の方へも、今後下宿を引き払って一軒家を持ったこと、女中代りに十五になる少女を雇い入れたこと、などを知らせてやりましたけれど、彼女と「友達のように」暮らすとは言ってやりませんでした。国の方から身内の者が訪ねて来ることはめったにないのだし、いずれそのうち、知らせる必要が起こった場合には知らせてやろうと、そう考えていたのです。
私たちは
が、ナオミのために田舎から送ってよこしたのは、女中を寝かす夜具でしたから、お約束の唐草模様のゴワゴワした木綿の
「これではちょっとひど過ぎるね、僕の布団と一枚取換えて上げようか」
と、そう言いましたが、
「ううん、いいの、あたしこれで沢山」
と言って、彼女はそれを引っ
私は彼女の隣の部屋───同じ屋根裏の、四畳半の方へ寝るのでしたが、毎朝々々、眼をさますと私たちは、向こうの部屋とこちらの部屋とで、布団の中にもぐりながら声を掛け合ったものでした。
「ナオミちゃん、もう起きたかい」
と、私が言います。
「ええ、起きてるわ、今もう何時?」
と、彼女が応じます。
「六時半だよ、───今朝は僕がおまんまを炊いてあげようか」
「そう? 昨日あたしが炊いたんだから、今日は譲治さんが炊いてもいいわ」
「じゃ仕方がない、炊いてやろうか。面倒だからそれともパンで済ましとこうか」
「ええ、いいわ、だけど譲治さんは随分ずるいわ」
そして私たちは、御飯がたべたければ小さな
「譲治さん、今日はビフテキをたべさせてよ」
などと彼女は、よくそんなことを言ったものです。
朝飯を済ませると、私はナオミを独り残して会社へ出かけます。彼女は午前中は花壇の草花をいじくったりして、午後になるとからッぽの家に錠をおろして、英語と音楽の
英語はむしろ始めから西洋人に就いた方がよかろうというので、目黒に住んでいる
「ハイ、ハイ、ドウ、ドウ!」
と言いながら、ナオミは
やはりそういう遊びの日の出来事でしたろう、───ナオミがきゃっきゃっと笑いながら、あまり元気に
「おい、どうしたの、───どこを打ったんだか見せてごらん」
と、私がそう言って抱き起こすと、彼女はそれでもまだしくしくと鼻を鳴らしつつ、
「何だい、これッぽちの事で泣くなんて! さ、
そして膏薬を貼ってやり、手拭を裂いて
しかし、私は既にその頃ナオミを恋していたかどうか、それは自分にはよく分りません。そう、たしかに恋してはいたのでしょうが、自分自身のつもりではむしろ彼女を育ててやり、立派な婦人に仕込んでやるのが楽しみなので、ただそれだけでも満足出来るように思っていたのです。が、その年の夏、会社の方から二週間の休暇が出たので、毎年の例で私は帰省することになり、ナオミを浅草の実家へ預け、大森の家に戸締りをして、さて田舎へ行って見ると、その二週間というものが、
「ナオミちゃん、帰って来たよ。角に自動車が待たしてあるから、これからすぐに大森へ行こう」
「そう、じゃ今すぐ行くわ」
と言って、彼女は私を格子の外へ待たして置いて、やがて小さな
「ナオミちゃん、毎日何をしていたんだい?」
車が
「あたし毎日活動写真を見に行ってたわ」
「じゃ、別に淋しくはなかったろうね」
「ええ、別に淋しいことなんかなかったけれど、………」
そう言って彼女はちょっと考えて、
「でも譲治さんは、思ったより早く帰って来たのね」
「田舎にいたって詰まらないから、予定を切り上げて来ちまったんだよ。やっぱり東京が一番だなァ」
私はそう言ってほっと
「だけどあたし、夏は田舎もいいと思うわ」
「そりゃ田舎にもよりけりだよ、僕の家なんか草深い百姓家で、近所の景色は平凡だし、名所
「まあ、そんな
「そんな所さ」
「あたし、どこか、海水浴へ行きたいなあ」
突然そう言ったナオミの口調には、だだッ児のような可愛らしさがありました。
「じゃ、近いうちに涼しい
「温泉よりは海がいいわ───行きたいなア、ほんとうに」
その無邪気そうな声だけを聞いていると、やはり以前のナオミに違いないのでしたが、何だかほんの十日ばかり見なかった間に、急に身体が伸び伸びと育って来たようで、モスリンの単衣の下に息づいている円みを持った肩の形や乳房のあたりを、私はそっと
「この着物はよく似合うね、誰に縫って貰ったの?」
と、
「おッ
「内の評判はどうだったい、見立てが上手だと言わなかったかい」
「ええ、言ったわ、───悪くはないけれど、あんまり柄がハイカラ過ぎるッて、───」
「おッ母さんがそう言うのかい」
「ええ、そう、───内の人たちにゃなんにも分りゃしないのよ」
そう言って彼女は、遠い所を視つめるような眼つきをしながら、
「みんながあたしを、すっかり変わったって言ってたわ」
「どんな風に変わったって?」
「恐ろしくハイカラになっちゃったって」
「そりゃそうだろう、僕が見たってそうだからなあ」
「そうか知ら。───一遍頭を日本髪に結ってごらんて言われたけれど、あたしイヤだから結わなかったわ」
「じゃあそのリボンは?」
「これ? これはあたしが
と言って、
「ああ、よく映るね、こうした方が日本髪よりいくらいいか知れやしない」
「ふん」
と、彼女はその
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